隣のベッドの死にたガール
零真似
入院しますあまのじゃくボーイ
この、鼻をつく病院独特の匂い――堪らなく大好きだ。
これだけだと僕が変態に映るかもしれないから、取って付けた理由でも述べようか。
――皆が嫌いというから、好きだ。
僕こと速水(はやみ)一郎(いちろう)は、まあ言ってしまえばそういう人間である。意味もなく反論反逆し、人と違う見解見識を持ちたがる。自他共に認める”あまのじゃく”。
と、そんな言い方をすると僕が至極捻くれ者に聞こえるかもしれない。けれど本当はそんな取っ付きにくい人間じゃないことを明言しておく。僕はただ”やるなと言われるとやりたくなる”、少年のようにピュアな心を持った存在なのだ。
で、なぜそんな僕が今こうして車イスに乗って筋骨隆々の屈強なナ―スに後ろから押されているかというと。僕が所属しているバスケ部での、ある練習前のことだ。いつもは形だけの顧問が、その日に限って何やら感化されたらしく、
『ストレッチはしっかりやれよ。でないと体を壊す元だ。いいな、絶対に怠ることなく、入念にだぞ』なんてことを仰り出した。
――当然、僕はストレッチを怠った。だってもう完全に振りじゃん。『押すなよ? 絶対に押すなよ!?』みたいなもんじゃん。少なくとも僕にはそう聞こえた。
だからお座なりに準備運動を終わらせ、迎えた我が部恒例スリ―オンスリ―の時間。敵選手にドンガラガッシャ―ンと衝突し、ボキボキバッキ―ンと右の腕と足を骨折。
『病院に行け、今すぐにだ!』なんて顧問がまた振るからあっけらかんと練習を続けようとしたところを部員に止められ連行され、包帯を肩と股からぐるぐる巻いて今に至るというわけである。
「ここだよ」
ナ―ス帽を浮かせる程のくるくるパ―マの筋肉兵士。咄嗟に浮かんだニックネ―ム、『マッチョさん』が案内してくれた315号室。そこは数台の無人ベッドが軒を連ねる、団体用大部屋だった。
「たぶん一ヶ月くらいの検査入院になるから」
彼女は僕がこれからお世話になるベッドを乱雑に整えながら大変簡素に説明し、忙しいから
と部屋を後にする。僕の性格上、
『病院食だからって残しちゃダメよ』
なんて言われると十中八九食べたくてもあえて残してしまうため良かったのだけど。
「クスクス、やったわ。年の近そうなお隣さんがやって来たわ」
そういえば『早く退院してね』と言われると僕はどうするのだろうかなんて分かりきった疑問を抱いて自分に呆れていると、不意に乳白色のカ―テンレ―ルで覆われた隣のベッドから、そんな独り言が聞こえてきた。
入院したのも初めてだったが、実際に”クスクス”をこうもはっきり言葉にして笑う人間に僕はこれまで触れたことがなかった。どうせこれから学校の勉強が懐かしいと思えるほど暇になるのは見え透いていたし、あわよくば友達になれないかと耳を澄ませてみる。
「ああ、だけどこんなエブリデイシックインベッドな私に、友達なんて夢のような存在ができるのかしら。ドヨ―ン」
時折顔を出す擬音語はなんなのだろう?
「……そうよ。どうせ長くない命。いずれ切れる繋がりなら、最初から結ばないほうが得策ね。ションボリ」
どうやら彼女の病は重いらしい。そりゃ独り言も変になるわけだ。いや、その理屈はおかしいか。
……それにしても、この胸の底から込み上げてくる思いはなんだ?何かを期待しているようにそわそわと。何かを願っているように沸々と。気持ちが落ち着かない。
「ああ、こんな人生ならいっそ────」
けれどそこまで聴いて、目眩く自問に確かな答えが出た。それまでの不明を眩く照らす明答。僕は側にあったリモコンを使ってベッドを起こし、バサリとカ―テンを開けながらニヒルに笑って尋ねる。
「死にたいのかい?」
そこにいたのは、綺麗に手入れされた背まである長い黒髪を肩に乗せ、遠く彼方をぼんやり見つめる乙女。それも美少女。ただし薄幸オ―ラ全開の。彼女の首がスロ―モ―ションでこちらに向く。三秒はあった。そしてクリクリの瞳に僕を映しながら口を開く。
「キョ、キョトン?」
疑問形? こっちがキョトンである。まあそれでも意味は通じたので、もう一度。
「キミは死にたいのかい?」
出来うる限りの真面目な顔で、同じく誠意を伝えるべく目を見て尋ねた。
彼女は考えているのか、漠然と漠然を楽しんでいるのか。しばらくこちらを黙ってただじっと見つめる。ようやく動きがあったのは、そろそろ僕の沈黙耐性に限界がやってきた頃。ゆっくりと。じっくりと。彼女は再度、視線を窓の向こうに投げた。その先にあるのは、駐車場脇で冬の寒風に晒され震える枯れ葉の生った木。ヒュルリ。そんな音でも聞こえてきそうな一陣が、その中の一枚をさらっていく。それを儚げに見つめながら、
「コクリ」
言葉と同じく頷いた。
「私、もうあんまり長くないの。次の年は笑ってられないだろうって。ニコリ」
悲しげに、力なく笑う彼女の水晶のように澄んだ瞳の奥には、諦めの陰りが差していた。
「どうせ終わるなら早くしてほしい。いつ来るか分からない死を待つのは嫌。心が壊れそうになる」
出会って初めての会話が、こんなにも切実で重々しいものでいいのだろうか。
否。良い悪いじゃない。続けてほしい。そう、これは願いだ。あまのじゃくな僕は普段、他人の命令や願望を聴いてから、それと逆のことをしたいと望む。つまり受け身の姿勢。反抗さえできればそれでいい。
ただしこのときばかりは。僕は”あまのじゃくであるために、彼女から溢れるたった一言を待ち望んでいた”。もっと言うと、僕は久方ぶりに抗いたい対象を見つけた。
息を飲んでそれを待つ。だから彼女からそれが単純明快に口にされたとき、
「……あ~あ、早く死にたいなぁ。ションボリ」
僕は悦を覚えた。そんなことをヒラリ落ち行く枯れ葉を見ながら呟かれたら、最早いてもたってもいられない。
────儚い願望を踏みにじってやりたくなるじゃないか。
そうか。このドロドロでグチャクチャした形容し難い感情がそうなのか。
これが────恋だ。
「おい、キミ」
「はい?」
彼女は振り向き不思議そうに首を捻る。たぶんこのときの僕の顔は、実験対象を見つけたマッドサイエンティストと相違なかったと思う。
「名前は?」
「あっ、これはどうも初めまして。私の名前は──」
「いや、いい。今日からキミは”死にたガ―ル”だ」
「どんなネ―ミングセンスですか!? ガ―ン!」
中のいろいろが飛び出そうなくらいに見開かれる目。なかなかにおもしろくなりそうだ。
「なあ、死にたガ―ル。キミは友達が欲しかったんだろ?」
死にたガ―ルは恥ずかしそうに俯き、
「カクン」
僅か頬を赤く染め、小さく首を縦に振った。
後に否定する。
「でももういいんです。自問自答して突き詰めた結果、どうせ友達なんて出来てもすぐにお別れする運命なんで」
「そんな運命、この僕が反逆してやる」
「えっ……?」
無事な方の手で拳を作り、胸を一叩き。
「だから死にたガ―ル。今から僕とキミは友達だ」
我ながら、良くこんな無責任で無鉄砲なことを宣(のたま)えたと思う。でも言えたのだから、それは紛れもない事実だ。
嬉しさ半分、戸惑い半分といったところだろう。
「コクリ」
それでも彼女は言葉を噛み締めるように頷いた。
「よし、これで必要な過程は終了した」
「ハテナ?」
死にたガ―ルから重複表現なんていう新たな”独特”が発見されたところで、僕は僕の望みを提案。
「それじゃあお友達から始めたことだし、死にたガ―ル!」
「ビクリ!」
人差し指を突き出し差すと、彼女は体を強ばらせる。そんな仕草が可愛いなあなんて思いながら、続けた。
「今日からキミは僕の恋人だ!」
僕は恋をしたんだ。ならばあとは、このドロドロを実らせるのみである。
死にたガ―ル、固まっていた。地蔵のように硬直していた。そりゃそうか。たしかに少し唐突に進展させすぎた。やはりここはもっと時間をかけて────
「おねおねお願ひしますよろしく!!」
死にたガ―ル、こちらを見つめて居直り、両頬を真っ赤に染めてお辞儀。噛みつつも、倒置法的な表現は、僕への親交を強調してくれているのだと前向きに解釈。なんとも嬉しい限りだ。だから現状も前向きに進めるため、
「僕はあまのじゃくだ。言ってる意味、わかるだろ?」
障害となる性質をすり抜けないといけない。
彼女は言葉にしないまま数秒キョトンとし、そして閃いた。
「丁重にお断りします。ペコリ」
儀礼正しく一礼。
「さすがにそれだとフラれた感じだからツンデレ風に」
「べ、べつに友達以上の関係を望んでたんじゃないんだからね! 初めての恋人じゃないんだからね! 勘違いしないでくださいお願いします。深々」
途中、ツンデレ成分が生き絶えて、代わりに元来の彼女がやってきて深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしく、死にたガ―ル」
合わせて僕もお辞儀。片手片足の自由が利かないから、至極不格好だったけれど。
────とかくこうして、僕は自分に芽生えた感情の行方を知るべく、口を悪くすれば彼女を利用した。興味本位で彼女の命に触れた。それがどれだけ愚かなことだったか。それがどれだけ道徳に欠ける行いだったか。巷が忙しくなり始める十二月、十六にして初めて恋に触れた僕には判断できなかった。
ただ一つ、そこに光明を見出だすならば。
僕は吹く風も凍えるこの季節に、物事と正面から向き合う難しさを痛感した。
これはそんな僕が語る僕の断片。そして僕にとっての、彼女の全てである。
†
それからは何とも初対面らしい当たり障りのない会話を繰り広げ、彼女の本名も明らかになった。清水(しみず)翠(みどり)。僕と同じく十六歳。好きな食べ物わらび餅。趣味は携帯小説の一気読み。核家族。高校休校中。小学生の頃から入退院を繰り返していたが、今夏ついに病状が悪化。そして終わりを宣告されたそうだ。
ざっとざっくりざっくばらんに。これがとりあえず聞き出した、彼女のプロフィ―ル。
「さて、死にたガ―ル」
「翠です。ゲンナリ」
「いや、キミはまだ死にたガ―ルだ。僕がその名で呼ぶのは、キミが『死にたい』なんて望みを捨てたときだよ」
「それは人権の侵害だと思います」
「一度生存権を放棄したんだ。今更権利の主張は認めない」
「はあぁ……横暴ですぅ」
「権利を取り戻すのは簡単だぞ。ただ『生きたい』と願えばいい」
暫時の沈黙。そして。
「……それは無理です。私はありもしない希望を願えません」
「……」
なるほど────とりあえず目指すべきゴ―ルは見えた。
「よし、ならば死にたガ―ル。僕とキミの共通する目標を決めようじゃないか」
「もくひょ―? ハテナ?」
「そうだ。恋人には付き物だろう?」
例えば結婚。それを人生の墓場と皮肉る輩もいるが、ゴ―ルという分類においては同じだろう。
「それってつまりけけケケ──」
「ケケケケケ」
彼女のテンパりっぷりがおもしろかったから、バカみたいに口角を吊り上げて嫌味に笑ってみる。ジト目が向けられたから、ふぅと一息。
仮に僕が出会って早々にお付き合いを持ち掛ける世間知らずだとしても、そこに『結婚を前提に』なんて言葉を付け足す程青くはない。それに。
「キミは死ぬんだろう? だったら結婚もなにもないじゃないか」
「むうぅ、確かに。ナットク」
なら付き合うもなにもないじゃないか、なんて切り返されたらどうしようかとあれこれ弁論を考えていたが、それは蛇足に終わった。
「僕が見通しているのは、そんな費用も期間もかかるゴ―ルじゃない」
もっと簡単かつ難題。
「キミが”宣告された終わりで終わらない”。それが僕らの目標だ」
聞き終わるや否や、彼女は視線を落としてそれを外の世界へ投げた。理由など知れている。天命だの運命だの、そんな単語が持つ霊(たましい)のせいで、自分の行く末を刮目した気になっている彼女。
そんな途方もないのが相手なら、益々抗いたくなるのがあまのじゃく根性だ。
「今すぐキミに生を願えなんて無茶なことは言わないよ」
ドサリと、背中を染み一つない純白のベッドに預ける。
「だだキミは僕に”依存”すればいい」
外された視線が再び僕に向く。そこには少々とは言わない驚きというか不思議というか、そんな感情思考も見て取れて。
僕はそこにだめ押しの弁論を放り込んだ。
「少ない余生、一人じゃ寂しいだろ?」
そう。これはあくまで単なる一興。何もできない彼女と、何もすることがない僕の小さなギャンブル。即ち、死にたガ―ルが死にたガ―ルのまま死ぬか、生きたガ―ルになって死ぬか。はたまたもう一つの可能性か。
「……わかりました。付き合うだの結婚だの浮わついた話をちらつかされて舞い上がっていましたが、そういう軽い感じなら、私も楽しく残り少ない人生を謳歌することにします。どうせ死ぬことには変わりありませんから。キッパリ」
「よし。提案快諾だ」
さすれば僕の運命への勝利条件は後者のみ。
──そうやって、今は高を括っているがいい死にたガ―ル。示された終わりには、僕が必ずキミに笑顔で『まだまだ生きたい』と言わせてやる。あまのじゃくの名にかけて。
†
それから数分他愛もない言葉を交わしてようやく、いつ来るかと気を揉んでいた事柄が話題に上った。
「そういえば、まだ名前を聞いてませんでした。ウッカリ」
そう言って無邪気に笑う死にたガ―ルは可愛かった。それはもう、花盛りの人生を満喫しているような。目眩く程の幸。
だから同時に気づいてしまう。ああ、こんな些細な会話を人並み以上に楽しめるんだなあ、と。
それは幸せなことだろうか。捻くれた僕はつい、そこに至る過程を悪い方面で妄想してしまう。
「僕は速水一郎。速水くんでも一郎さんでも好きなように呼んでくれ」
だけど所詮憶測は憶測。いつか聞く機会があったとしても、今は考えないことにしよう。そう割りきって素直に素性を明かすと、死にたガ―ルはなんとも嬉しそうに屈託ありありの笑みを浮かべる。そして童話の魔女よろしく、大層な引き笑いをベッドの上で奏でながら言った。「なら一郎さん。あなたは今日からあまのじゃくボ―イです。バッチリ」
なるほど。これをドヤ顔というのか。正しいお手本を見せてくれたところで、僕は一先ず思案し、なおもこちらを見てニヤついている彼女に言った。
「僕はあまのじゃくであることに誇りすら感じているから別段それで構わない。が、死にたガ―ル、キミは平気なのか?」
「ハテナ?」
さてどうやって意味を伝えようかと悩んでいると。
「飯だよ、童共」
グッドタイミング。二つの膳を持って、レスラ―有望ナ―ス,、マッチョさん登場である。ナ―ス服を着こなす女性を白衣の天使なんて高尚に例えた人間がいるが、ならばはち切れんばかりにピチピチの”これ”は宛ら白衣の重装歩兵だ。
「あんた、今なんか物凄く私を失礼に定義したろう?」
ギョロリ。刃物のような鋭い視線が僕を捉える。まるでそれ自体が武器のよう。小動物くらいなら殺せそうだ。
「滅相もない」
僕はこれ以上怪我をしないため、意味のある嘘をついた。
「まあいい」
ベッドと一体になっている折り畳み式机の上に膳を置き、マッチョさんはさらに奥、死にたガ―ルのところへ向かう。
チャンス。僕は死にたガ―ルに声をかけた。
「なあ」
「なんですか? あまのじゃくボ―イ」
「はあ?」
予想通り、マッチョさんは戦車が大砲をくらったような顔をしていた。そして尋ねる。
「なんだい、そのヘンチクリンな名前は?」
「彼、速水一郎さんのニックネ―ムです」
言われてマッチョさんは僕を見た。なんとなく怖いので、天井見上げて口笛吹いて気づかぬふり。そこには忠告の任を預ける意味もあって。それを汲み取ってくれたらしく、ため息混じりに彼女は同じく膳を置いて死にたガ―ルに確認する。
「その名前、呼んでて恥ずかしくないのかい?」
「ハテナ?」
疑問符を生産する死にたガ―ルに、さらに詳しく説明。
「例えば売店。例えば廊下。人とすれ違うときにでも呼んでごらん。『ヘイ、あまのじゃくボ―イ』って。私なら恥ずかしくて、穴があったら入りたいね」
それは洞穴ですか? 洞窟ですか? などという余命を削りかねないツッコミは控えておく。
訪れた沈黙。その間で四季より鮮やかに、そして克明に移り変わっていく死にたガ―ルの表情は愛らしい。鈍感から順々に羞恥へと色を染めていった顔は、今や熟れたリンゴ。
「……たしかに。危うくとんだバカップルになるところでした」
「カップル?」
ただでさえ堀の深い顔面に、さらに怪訝さからであろうシワが刻まれる。僕の眼には般若の化身に映った。
「コクリ」
小さく動作を呟きながら頷いたところで彼女の恥じらいにも限界がきたらしく、視線で説明がこちらにバトンタッチ。あえて気づかぬフリをして困らせようかなんてサディスティックな考えも頭を過ったが、マッチョさんがこちらに向くとそれだけで睨まれているように錯覚して。よろしくない速度の鼓動を抑えるために、運ばれてきた食膳の中から味噌汁を一口。些かの間を置いてから、僕は答えた。
「この度彼女、清水翠さんの彼氏になりました、あまのじゃくボ―イこと速水一郎です。よろしくお願いします、え―っと……」
「高城(たかぎ)亜理子(アリス)だよ」
明らかに不相応な名を名乗り、マッチョさんは露骨に呆れを露にする。
「はぁ……診察のときから腕を『動かすな』って言うと動かして、『動かせ』って言うと動かさない、医者(ドクター)泣かせの変態だとは思ってたけど、まさかそこにやり手ナンパ師の称号まで付くとはねぇ」
僕は己が名誉のために否定する。
「僕が興味があるのは彼女じゃない。いや、彼女なのだが、厳密には他にある」
「はっきり言いな」
「そもそも因果応報という格言と色即是空という理にはどこか通じるものがあってだな」
「悪かった……出来るだけ回りくどく頼む」
「暇潰しに、僕が彼女にとっての生ある希望になってやるのだ」
僕への接し方、少しはわかってくれたかな?
幾ばくかの静寂を挟み、なにを思ったか閉められていた窓を開けて、マッチョさんはニヒルに微笑んだ。
「……ふ~ん、なるほどねぇ」
獲物を選定するような目付きで、僕と死にたガ―ルを交互に眺め、
「まっ、両性の合意があるなら私はべつになにも言やしないよ」
銭湯上がって飲み屋で受かれるおじさん並みの豪快かつ天衣無縫な笑い声を、天井にぶつけながら去っていく。
直喩しよう。まるでゴリラだ。隠喩しよう。ゴリラが雄叫びをあげている。
「──!」
文学的アイロニ―に胸を踊らせていると、やってきました明確な攻撃の意思をのせたメンチ。なんでこうも女という生き物は感が鋭いのか甚だ疑問だ。
僕は慌てて食事に没頭する。それでも恐怖の原点は、まだ扉の前に仁王立ちしていた。
「そうだ、一郎」
「なんですか?」
なぜ下の名前で呼ぶんだとか、僕は大切な患者だぞとか、いろいろ文句は言いたかったけど。存外物言いが優しかったので、これ以上波風は立てまいと大人しくしておいた。そこに緻密な策謀があることを知らずに。
「病院食はうまいか?」
「まあ、思っていたよりは」
「少し味が薄くはないか?」
「そりゃまあ」
「もっと旨いものが食べたくは?」
「ええ、もちろん」
「だったら今日の夕食は、新患であるおまえのために相当濃い味で仕上げた肉と魚のフルコ―スを用意してやろう」
「いや、僕なんて賞味期限ギリギリのもやしさえあれば十分──ッ!?」
やってしまったと後悔したのは言ってすぐ。ニヤリ。マッチョさんの表情が不気味に綻ぶ。
「そうかい。そりゃいらぬ世話を焼いた。賞味期限ギリギリのもやしだね。了解した」
大層楽しげに早口で言葉を並べ、そこで会話は強制終了。
「ちょっ、まっ──!」
彼女は廊下に停めておいた食事を運ぶカ―トを持って、僕の声なんて遠く届かないところまで院内を爆走。うるさいくらいに反響する高笑いだけが、耳に痛くこびりついた。
あんの巨人兵め。さては僕が診察のとき、ほんのちょっと捻くれたのを根に持ってるな。大人を舐めるなよ、とかって警告か? 僕としてはただ無性に反抗したかっただけで、そこに他意はないんだけど。
「一郎さん……!」
「うん?」
首だけ捻って冷気流れる窓辺に向くと、そこには一転して瞳をキラキラ輝かせている死にたガ―ルがいた。僕の名前を呼んでいながら、その瞳は僕を映していない。真珠のように綺麗で黒いそれが捉えていたのは────
「わらび餅ですうぅ!!」
ですうぅ。
売店で買ってきたと思われる、パック入りのわらび餅。彼女はデザ―トにと、逸る気持ちを抑えてその他と化した料理を頬張っていた。
ここで一つ、明言しておかなければならないことがある。──僕の膳にはわらび餅なんてない。一瞬以上に、あのビッグナ―スの仕業かとも思ったけれど。今目の前にあるのは病院食。果たしてそんな血糖値に響くメニュ―を出すだろうかと考えたところで、僕は悟った。
確かにこれはビッグバンナ―スの仕業だ。ただし幾分思いやりのある。
「最近稀につくようになったんです、わらび餅。それもアリスさんが運んでくれるときに限って」
「……」
捕捉は予測をより明快にした。慈悲か情けか。経路なんてどうでもいい。
「……わかってるんだろ? それがどういう意味で施されているのか」
「……はい。病院は治る人には厳しいですけど、死に行く人にはとても優しいですから。ニンマリ」
笑う彼女は儚げで。抗うことをしようとしない。
あるいは散々抵抗したのだろう。だが運命の急流からは逃れられず、外野は助けられないと悟るや否や、途端に施しを救いの糸から往生の花束に変える。
そんな逆境、僕なら嬉しすぎて気が狂いそうになる。
「……死にたガ―ル。僕らの仲を深めるために、これからちょっとおもしろいゲ―ムをしよう」
────思う存分反抗できるのだから。
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