璃音の日常
「次、美月」
「は、はい」
僕は夏休みの課題を出さなかった数名を授業の時間を使って、いつまで出せるのか、どのくらい進んでいるのかを確認するために廊下に呼び出していた。まだ一年生、このくらいで躓くようでは先が思いやられる。
「美月、課題はどのくらい進んでいるんだ」
「えっと、三分の二くらいです」
「いつまで出せるんだ」
「来週の末までには出します」
「期限は自分で言ったのだから、守れよ」
「はい、すみません」
「謝らなくても良いが後々困るのは自分だから、計画性を持って、自主的に課題を進めるように」
「はい、分かりました」
美月で最後だったので、授業を始める。今日は図形の問題をしこたま持ってきた。今日はこれを解いてもらおう。
「次、飛鳥」
「はい」
飛鳥は黒板の前に来てチョークを握る。スラスラと問題を解いて、次に僕の番となる。解説をしながら採点をする。教科書の公式はあまり使わないタイプで、本質を教えるタイプだったので、みんな難なく解いていく。僕はそれに満足しながら教鞭を執るのだった。
授業が終わったからと言って僕の仕事がなくなるわけではない。僕は次の授業の準備を終わらせて、課題のチェックをする。みんなきっちり解いてくるので、僕も細かく見ながら判子を押した。範囲をきっちり解いてきた生徒が多い事は喜ばしい。たまに問題をすっ飛ばして解いてくる輩がいるのは困ったものだが。そういう時はやり直しの文字を添えて返してやる事にしている。僕はチェックを終えて、四十人分のノートを職員室前の配布コーナーに並べてクラスの数学係を校内呼び出しし、持って行ってもらうだけにしておいた。
次に何をしようかと考えていると、目の前のデスクに座る真波拓先生と目が合った。真波先生は僕らの恩師で、僕は一緒に働けている事を誇りに思っている。僕がこの学校に就職するときの話だが何だか嬉しいやら恥ずかしいやら、と言っていたのを覚えている。その時の面接官も真波先生で、僕は緊張よりも嬉しさが勝っていて、こんな学校にしたいと言うのを熱く語った思い出がある。
「真波先生コーヒー、淹れて来ましょうか?」
僕は真波先生にそう問いかけた。真波先生は嬉しそうな顔になって、じゃあ頼もうか、と言ってくれる。僕はコーヒーを淹れるコーナーに足を運び、二人分のコーヒーを淹れて真波先生に手渡した。
「ありがとう」
「いえいえ」
「何だか、璃音もでかくなったなあ」
「どういう意味ですか?」
僕はクスクスと笑いながら訊き返す。真波先生は照れ臭そうな表情で言葉を続けた。
「いや、あの頃はやんちゃで数学の問題で分からない所があると真っ先に問い詰めに来ていたのが昨日の事のようだなと」
「そんな事もありましたね」
「いや、璃音は頭が良かったから、本質が理解できるまで粘ってたからな」
「本質を教えるのが教師の仕事だと思ってます」
「道理でお前の担当してるクラスの点が良い訳だ」
「僕は教科書は必要最小限しか使わない派なんですよ」
「真似しようかな」
真波先生は真面目な顔になってそう言うので僕は笑ってしまった。
「僕は真波先生の授業結構分かりやすいと思ってるんですが」
「齢取ると頭が固くなるんだよな、昔と変わらないんじゃ俺も進歩出来ん、真似する」
「どうぞどうぞ」
僕らは笑いあってから時計を見て、さて、行くかと真波先生は腰を上げた。次は僕も授業が入っているので、行かなければならない。
ノーチャイムデーが僕らの時代よりも増えているらしく、今日もチャイムが鳴らない。自主的に行動できる生徒が増えている証拠である。僕は時間ピッタリに教室へと入るのだった。
今日の授業がすべて終わり、僕は明日の準備へと取り掛かる。作問したプリントを人数分用意して配布コーナーに置いておき、持っていくだけにしておく。次に何をしようかと考えていると、職員室入口から、僕を呼ぶ声がした。
「お、どうした有希」
「此処が分からなくて、教えていただけたらと思いまして」
「オーケー、其処に座ろうか」
「はい」
三年生の有希は夏休み中からかは分からないが、部活動もあると言うのに受験勉強を始めている。他の生徒よりも早いスタートを切ったという事だ。僕はセンターの過去問を持ってきた有希に、事細やかに説明を始める。有希は時折質問をし、分からない所は分かるようになるまで問いかけてくるのだった。
「はーっ、すっきりしました、ありがとうございます璃音先生」
「いえいえ、部活に遅れないか?大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
「なら良いが」
「はいっ」
有希は嬉しそうに返事をして、ペコリとお辞儀をして去っていく。僕はホッと一安心して、またデスクに戻った。
もうやる事が無くなってしまったので今日は帰る事にする。今日は部活動、生物部の指導も無いので此処にいてもやる事は無い。僕はお先に上がります、と職員室にいる先生方に告げて、職員昇降口へと向かった。
さて、今日は早く上がれたので那瑠の所に行くか、と考えていると桜からLINEが入っていた。
「今日早上がり出来そうなので那瑠の所に行きませんか?」
僕はふっと笑って今行こうと思っていたと返す。
「では那瑠の所で会いましょう」
「オーケー」
僕は那瑠の店に向かって車を発進させた。那瑠の店はここからそう遠くないのが、今日は車で学校まで来ていたので車で向かう。時間もかからず、すぐに那瑠の店に着き、僕はアンティーク調のドアを押し開けた。ふわっとコーヒーの香りが漂っている。
「いらっしゃいませ~」
那瑠ののんびりとした声。僕はカウンターに寄って那瑠に手を振った。
「お、璃音、この間ぶり」
「ああ、今日は桜も来る」
「おお、それは良かった、久しく会ってないんだ」
桜は仕事の鬼なので、そう滅多に来ないらしい。僕は暇を見付けては此処に来ているが。
「何飲む?」
那瑠はワクワクした顔で僕に訊いてくる。僕はウィンナコーヒーにキャラメルソースをトッピングに頼んで、腰を落ち着けた。
そわそわする事もなく、落ち着いた雰囲気の此処を僕は気に入っている。それは那瑠がいるからでもあるが、今日はジャズがBGMに流れているので昼間混んだのかな等と考えたりしながら那瑠が淹れてくれたコーヒーをすすった。暫くしてくると段々飲み客で混んできた。那瑠は調理場に立ったりホールを動き回ったりして接客している。僕はその様子を眺めながら、桜が来るのを待った。
「お待たせいたしました」
カウンターに桜がやってきた。僕は那瑠を呼んで、桜が来た事を知らせる。
「久しぶり、桜」
「ええ、お久しぶりです」
「ちょっと痩せた?」
「ええ、ほんの少しですけど」
「あんまり無理するなよ」
「ふふ、分かっていますよ」
そうして桜はアメリカンをアイスで頼んで、僕の隣に腰掛けた。
「璃音、今日の仕事はどうでした?」
「ん、今日も滞りなく終わったよ」
「それは良かったです」
にこりと笑って、桜は那瑠が淹れてくれたアメリカンに手を付ける。
「美味しいです、那瑠」
「それは何よりだ」
にこっと二人は微笑み合って、僕も笑みを零した。
そのうち蓮が事務所の方から出てきて、僕らと目が合った。蓮は爽やかな笑顔で、よう、と手をあげる。
「何だ、今日は二人か、珍しいな」
「いつも僕一人だからな」
「今日は早上がり出来たので久々に那瑠の顔を見ようと思いまして」
「なるほど、確かにいつも璃音が一人で来てるのは見かけるな」
僕たちは蓮が那瑠の所に行くのを見送って、夕飯をどうするか考え始めた。此処で食べても良いが、家で待っているであろう誠の事を思うと早めに帰ってやりたい思いもある。僕たちは夕飯を家で食べる事にして、那瑠たちに別れの挨拶をした。
「お、もう帰っちゃうの?」
「ああ、誠も待ってるからな」
「そうか、それなら仕方ないな。今度誠も連れてきたらどうだ?三人用のコース料理用意するからさ」
「ありがとうございます。そうしますね」
「じゃあ、またな」
「ではまた」
「ああ、気を付けて」
「ありがとう」
僕たちは店を出て僕の車に乗り込む。桜は歩いてきたらしく、カーディガンを脱いで手に持っていた。今日も暑い。
「璃音、そう言えば、文化祭はいつでしたっけ」
「文化祭は来週の金曜と土曜だが」
「行こうと思いまして」
「ほう、珍しい」
「久々に母校を見たい気持ちもありますし、誠も連れて行ってあげたいので」
「なるほどな」
誠は聖北高校に進学するだろうか。まあ、本人の希望に合わせてやりたい。今年小学六年生に上がったので、中学校を聖北にするなら受験しなければならないな、と思っていると、桜がくすっと笑った。
「どうした?」
「いえ、難しい顔をしているなと思いまして」
「そうか?誠の進路について考えていたんだ。誠の進路希望、見てやれてないなとおもって」
「受験しないのなら聖東中学ですかね」
「そうだな」
「帰ったら訊いてみましょう」
「そうしよう」
僕の車は順調に走って、鷹之宮邸に着いた。桜が降りた事を確認して車の鍵をかけ、僕も桜の後を追って家に入る。
「おかえりなさい、お父様、お母様」
誠がだっと走ってきてそう言った。僕は抱き着いてきた誠を受け止める。
「ただいま、誠」
「ただいま帰りました」
じいやもさっと出てきて、おかえりなさいませと声を掛けてくれる。じいやは歳を取って、杖をついているのだが、背中はしゃんと伸びているし、足腰も強くまだちゃんと歩けている。いつになったら引退するのだろうか、と思っていると、じいやが笑って、僕に語り掛けてきた。
「じいやは死ぬまで此処でみな様の帰りを待ち続けますぞ」
「ふふ、じいやったらいきなりどうしたのかしら?」
「いえ、璃音様がそんな顔をなされていたので」
「何だ、声に出ていたか?」
「いえ、長年みな様の顔を見てきた故、そう思っただけですな」
「そうか」
僕は玄関先で語らうのもなと思って、リビングに行こうかと声を掛ける。誠は僕から離れて、桜と手を繋ぎ歩いて行った。僕も後ろをついていってリビングのソファに背を預ける。
「誠、中学受験はしたいと思っているのか?」
「そうですね、したいです」
誠はちょっと驚いた顔をしてからそう言った。それじゃあもう受験の準備をしなければならないなと思っていると、桜が口を開く。
「夏期講習は受けてましたもんね」
「はい、お母様の言う通りです、この夏休みの夏期講習受けました」
僕はそれを知らなかったので、今回の事でちゃんと誠の事を見てやらなければと思ったのだった。
「そうか、過去問とか必要な物は買ってやるから、すぐに言ってくれ」
「分かりました、ありがとうございます」
誠はにんまりと笑ってそう言い、言葉を続ける。
「僕、お父様とお母様の行った学校に行くのが楽しみなんです」
「そうなのですか?他にも良い中学高校はありますよ?」
「最終的には聖北大学を目指してます」
「そうか、聖北大学は偏差値も高いから、勉強は怠らないようにな」
「璃音まで」
「頑張ります」
誠は決意に満ちた表情でそう言って、ご飯はまだかな?と調理場の方へと行ってしまった。桜は溜め息を吐いて、僕の方を向く。
「璃音、何も今決めさせなくても」
「目標があるのは良い事だ」
「それはそうですが」
「僕は進路希望なんて桜が行く所で決めていたからな」
「それもそうですが」
「それに進路希望は変わるかもしれないが、目標は高い方が良い。勉強のモチベーションにも繋がる。桜も聖北中学を受けると知って夏期講習を受けさせたんだろう?」
「まあ、それはそうですが」
「見守っていこう」
「まあ、そうですね」
桜は納得したような顔になってそう言い、一旦着替えて来ますと言ったので、僕もスーツから着替えようと思って自室へと向かった。スーツを脱いで普段着に着替えると、丁度じいやが部屋をノックして、璃音様ご夕飯のお時間です、と知らせてくれた。僕は今行く、と告げて部屋を出る。じいやは隣の桜の部屋にも同じ事を知らせて、食堂へと向かっていった。
みんなで食べる夕飯は美味しいもので、僕は食べ残しが無いように綺麗に食べ終えた。誠もナイフとフォークの扱いが上手くなったようで、綺麗に食べていたので僕は安心した。
「お父様、今日お父様と一緒に寝ても良いですか?」
「ん?ああ、良いよ。何かあったか?」
「何かお話しながら眠れたらと思って」
「そうか、なら風呂も一緒に入ろうか」
「良いんですか?」
「ああ、良いよ」
誠は嬉しそうに、ではお風呂の準備をしてきます!と言って、ごちそうさまをしてさっと行ってしまった。
「何だか桜を見ているようだよ」
「あら、私ですか?」
「よく僕の所で寝ていた」
「ふふ、そんな時期もありましたね」
「桜も一緒に寝るかい?」
「いいえ、今日は父子水入らずで寝てくださいな」
「そうか」
僕はちょっと残念な気持ちになったが、まあそのうち一緒に寝る時もあるだろうと思い直した。
風呂場に行くともう誠はバッと服を脱いでしまい、お父様早く!と僕を急かす。僕は苦笑しながら服を脱いで、誠の後を追いかけるのだった。
風呂で二人で体と髪を洗い、湯船に浸かる。
「誠、何か悩みでもあるのか?」
僕は一緒に寝る事を考えて、そう訊いてみた。誠はうーんと唸ってから口を開く。
「背が伸びないのが悩みです。お父様もお母様も背が高いのに、僕は小さいので……」
「そうか。背はな、小学校中学校ではすぐに伸びないんだ。特に男の子は、中学から高校にかけて伸びるから、安心していい」
「そう習いましたが、僕はみんなよりも小さくて、何だか不安です」
「大丈夫、僕も中学までは桜よりも小さかった」
そう言うと誠は目を大きくしてびっくりした顔になった。
「お母様の方が大きかったんなんて、想像できません」
「僕は小さい頃から喘息を持っていてな、そっちを治すのに栄養が行ってしまって、背が伸びなかったんだ、お医者様に言われたよ。だから安心して良い。誠は喘息もなく体も丈夫なんだから」
「そうですか、安心しました」
誠がホッとした顔になったので僕も安心する。それから誠から最近気になっている女の子の話を聞いて、僕は色んな人を知って、色んな人を好きになって欲しいなと思った。
「色んな人の良い所を誠は見付けられるから、いっぱい友達作って、その縁を大事にするんだよ」
「はい、お父様」
「さて、のぼせる前に上がろうか」
「はい!」
誠は元気に返事をして風呂から上がる。僕は誠の髪を乾かしてやりながら、随分紙が伸びていることに気が付いた。
「伸びたな、髪」
「はい、そろそろ切りたいと思っています」
「そうか」
僕の髪は男としては長い方なので、誠の髪くらいなら切らないでいたが、切りたいと言う誠の意見を無下にする事はせずに、じゃあ美容院の予約をしようか、と提案する。
「いつもメイド長に切ってもらっているのですが」
「それも良いが、たまには美容院に行くのも悪くない」
メイド長は本当に何でも出来る、桜も小さい頃は切ってもらっていたなと思った。
誠とベッドに入った。誠は数学の話を聞きたがっているので、数学の話をする事にする。そうして数学の話をつらつらとしているうちに誠は寝入ってしまったので、僕は静かに誠の布団を掛け直してやって、目を閉じた。規則正しい寝息を聞いているうちに僕も眠くなって、すぐに眠りに入ってしまった。
次の日の朝、僕が起きるよりも早く誠が目を覚まして、ベッドから出て行ってカーテンを開ける。
「お父様、今日も良い天気ですよ」
「ん、おはよう」
「おはようございます」
「さて、顔を洗いに行こうか」
「はい!」
誠は朝から元気だな、と思いながら誠と共に洗面所に行った。桜はとっくの昔に起きて、今はテラスで新聞を読んでいる事であろう。
「僕も新聞読んできます」
顔を洗い終わった誠は、そう言ってテラスへと走っていった。僕は本当に桜の事が好きなんだなと思って微笑ましく思った。僕も顔を洗い終えて桜の元へと向かう。桜は新聞を読み終えたのか、花に水をやっている。
「おはよう桜」
「おはようございます璃音」
今日は良い朝だ。いつもよりもそう思えた僕は今日の仕事も頑張ろうと思い、テラスのガーデンベンチに腰掛けて、新聞を広げたのだった。
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