サンサーラ 短編
榎木のこ
0 -sunyam-
春を待つシザンサス/シリウス・プロキオン
「ほんとにほんとにマジであり得ない」
黒のネックウォーマーの隙からぼやきと共に白い息が吐き出された。寒い寒いと騒いで大袈裟にも自分からつけたスノーゴーグルを上にずらし、隣の青年はなおも文句を垂れる。
「普通さあ、酷暑地域からいきなり北方に飛ばす? しかも一番寒い時期に。どんな人事だよ。頭おかしいんじゃないの」
第一都市・アショーカ。地上では真北に位置する、最も機械化の進んだ鋼鉄の街。灰の雲からとめどなく降りてくる雪は、僅かに発熱する鉄の床で冷たい水へと変わっていく。まるで城壁のごとく街を囲んで建設された外壁上にて、シリウスとロキはいつやって来るかも分からない魔女のために風雪に晒されていた。
二人はたった一週間前まで、熱砂吹き荒れる地上南西の第八都市・ウトパラにて防衛ライン警備に従事していた。それが打って変わって地上一の寒冷地に飛ばされたものだから、体もそうだがまず気持ちがついていかない。二人とも雪国の生まれではなかったから、息を吸うのも躊躇われる寒さは余計に堪える。
最早嫌がらせだと喚くシリウスは手すりの上で腕を組み、市外を覆う雪原を恨めしげに見つめていた。ロキは壁側に設置されたベンチに座りながら、このところ延々と機嫌の悪い相棒の背に溜息を投げる。
「スコール義兄さんの陰謀だったりしてな」
愛用の苗刀を抱え込むようにして、腕を組み肩を竦めながらの何気ない冗談だった。
「洒落になんないよ……あの様子じゃ義姉さんのこと絶対バレてるし、チクられたら俺終わりなんだけど」
「そこまで馬鹿じゃねえだろうよ、あの人は。下手に動けば向こうの立場が危なくなることぐらい承知してる」
「どうだか! あいつらか俺らなら、上層は絶対あいつらを取るに決まってる」
シリウスはロキを振り返って、手すりに身を預け眉を顰める。普段は努めて穏やかな言葉遣いが荒くなってきているあたり、かなり気分が悪いらしい。
「……まあ、俺がいりゃあ向こうも早々手出ししてこねえだろ」
恐らくは。ロキは軍内でも指折りの実力者だ。精鋭入りを打診されては毎度毎度はねつけてきたし、それは今もしつこく続いている。軍上層部に重要視されていないわけがない。スコールにとっても手放すには惜しい才ある道具だ。……極めて客観的に見れば、そうではないか? なんとなくではあるが、とロキは日頃思っていた。
「まあ確かに? 熊倒せるしね」
「それイジってるだろ俺のこと……」
この街に来た三日後、市街地に熊が現れるというハプニングが起こったのだが、シリウスはなぜかあの騒動を気に入っているようだった。彼が早々にすっこんだせいでロキは一人で熊と戦う羽目になったが、結局勝ってしまったことが彼の琴線に触れたらしい。魔女を相手にした時と同じように、ロキはシリウスを「逃げるな」と叱咤したのだが、変人な相棒の第一声は「面白かった」だった。
「熊鍋おいしかったなあ。ガキの頃の自分にさ、お前は将来熊鍋食べることになるぜって言っても絶対信じないよ」
一転けらけらと笑い出すシリウスの機嫌は天気雨のようだった。自分の感情にやけに素直な彼だが、一年前に二人が組むようになった当初も、もちろんそれ以前も、ロキはシリウスをそんな人物だとは思っていなかった。というより、シリウスが変わったのではないかと思うし、そうでなければこの関係も上手くいってはいないだろう。
「あっそうだ。せっかく第十二都市が近いんだからオフに遊びに行こ」
シリウスは突飛な思いつきをよくする。ロキの隣に座った彼は、嬉々としてスマートフォンをいじり出した。最新の通信機器を使わない理由は「ロマン」らしい。シリウスには一種の機械マニアっぽいところがあった。
「運が良ければ絶景が見られるかもって。渡り鳥が飛んでくるかもしれないらしいよ」
「ふうん」
「夜も明るい市街地だと鳥の羽根に光が当たって、それが飛んでいくのが綺麗なんだってさ。それにあの辺りって夕焼けがすごくて、ピンクとか紫とか」
写真が撮りたい、と言い出すのは彼の趣味を知っていれば分かりきっていることだった。ロキはまだ何も言っていないのに、飯が美味いとか酒が美味いとか、あれやこれやと並べ立ててくる。
「わーった、わーったよ! ついてってやるから駄々こねんな!」
いつもこうやってロキの方が折れている。ただでさえ寒いのだから、正直を言うと休みぐらいは暖房の効いた部屋に閉じこもりたい。だが一度言い出したら止まらないのが彼の相棒だった。
「マジ? じゃあ決まりね」
さして表情を変えないあたり、シリウスもロキが折れると最初から分かっているのだ。いつものこと。春であろうと秋であろうと、南国でも冬国でも変わらない。この一年間で決まったこと。この一年間で辿り着いた関係。
「ったくよ……そんなに行きたいなら一人でだって行きゃあいいだろ」
「やだよ、寂しいじゃん」
このやりとりも何度もした。だが次の言葉は、今までに聞いたことはなかった。
「……寂しいのはお互い様なんだからさ。だったら一緒にいた方がいいでしょ」
ベンチから立ち上がり、そう笑いかけてきたシリウスは「休憩してくる」と手をひらと振り、鉄扉の向こうへ消えていった。
「さびしい、か……」
口から白い溜息が漏れていく。一年前、かつての相棒を亡くした時にそう感じた記憶はある。だがそれから先のことは思い出せなかった。寂しいだなんて思う暇すらなかったか、そう思わないようにしていたのかは分からない。ただただ静かに、自分では決して触れない場所に穴が空いている。例え何を得ようと、何を犠牲にしようと、永遠に埋められない空白が。
もう慣れてしまったのか、ふと空から落ちてくる白を見て、ずっと雪が降っていることを思い出す。シリウスもきっとそうなのだ。彼の抱える空白は自分よりずっと大きいのだろうと勝手に思い込んで、いつか彼が空白に飲み込まれないように、ロキは彼の手を掴むことを決めた。
ロキは色彩のない無味な空を見つめ続ける中で、自分はきっと正しかったと思うに至った。シリウスを生かすために動かしたこの手は、正しかった!
「余計
はは、という孤独な笑いも、そんなに悪いもんじゃない。ロキは澄んだ空気と同じ心のまま、やけに帰りの遅い奔放な相棒をじっと待っていた。
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