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灰に還るまで / 王家三兄弟


 いつもより上等な拠点の洋館を出て、そこで初めて今日は満月だと知った。今までに何度も見ただろうに、ルジェナは感動したように声を上げていて、森へ入り背の高い木に月が半分以上隠れてしまうと落胆した。歳の離れたまだ子供の弟に慰められている様は見ていて笑ってしまう。

「どうして笑ってるんです」

 ルジェナは聞かずとも分かっているんだぞ、という不貞腐れた顔を兄のほうへ向ける。ルーファスは気の利いた返しでもしてやるつもりだったが、ランフォスが小さな手でこちらの手を握ってきたことに気を取られて台詞を忘れてしまった。

 月明かりのおかげでカンテラを持たなければならないほどではないが、夜の森は暗いものだ。こんな風に人目を避けて生きているのには理由がある。


 六十年続いた人類と魔女の戦争の終結と同時に、王家は没落した。六十年前の当時、戦争を推し進めていた王は突如として姿を消し、代わりに王として全ての上に立った女は王家の血など継いではいなかった。

 彼女が崩御して数十年になるが、信仰は盲目的に続けられている。なぜ彼女が王座に座れたのかは誰にも分からない。彼女の死以降、王座は空けられたままで誰も座ることを許されず、政府は代行者という形で地上を治めてきた。

 王家は当然、王に成り代わった女の正体を暴こうとしたが、民衆はそれに石を投げつけた。それだけでは済まない。政府の拠点、最北の第一帝都が有する軍隊は王族の命を狙い、民衆はそれを無条件に支持している。王家の血を引かないただの赤毛の人間も、赤毛だというだけで――王家の特徴を持つというその理由だけで迫害されているという。

 一部の人間ならまだ分かる、それならいつの時代もあったことだろう。だがほぼ全ての人間が一瞬にして王家を敵と認識するなど有り得るのか。

 先王の陰謀にしては手が込んでいるし、不可能なことをやってのけているではないか。この世に生を受けたその時から、栄光も威信も過去にして生きてきたルーファスにとっては逆に感心してしまう話だった。


 かれこれ十五分ほどあてもなく歩いている。洋館の周囲をぐるりと回るだけのルートだと三人で示し合わせたが、当然整備されていない道を歩かなければならない。洋館を見失わないぎりぎりの位置で木々の間を歩くが、草は足に絡まりそうなほど自由に背を伸ばしているし、石も至る所に転がっていて足場は悪い。

「疲れていないか」

 左を歩くランフォスが気がかりだったが、こちらを見上げた彼は顔色一つ変わっていない。ルーファスは弟のことをいくら強くとも子供だから、と甘く見ていたが、今日で考えを改めることになった。


 世界各地を歩きまわる生活も生まれた時からしているのだから当たり前になっているが、それでも以前よりはましだと父から聞いた。戦時に一人の王族がある少女を救ったという。少女は偶然にも東方の名家『イヅキ』の者だったらしく、こんな弾圧の中でも恩は消えぬと王族を匿ったのだ。

 妙な話で、イヅキの者は誰一人として王族を批判などしなかった。自分たち三兄弟の母がイヅキの出である時点で嘘偽りなどないだろう。未だに野宿をすることもあるが、イヅキの支援と情報網で屋根のある家に寝泊まりできることも多い。林中の古ぼけたやけに広い洋館が今日の家で、これがかなり上等だった。


 こうして夜に出かけるようになったのは十年ほど前だが、これは帝都軍の主戦力として作られた生物兵器が出現したためである。王家には人間の域を超えた身体能力を持つ亜種しかいないが、例の生物兵器はその亜種をも凌駕するほどの力を有している。

 二メートルを優に超える巨体、隆起した筋肉、判別がつかないほど崩れきった顔。人型だが人間ではないその見目から、王族は奴らを異形と呼んだ。

 異形は夜目がきかないらしく、異形も、それを制御する軍隊も夜に出現したことはない。夜は安息の時間だ。亜種は夜に灯りを取り上げられても、それがどうしたと笑えるだけの目を持っている。


「わあっ!」

 三歩先を歩いていたルジェナが玩具を見つけた子供のような声を上げ、急に茂みの先に走りだす。

「おい、ルジェ……」

 その姿を目で追うと、生い茂る草の間から青白い光が滲み出ていた。物珍しいこの光に惹かれたのだろうが、好奇心が強いのはあまり褒められたものではない。

 ルーファスは同じように足を止めて光のほうを見ていた弟を咄嗟に抱き上げ、ルジェナの後を追う。茂みを抜けるとそこは空き地のように開けていた。森の木々が小さな池を避けるように囲んでいて、見上げれば丸い空と満月があり、地面には先ほど見えていたものより彩度の高まった無数の光がある。ルジェナは探さずとも池の前で光の一つを眺めていた。

「人間がいたらどうするつもりだ……」

「でも兄さま、人の気配なんてこれっぽっちもしなかったでしょう?」

 それはそうだが、肝が冷える。溜め息と同時に小脇に抱えていたランフォスを下ろした。大抵の物事に無関心な彼も光には興味があるようだった。緩やかな坂を転けないように走って降りて、手招きをしているルジェナのもとへ急ぐ。ルーファスは自分でも神経質になっていることが分かるくらいに辺りを見回していたが、弟に呼ばれてしまい大人しくそれに従った。

「……花かしら?」

 ルジェナは青白い光を色々な角度から覗き込んでいる。膝をついて見てみると、確かに花のような形である。茎も葉もなく地面に直接咲いているように見えた。ランフォスは傍らでそれを爪で叩いていたが、こつこつと乾いた音がしている。花なら音さえ出ないだろう。

 それは地面に根ざすようにくっついていたものの、花を摘むようにすれば簡単に取れた。ほぼ球体でごろりとしているが、薄い面が寄せ集まって花弁のようになっている。まるで彫刻だ、自然物だとは信じられそうにない。全体から単調ではない波のような光が漏れ出ていて、ルーファスの手袋の表面を泳いでいる。

 このような形のものがあるとは聞いたことがなかったが、この光体の存在はよく知っていた。


「灯石だろうな」

「とーせき?」

 ルジェナはまるで知らない言葉を間延びした声で繰り返す。

「鉱物の一種だ。昼間に光に当てていると石の中心が発光するようになる。石の中は亀裂だらけだが、その隙間を通して光が表面まで浮き出てくる。地下で四角形の浮遊物が街灯代わりにされていることはお前も知っているだろう。あれも灯石らしい」

 ここ一帯は鉱物資源が豊富な地域だ。王族たちは皆、立入禁止区域となり人気のない中央区に面した場所を選んで移動している。この森は第三都市の九つに区切られた区画のどこか、恐らくは中央区に隣接した最南西の第九区画。

 ルジェナも兄を真似るように緑色に発光した灯石を摘み、根本が地面から剥がれる瞬間の気持ちのいいような感覚にはしゃいでいる。

「こんな形になるなんて、まさに自然の神秘ね!」

 灯石を見つめる瞳は光を不規則に取り込み、彼女の感情を表すかのように煌めいていた。こんなに綺麗ならあなたも忘れないわよね、そう話しかけられたランフォスがこくりと頷くのを見て少しほっとする。

「どれがいいかしら……やっぱり緑、でも赤も捨てがたいわ」

「まさか持って帰る気か……」

「あら、いけませんの?」

「すぐに壊れるぞ。表面こそ綺麗でも中身はぼろぼろだ。それに……」

 誰かの土地かもしれないのに、と言いかけたがおかしくなってやめた。灯石は高値で取引されると聞くが、金など二十年近く生きてきたこの人生で一度も役に立ったことがない。盗人のほうが逆賊より何倍も善良な肩書ではないか!

「花を摘んで帰る時にはそんなこと仰らないのに、へんなひと」

 持って帰ると決めたらもう聞きはしないのがルジェナである。しゃがんでは立ちを繰り返して、うろうろと場所を変え品定めを始めてしまったし、ランフォスも彼女に飽きもせずついていくし、二人を眺めておけばいいかと坂に腰を下ろした。

 地面は服を濡らしこそしないものの冷たく湿っていた。月の映り込んだ小池、身の細い草花、寒色の目立つ灯石群……涼やかな光景だ。この地域には四季がある。今は確か秋だ。風は冷たいが震えるほど寒くはない。

 十分ほど経ってもルジェナはまだうんうんと唸っている。優柔不断なのだ。花にしろ石にしろ、彼女が迷うたびにいっそ全部持って帰ってしまえばいいじゃないかと言ってやるのだが、すると彼女はそういう問題じゃないと口を尖らす。ならば一体どういう問題なのか、ルーファスにはまだ答えが出せていない。

 ランフォスは痺れを切らすことなくルジェナに付き合っているので、いつも通りに賢いやつだと感心した。胡座をかいたり寝そべったりしている男では付き合いきれない。彼女の面倒さも兄として愛しくはあるが、こういうことは適材適所という語に放り投げておけばいい。

「姉上は赤色がお好きなのでしょう?」

「そうだけれど、緑も好きよ。あなたと兄さまの瞳と同じ緑がいちばん!」

 暖色の灯石は数こそ少ないものの、灯石群のなかで際立つ光を見せている。ルジェナは既に赤い灯石も、兄弟の瞳によく似た温かみのある緑の灯石も手にしていた。その二つと姉の瞳を見比べて、ランフォスは目を逸らさずに言った。

「じゃあ、わたしは姉上の瞳と同じ色の物が欲しいです」

 ランフォスにはお願いをする時に顎を引く癖がある。もともとあまり自己主張をしない子だから、叶えてもらえそうなことだけを頼むしそれでも申し訳無さそうに見える。だがそんなことは頼みを受けた当の本人は気にもしていない。

「あら、いつからそんなにおませな子になったのかしら!」

 ルジェナの照れ方は本当に分かりやすいから見ているとつい笑ってしまう。かわいい弟のために早く見つけてやらねばと焦ってきょろきょろしている姿は忙しない。ルーファスは怠けていないで手を貸してと叱られる前に腰を上げようとした時、手元にちょうどいい灯石を見つけて、逡巡することなく手に取った。

「これが一番近い」

 小池の向こう側にいた二人に持って行ってやると、ルジェナは納得できないという顔で首を傾げた。

「……そんなに似てない気がします……」

「自分の評価と他人の評価は違うものだぞ」

 できるだけ目線が同じになるように、しゃがみこんでランフォスの肩を抱き寄せる。ルジェナの左目を隠すよう翳した石の花の光は、多少の違いこそあれど彼女の右目の色と遜色ない。どちらも緑に青を混ぜた色に輝いている。

「私の目に狂いはないだろう?」

 そう微笑んでやればランフォスはこくこくと頷いている。動いてはいけないとまばたきも少なめにじっとしていたルジェナも、それならいいのだと満足気な笑みを見せた。

「早く帰らないと皆が心配する」

 壊れやすいという言葉をしっかり覚えていたのだろう。ランフォスは兄に渡された灯石を握りしめたりはせず、兄の背を追って帰り道のほうへ歩き出す。

「あっ、ちょっと待ってください!」

 ルーファスはまたかと思ったが、ルジェナはほんの数秒の間、またしゃがみこんでごそごそしていただけですぐに追いかけてきた。やりたいことはやった、というひどく晴れやかな顔だ。

「兄さまは持って帰らないのですか?」

「同じ色の物を持ち帰ってもつまらんからな」

「もう……またそうやってうまいことを……」

 たったの数十分では月明かりは衰えない。変わらず帰り道を照らしていたし、今は青や緑の光も加わっている。目に飛び込んでくる色彩が鮮やかなだけでも気分は晴れるものだ。あの造花には感謝してやってもいい。

 いつにも増して口数が多い妹と、それに律儀に言葉を返す弟。ルーファスは落魄の王ではなくただ兄として、何よりも愛している家族の姿を見ていたいだけだった。





 この洋館にいる王族は全体の五分の一ぐらいだ。彼らはガルダと名乗り、帝都軍に対抗する勢力として部隊を組み世界中に散らばっている。戦が始まった時、亜種の力を目の当たりにした人間は、彼らを戦うためだけに生まれた生き物だと呼んだ。あながち間違いではない。どれだけ数が少なくなろうとも、勝機などなくとも、王家は帝都への反逆をやめないだろう。そういう生き物なのだから。


 屋敷の中にもその周囲にも見張りを置いていたせいで、三人が妙な光と共に帰って来ると皆が驚いた。話には聞いていても実物を見たことがない、というのは特殊な生活をしている王族たちにとって珍しいことではなかった。

 すれ違う見張りたちにいちいち説明するのは骨が折れたが、皆が皆、事情が分かると笑みを零した。それだけで安息がここにあるということを理解できる。しばらくはこの洋館に留まるだろうが、ここを離れた後に再び戻ってこられる者はほんの一人、よくて二人、悪ければ帰る者などいない。


 夕食を食べた天井の高い食堂にはまだ蝋燭がまばらに灯っていた。いつも森で狩った動物と野生の野菜やら果物を食べているが、亜種は極端な毒物を口にしないかぎりは食中毒などにはならないし、万が一口にしても死ぬことはなくせいぜい二日の体調不良で済む。それを聞いた時はルジェナはまだ幼かったが、ますます自分が分からなくなって変な気持ちになったものだ。

 長机を挟んで並べられた椅子に座った時、ルジェナの懐中時計は午後九時を指していた。文字盤を囲む銀色の光沢はしばらく磨かずとも綺麗なままだ。彼女は父から貰い受けたこの懐中時計をえらく気に入っていて、時刻の確認以外でも取り出して眺めている。今日もそうしてじっと見ているとルーファスが呆れたように言った。

「灯石といいそれといい、お前はカラスみたいだな」

「……カラスですか? どうして?」

「カラスは光に敏感らしい。怖がるものもいるが、光り物に興味を示して集めたりする個体もいるそうだ」

 王家の聖獣は鷲だというのにおかしな話だ、そう兄は笑っている。ルジェナは感情がすぐ顔に出るとよく指摘される。その度にこれが私なんだからと返していて、自分が本日二度目の不貞腐れた顔をしていることは分かっていた。

「兄さまって私のことよくからかいますよね」

「でもカラスって賢いんですよ」

 傍らで手を引くランフォスがこちらをじっと見上げている。

「そ、それは知ってるけど……」

「誰もお前は馬鹿だなんて言ってないだろう。まだ賢いほうだ」

 ルーファスは人の能力について厳しい人である。彼は生きるために強さを何よりも優先してきた。その強さをさらに強くする賢明さについても同様で、この二つを自他に要求する。男に対しては余計に厳しいが、それだけ期待は大きい。ルジェナは性別という点で兄と同じ土俵には立てないために甘やかされてはいるが、そんな兄に賢いと言われれば悪い気はしない。

 懐中時計の分針が十五回動いた時、食堂の重い扉をノックする音が聞こえた。入ってきたのは見慣れた赤毛の女性だった。

「姫さま、ここにいらっしゃったのですね!」

 金色の目を見開いた後、なんだか疲れたように息をついているが笑顔は絶やさない。

「ロッティ! ごめんなさい、探しまわらせちゃったわね……」

「い、いえ……ちょうどいいお部屋がありましたから、軽くですが掃除していたんです。ご案内いたしますわ。陛下も、ランフォス殿下もこちらへ」

 広い屋敷の中を迷うことなくすたすたと歩く彼女の後をついて、踏めば埃が舞う絨毯の敷かれた廊下を進むと二つの重そうな金属製の扉があった。散歩に行く前、ルーファスは弟と同じ部屋でいいと言っていたからその通りにしてくれたようだ。

「お前たちはどうするんだ」

「ご心配なく、一人ひとりに個室を与えられそうなほど広いですから」

「……ならいい。今日は移動で疲れただろうから、よく休めと皆に伝えておいてくれ」

 ルジェナはそんな会話を聞き流しながら片方の扉を開けた。先程は重そうだと思ったが、亜種である彼女にとってこの程度のものが重いわけがない。扉の先は意外に広く、小綺麗で整理整頓されている。ロッティが頑張ってくれたのだろう。妙に大きいベッドもしっかり埃が払ってある。サイドテーブルの上には、手のひらで包み込んでしまえるほどの小さなカンテラが二つ置いてあった。

「ねえロッティ、このカンテラ、貰っちゃってもいいかしら?」

「ど、どうでしょう……このお屋敷はマキナさまがご友人から譲り受けたとお聞きしました。こんな森奥なので管理は難しかったみたいですけど……」

「母さまが? じゃあ大丈夫ね!」

 ロッティの溜め息をよそにカンテラを手に取り、中のランプを取り外して緑色の灯石を入れる。磨いた硝子の蓋を閉めても鮮やかさは失われなかった。こんな色に光るカンテラなど見たことがない、それだけで面白いのだ。

「マキナさまに怒られても知りませんよ!」

 カンテラから漏れる緑の光の中で呆れ顔を作ったロッティに、いたずらっ子の笑みで答えてやる。ロッティはルジェナによく付き添ってくれる侍女のような存在で、年も近いので仲は良かった。ルジェナはそもそもお喋り好きなせいで周りとの間に壁は作らない。兄と弟は常に固い壁を作って自己を守っているが。

 ロッティは姫さまの奔放ぶりには慣れっこなので、すぐに見張りの交代をすると言って部屋を出て行った。ルジェナはその後を追うようにして隣室の扉を叩く。


「フォス、ちょっとおいで!」

 ベッドに腰掛けてマントを脱ぎ畳んでいたルーファスは、ルジェナがはちきれんばかりに笑っているのを見て、また何かしているなという顔をした。ランフォスは素直にこちらに走ってくるから可愛いものだ。

「我ながらいい考えだわ! 何だかいい夢が見れそう!」

 ルジェナはランフォスに自作のカンテラを見せる。石の花から穏やかに放たれている光は、それを見つめる幼く丸い瞳とほぼ同じ色だ。

「あなたは何がいい? ペンダントとか、可愛くて似合いそうね」

「身に着けていると壊れそうだから、これと同じがいいです」

「これがいいの? じゃあすぐにできるわ!」

 ベッドにランフォスを座らせて、彼が大事に持っていたルジェナの瞳と同じ色の灯石を預かる。これを残っていたもう一つのカンテラに入れてあげればいいだけだ。


「……もうそろそろで寝る時間ね。今日は兄さまにお薬を貰うのよ」


 弟の隣で、硝子の蓋を締めようとした手が止まる。薬を貰わなければいけないのだ、この子は。

「ランフォス、あのね、姉さまはね……」

 目を合わさないように、カンテラの中の自分を見つめたまま話しかけた。

「あなたが明日の朝起きた時、姉さまの顔を忘れてしまっているかもしれないって、毎日思ってるの。おかしい話……あなたが姉さまのことを忘れたことなんてないって知ってるのにね」

 ルジェナは自分のカンテラと一緒にサイドテーブルに置いていた灯石を手に取る。兄が帰ろうと言い出した時に慌てて摘んだ、兄と弟と違わぬ色。それも一緒にカンテラに入れた。光はお互いを拒むことなく、色は変わらず緑だったが、混ぜ合わせる前よりも暖かい色に見える。

「もしあなたが姉さまのことを忘れても、姉さまはあなたのこと、ずっと覚えてるわ。ずっと一緒よ、どんな夜でも寂しくないように」

 かちりと音を立てて、蓋はやっと閉じられた。それを弟に握らせる。ふたつ分の石の花は重いはずがない、それでもこんな小さな子供にとっては重いだろう。

「さあ、兄さまの部屋へお行き。もう眠る時間だから」

 背を押してやればランフォスはまた素直に歩き出したが、ドアノブに手をかけた時に彼は振り返った。靴音が消え、何もない静寂が一瞬だけ横切った。


「わたしは姉上のことも、兄上のことも忘れません」


 瞳は逸らされない。たったこれだけで自分とは違うということを思い知らされる。

「姉上は笑っていてください、ずっと」

 おやすみなさい、という声は何度も聞いたものだ。弟ほどではなくとも覚えている。扉が閉まる音を境にまたやってきた静寂。ルジェナは糸が切れたようにベッドに倒れこんで、無音を追い払うようにひとりごちた。

「……本当に、兄さまに似てきたわね」

 同じことを兄に言われたことがあった。まだどちらも小さい頃の話だ。自分のことも、自分の使命も分からなかった、まだ泣き虫だった頃の記憶。年の近い兄がその答えを自力で見つけ出した頃の記憶。

 ランフォスは自分と兄とは違う世界を生きていることが分かっているから、自分たちと同じ答えを出すはずがない。ルジェナは誰もが誰もに対して無力なのだと気づいてしまっている。あの子が見つけ出した答えが、あの子にとって残酷ではないことを願って、彼女は眠りにつくしかない。





 葡萄酒のような色の布を被せられていた鏡は、何もかもが古くなったこの屋敷では不気味なほどに、映り込むものを如実に再現している。両の上腕と背にかけて刻まれた刺青は、王家の男にのみ彫られるものだ。腕を広げれば一直線になる黒い線の組み合わせは、高貴な鷲の羽を表しているのだとか。


 くだらない。


 鏡の中の自分はそう言っている。過去の栄光は過去のものだ。その見せかけの王座も早く蹴り倒してやれよ。火をつけて馬鹿な民衆の前に放り出してやれば、奴らも気が済むかもしれないぞ。

 だが逃げたところで刺青は消えないだろう? そう問えば目を逸らされる、逸らしたものと同じように。


 こうやって見たくもないものを自ら見てしまうところは人間臭いなと思うのだ。体は人間そのものだ。異形みたく化け物じみてなど一切ないし、かといって獣の耳や尾などもない。赤毛さえなければ人間の群れに紛れ込むことぐらい簡単だ。髪を黒にでも金にでも染めてしまえばいいじゃないか。

 馬鹿馬鹿しい話だ。人間ではないのに人間のふりをすると臭いでばれるぞ。刺青は消えないと何度言えば分かる。


 袖を通されないせいでだらりと落ち、腰紐で止められていた白い服を掴みあげた時に、扉が開いた。兄の背の禍々しくもある刺青を見たランフォスは少しだけぎょっとした顔を見せたが、いつもの無表情にすぐ戻される。部屋の真ん中の机の上にカンテラが置かれる音を背に、服に袖を通した。ジッパーを首元にまで上げるのは窮屈だから、胸の辺りまででとどめておく。

 十二歳になれば、ランフォスのまだ華奢な背にも刺青が刻まれる。不愉快だ。いつまで古臭い願掛けを続けるつもりなのか。王としての権限をその時だけ振り翳してしまえば、自分だけは幸せになれるかもしれない。

「ながい……」

 弟が足元で呟くのが聞こえた。何がだろうと思ったが、顔だけ振り向けば解いた髪にじゃれているのがすぐに見える。見たこともないものを見るような目をしているのが妙でおかしい。

「驚くには遅すぎないか?」

 ルーファスの髪は足まで届くほど長い。毛先がはねる癖毛は弟にも遺伝している。身体をランフォスの方に向けて地べたに座り込んでも、彼は髪の毛で遊んでいた。

「なぜ伸ばしているんですか」

 猫みたいだと気を抜いていると質問を投げかけられた。答えてやってもお前には分からないだろうとは言えなかった。

「父上が短髪だったから」

「ちちうえ……」

 動いていた指先が急に止まった。知らない言葉をおうむ返しにしている。ルジェナと同じだ。

 いい機会だと思った。考えこんでしまった弟に、今まで聞けずじまいだったことを尋ねる。

「お前は父上の指一本だけが帰ってきたのを見て、それを近づけるなと言ったな。それほどまでに悍ましかったか」

「……いけませんでしたか」

「それだけは覚えているんだな。父上の顔も名前も、父という概念すら記憶できなかったのに」

 同じ色の瞳は同じ考えを宿している。どちらも真意を探っているのだ。先に口を開いたのは兄のほうだった。

「ランフォス、お前はなぜ私を覚えている」

「……兄上は優しい人です。わたしはあなたを誇りに思っています」

 十歳にも満たない子供の言うことではない。ルーファスとは生きている世界が違う。同じ親から生まれた兄弟でも違うのだ。


 ランフォスは自分が認めた相手と興味のあることだけを、音と映像と共に完璧に記憶し、一瞬たりとも忘却することはない。超人的な記憶力の代償は、興味のないものをいくら目にし聞かされても、絶対に記憶できないというもの。


「ちちうえという人のことが、お嫌いなのですか」

 彼は父親を知らない。彼の有する膨大な記憶の中のどこにも父はおらず、かろうじて残された、銀の指輪をした血塗れの指一本は恐怖の対象にしか成り得なかった。

 弟は返答を待っている。兄の言葉を死ぬその時まで記憶するために。

「嫌いだったというより、苦手だった。あの男は古臭い」

 微笑んでやれば、この刺々しい言葉も少しはましに聞こえるだろうか。棘すら分からないなら、こんな気遣いも無駄になるが。


 父は立派だったとは思う。彼の死からはまだ一年も経っていない。あの日、一体目の異形が現れた。彼は当時率いていた部隊を最小限の犠牲に止め、彼の弟と妹たちを守り通した。過去の栄光を追っていたこと以外は模範的な人物だったように思う。

 父の願いは叶わず、弟妹たちも次々に異形に殺され、遺体すら帰らなかった。ルーファスにガルダの統率権が与えられたのがその証拠だ。自分が去ればこの椅子にはランフォスが座ることになる。彼がおとなしく座るか、自分と同じような衝動を抑えず火をつけようとするかは分からないが。


 今ここにないものを懐かしんだり探し続けることについてどう思うか、弟に問うたことがある。彼は一言、それは夢ではないのかと。夢を見たことはあるかと問えば、一度もないと。年相応な答えなど返ってくるほうのが稀なのだ。子供らしい表情を作ることも少ない。

 邪気のない質問に答えてやってからというもの、ずっと黙ったままの弟の頭を強めに撫でてやれば、されるがままで目を瞑っていた。

「お前も伸ばすか。私によく似る」

「似てほしいのですか」

「そうなれば、私もお前も寂しくなくなるだろう?」

 髪を結い立ち上がって、机の上に置いておいた硝子瓶を手に取った。緑色の光を吸い込んでいたそれには錠剤の薬が入っている。母から預かった睡眠薬だ、眠ることを覚えられなかった弟のための。

 薬はすぐには身体に回らない。毎夜毎夜、これはなんだと錠剤を目にして言う弟に否が応でも飲ませるのは可哀想で気が引ける。まだろくに戦えもしない幼児をこうして部隊に置いているのは、その命を奪わないためだった。

 ランフォスは見知った相手以外からの投薬を拒む。母親からでも嫌がるくらいだ。日頃から話すことが多く記憶できている相手、兄か姉からではないと何も受けつけようとはしない。万が一の時、ランフォスだけでも逃がすために母の住むイヅキ家のすぐ近くを周ってはいるが、その先が心配だった。


 ランフォスの本能は欠落している。眠気も空腹も感じることなく生きられても人間の身体だから、限界の先に待つのは死のみだ。


 眠くなるまで話をするのはいつものことだった。今日はルジェナが作ったらしいカンテラという光がある。何の面白みもない室内だというのに、光が波打つさまは退屈しないし幻想的だ。

「眠ることを知らずに眠るのは、怖くないか」

 光と小さな机を挟んで、軋む椅子に向かい合わせで座る。ランフォスにとっては返事に困る質問だろう。眠るということを知らないのだから答えることはできない。だが予想を越えて言葉は返ってきた。

「……死ぬのと同じだと思いました、……思っています、いつも」

 泳ぐ緑の光を見つめた瞳は、いつか見た夜の浜辺のように光を反射している。

「途中までは覚えているんです。兄上や姉上の言葉はいつも途切れます。目の前がぐらぐらしてきたところから怖くなるんです、何がどうなっているのかいつも分かりません。あなたに何度説明されても、分からない」

 カンテラに両手を翳している弟の海のような瞳を見つめていた。今まで交わらなかった視線が急にまっすぐに合わさる。

「わたしは三度死んだことがある。あなたの顔が見えなくなる瞬間のあの感覚は、死ぬ時と同じです」

 そんなはずはないだろう。そう言いたくなるが彼の記憶が間違っているはずはない。ランフォスは度々、自分が死を経験したことを語る。彼は完璧な記憶をするから、記憶を改竄することなど有り得ない。信じられないが彼の経験は事実に違いないし、それは輪廻転生の存在を証明してしまう。前世の記憶が間違っていなければの話だが。こうして疑ってしまうのは自分にそんな記憶が無いからで、それ以上の理由がない。

「お前を殺しているようなものだな」

 こうやって苦笑する他ないだろう。ランフォスの記憶も、感覚も意識も、人智の及ばない域にあるからだ。例え血が繋がっていようが、赤の他人だろうが、彼を未知の恐怖から救うことはできない。

「そう怖がることはない。先に生まれた者から順に死んでいくのが正しい流れだ。お前が私より先に死ぬ道理などないし、いらない」

 気休めしか言えない兄を許してくれとは思わなかった。今は亡き父と叔父たちが立った場所にルーファスは立たされている。ある種の諦めはそこに飾りつけられた時からあった。自分の腕は見えない闇の先に枷で繋がれている。

「私が死んだ時は死体は焼き捨てるのがいい。埋めるのは面倒だろう。骨は消えないがそのうち草木か何かが覆い隠すはずだ」

「あにうえ」

「灰はそのまま野ざらしにしておけ、後はどこへでも好きに飛んでいくから」

「……ちちうえは」

 不安ではなくただ事実を訴えようとしている。つぐまれた口はすぐに開かれた。


「ちちうえは、指しか帰ってきませんでしたよ」


 異形は仕留めた獲物を引きずって、巣である研究所へ持ち帰るそうだ。戦いの後の凄惨な林中で、乾いた血が一本道を引いている光景は何度目にしてもぞっとする。そうだ、誰も帰ってこなかった。

「もし私がお前のもとを去ってもなお生きていたら」

 死んだら帰れないのだ、誰のもとへも帰してはもらえない。


「……その時は私を殺せ。私がお前を本当に殺す前に」


 本気で言っている。人語を喋る異形に出会ったことがあった。赤い髪のその異形は、妻の名を、弟妹の名を、子らの名を呼んだ。


 常人が死後の世界を理解できないように、死んだ後に自分がどうなるのかは誰にも分からない。もしかしたら死ぬより酷いことをされるかもしれない。死んだほうがましだと叫び散らして嘆いてしまうような何かが、既に死した自分を襲うかもしれない。

「嫌ですと言ったら」

「私の望みを汲んでくれというのは酷な話か」

 ランフォスは笑わない、彼の前で笑ってばかりの兄とは違って。

「私が死ぬと同時に、お前が私のことを忘れてしまえたらいいのに」

 返事はなくそのまま時間が過ぎ、机の上に置かれていた手が弱々しく握られていく。こうして急に目蓋が重くなるらしい。薬など飲んだことがないからこれが普通なのかは分からないが。

 小さい体を抱き上げる時にいつも手が震えそうになる。自分の力がどれだけ恐ろしいものか、初めて生死をかけた経験をした時に思い知っていた。この片腕で骨ぐらい簡単に折れるし、頭蓋だって潰せてしまう。子供の相手をする時に気を抜けばどうなるか、想像がついてしまうのが嫌だ。

 明らかに子供用ではない寝台に寝かせて、カンテラも台のついたフレームの上に置いてやった。やはり見張りたちの様子が気になるし、彼らにも休息は必要だ。部屋を出ようとした時、寝台に横たわったままのランフォスに服の袖を掴まれる。無言の反抗だった。

「大丈夫だ、私はお前から離れて生きるつもりなどない」

 触れた頬は子供独特の温かさを持っていたが、今この時もランフォスは死の恐怖を目前にしている。

 そんなに苦しそうな顔など見たことがなかった。ずっと耐えていたのか。眉は顰められ、口元は耐えるように歪んでいるだがそれも少しの間だけで、恨めしげだとも思えるような瞳にまもなく目蓋は降ろされた。

 温かい緑の瞳は消えても、波打つ光はカンテラから絶え間なく流れ続けている。底なしの光だ。生きている限りは光り続けることができる。

「お前はまたそうやって、眠りながら私のことを思い出すのか」

 眠ることは死ぬことではない。手は動かなくなっても温かさを保っているし、このまま冷えきってしまうこともない。だがその事実をランフォスに知らせることはできない。この先どれだけの年月を重ねても、絶対に。

「かわいそうに」

 夢さえ見られないなんて、残酷すぎやしないか。ありとあらゆる負の感情を抱く度に、神などいないのだと諦めが蘇る。もしもいたとして、妙な呪文を唱えれば救ってくれるのか。十字でも切れば幸せをくれるのか。

 力などない。一番欲しい力が崩れ落ちた王座などに用意されているはずがない。例え時間を超えたとして、過去にも未来にも探しているものはない。

 もうこのまま眠ってしまおう。誰かの為の死なら怖くない。誰の為でもない死を迎えることが怖い。だがこれから眠りが死と同じだと思っていれば、もし無力なまま力尽きたとしても狂わずに消えられそうだった。

「寂しくないだろう、一緒なら」

 暗闇が腕を飲み込み意識まで奪っても恐れなどいらない。枷のつけられたこの手は、他の誰かの手を握っているから。





 目覚めたばかりの曖昧な視界に最初に飛び込んできたのは、カーテンのない硝子張りの窓を通り越した月光だった。次に見たのは肌触りの悪いシーツの上に投げ出されていた右手。その手には何もない。感じていたはずの体温も、大きな手も。

 あの日の朝、兄は弟の手を握ったまま、寝台に頭を預けて眠っていた。

 この洋館に戻ってこられたのは幸運だったのかもしれない。ランフォスは館の構造を一部分だけだが記憶していた。九年の間に変わっていたのは目線の高さと、より一層汚れた内装だった。この部屋も少しも迷うことなく見つけ出せた。

 床に落とされた格子状の月光の先で、壁に背を預け、剣を抱いたまま眠っている友人を見つけた。部屋にはもう一つベッドがあるというのに、兄と一緒で使いもしない。

 暗い、そう感じたが理由はすぐに分かった。記憶の中にあったはずのカンテラがない。

 意識が戻った時、目眩を起こすことがよくある。ランフォスは姉から貰ったあの奇妙なカンテラを大事にしていたし、光はいつの夜もすぐそばにあった。だが六年前、何を思ったか焦点がまだ定まらないうちに立ち上がったせいで、空を切った手はカンテラを地に叩き落とした。

 壊れやすいとは聞いていたが、あれだけの衝撃を与えれば割れるほうが自然だ。石の花は当然のようにばらばらに、粉々になったし、以前のような光は発さなくなった。カンテラについて何も知らないラフィカが緩やかに点滅する欠片を見て、死にかけの蛍みたいだと呟いたのを記憶している。

 ランフォスだけは、灰のようだと思った。燃やされた誰かの指、あらわになった白すぎる骨、血塗れた肉の成れの果て。生きていたはずのものの死と最期。


 灯石の破片の新たな器として、拾い物の煤けた麻袋を選んだ。死にかけの蛍が袋の外にまで自分の存在を主張したことは一度もない。麻袋は九年前と同じように、寝台のフレームの上に置いてあった。

 紛れも無く衝動だった。その麻袋と手に馴染んだ剣、懐中時計を引っ掴んで、無駄に大きな窓を開ける。季節は同じく秋で、冷気は結ばれていない髪を撫で、頬を刺す。丈の長い服でも一枚だけでは寒いが、それよりも窓枠の高さが容易に飛び越えられるぐらいだと気づけたほうが大事だった。

「どこに行く気だ」

 窓枠に足をかけようとした時だった。声のほうを振り返ると橙の瞳が咎めるようにこちらを見ている。亜種とは本当に野性的な生物でただでさえ人間らしくはないというのに、ロアはその枠を逸脱している。彼とはもう長い付き合いだ。実はずっと前から起きていて様子を窺っていた、と言われなくても分かる。

「……追うなよ」

 ロアは何も言わず肩をすくめてまた眠ろうと俯いたが、恐らくは狸寝入りだ。今では夜さえ危険だということをランフォスは思い知らされているし、ロアだって後ろをつけてくるに決まっている。だが追うなと言っておけば声をかけてくることはないだろう、それで良かった。

 窓枠を飛び越えた先、外壁の両端には見張りがいたが、なんとか彼らの目を盗んで木々の間に走った。あれぐらいの音なら亜種に聞かれても狐か狸だと思ってもらえるだろう。


 木の葉の先の空に浮かんでいるのは満月ではなく、ちょうど半分に欠けた姿をしている。灯石とは違って割れても数日で元に戻るのには感心する。一度ぐらいばらばらに欠けてしまってもいいものを。

 道筋を間違えるという可能性など考えなかった。一度記憶した光景を今この時に見ることなど簡単だ。ただ思い出すだけでいい。目線の高さ以外は全てを再現できる。両脇には毎夜会うせいで懐かしくもなくなってしまった兄と姉がいる。まるでまだ生きているかのように彼らは動いて、全く同じ言葉を口にする。


 姉の全てを愛していた。兄の全てが誇りだった。懐かしくなくとも空虚は去りはしない。いないものはいない。幻を見ているだけだ。


 池の水は枯れてさえいなかった。灯石の色彩は全く同じで、波紋だけが新鮮だ。何度も反復して見てきた景色が広がっていて、姉がはしゃぎ回る姿が見える。

 映像はぶつぶつと途切れ始めた。死の淵に立ったわけでもないのに走馬灯のように記憶が巡る感覚、何度も感じたものだが不快だ。


 兄と姉を残して夜の森をただ走った。騒ぎを聞きつけた王族たちに戻れと命令した。たった十人の亜種で三体の異形に勝てるはずがない。兄と姉はもう深手を負っていた。援軍は必要ない、二人だけで止める、そう伝えろと、血の混じる声で兄が。


 形容できない一瞬の痛みに眉を顰めた時に、兄はあの言葉を語り出す。青白い光の中、全てを達観したような笑みで。


 どこへでも好きに飛んで行くといい。あの人の望み通りに。


 風が強いせいで、それはいとも軽やかに宙へ滑りだした。麻袋から手に出した砂のような欠片、弱々しくなった光もまだ死んではおらず、月が光を与えれば、記憶と齟齬のない色を反す。

 飛びゆく先を見たのは掌から欠片が全て去った後だった。ぽっかりとあいた穴のような上空、欠けた月の先へ。兄でも姉でもない、月は死者の国だと言った人を珍しく覚えている。


「……あなたたちはまだ生きている」


 五年前、朝十時、世界で最も美しい青を見せた空の下で、母の名を呼んだ異形の胸を刺した。

 八年前、夕暮れの午後四時、カラスの飛ぶ通り雨、誰とも知れぬ言葉が氾濫する中、兄と姉の言葉を喋った異形に十字の傷をつけた。


 彼らの心は生かされている。彼らの望みなど一滴も汲むことなく、無数の心を混ぜ合わされて、一つの肉体の中で思考を続け、かつての同胞を屠るだけの存在になっている。


 今までに何度も髪を切った。ランフォスはフォークの持ち方も髪の結び方も一日経てばすっかり忘れてしまうのに、髪を切るという行為だけは覚えていた。髪を伸ばすなら一人で結べるようになれとロアに説教されたことがあったが、髪を伸ばす理由を話したら、仕方がないから俺がやってやる、と。

 己の手で殺すと決めた人が鏡の中に現れないように、あの頃よりは長く、兄よりは短く、そこで何年も留めている。何もかも似せてしまった時が自分の最期だと信じてしまっている。

 濁りのない水でも鏡の代わりを果たすほど鮮明ではない。似通いすぎた赤毛は流れの変わらぬ風に乗って月へと登る。この光景、音、感情の全てを、死ぬその時まで忘れられないだろうと思ってしまった。


   ランフォスは夢を見ない。無意識のうちに忘却を恐れ、記憶を一夜で全て反復するから、夢を見る時間など彼にはない。

 銀色の懐中時計は午前三時を指していた。夜明けはまだ遠い。急に現れた雲が月を隠したが、盤面はくっきりと見えている。本当に死ぬその時まで、あと何度死ねばいいのかは誰も教えてなどくれない。だがそう遠くはない気がしていた。解放の時はすぐそこにある。


 帰路についた足を思い出が邪魔することはなかった。光が雲に遮られても帰るべき場所は覚えている。何度死を繰り返して、何度忘却を知ったとしても、たった一つの場所に辿り着きたい。


 望み、望まれた未来を、この目で見るために。

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サンサーラ 短編 榎木のこ @enokinobayasi8

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