第十一章 幼馴染の距離(前編)

1★.大浴場にて

 寮の大浴場は湯気に包まれた談笑で華やいでいた。


 うら若き乙女たちが一糸纏わぬ肢体を晒し、肌を薄桃色に染めながら洗い場と湯船でそれぞれ身を清めている。嗅覚ではなく視覚から、花の香気が感じ取れそうな光景だった。


 入り口の引き戸が開かれ、一人の少女がその香気に加わった。


 名前は日生円珠ひなせえんじゅ聖黎女学園せいれいじょがくえんの中等科三年に進学して二週間になり、小柄な背丈と栗色のミディアムボブ、そして胡桃色くるみいろの大きな瞳が特徴的な少女だった。


 聖黎女学園は全寮制のお嬢様学校で、箱谷山はこやさんの中腹に様々な施設が建ち並んでいる。生徒たちから黎女れいじょの略称で親しまれるこの場所は、一本の車道を挟んで寮棟区りょうとうく学舎区がくしゃくに分かれており、学舎区の白亜の大校舎でめいっぱい学んだ少女たちは、寮棟区の赤煉瓦の生活空間でその疲れを癒すのである。


 だが、円珠は疲労感を癒すどころではなかった。華奢な肢体の前側をタオルで隠しながら、華々しい喧騒から逃げるように風呂椅子に座り込む。小動物めいた瞳の輝きが、周囲の視線を恐れて震え出した。


「はぁ……」


 一体、この手の溜息を何度吐けばいいのだろう。

 周りに聞かれていないかそっと確かめつつ、円珠は己の現状を嘆いた。


 始業式以来、日生円珠の評判は微妙なものになっていた。悪い意味で学校屈指の有名人である一条和佐いちじょうかずさと裏でつながっていたことが発覚し、その事実は、円珠をただの大人しい少女と信じていた人々を衝撃で打ちのめした。衝撃は噂と憶測を呼び、円珠はどこで陰口を叩かれているか、常に怯える日々を過ごさなくてはならなくなった。


 一条和佐は高等科一年に進学し、厄介な人物だが、それ以上に優れた頭脳と容姿を持つ美少女であった。うなじまで波打たせた白髪の持ち主で、瞳は硬質な輝きを秘めた灰色。際立った美貌が非人間じみた配色と重なって、彼女は幼少期の頃から奇異な目で見られ続けた。


 結果、重度の人嫌いを発症させ、明晰な頭脳から産まれた極端な合理主義も相まって、周囲とはとことん反りが合わない。中等科時代の三年間、和佐は本来いなければならないルームメイトを徹底的に固辞し、寮母のシスターはついに、彼女にふさわしい相手を見つけることを諦めなくてはならなかったのである。


 円珠は和佐のことを『姉様』と心酔し、秘密の逢瀬を何度も重ねていた。秘密といっても、肉体面においては健全な関係である。秘密の内容は、姉様主導による裏工作の打ち合わせ。

 何食わぬ顔で、円珠は姉様にとって都合の良い噂を広めたり、盗品を一時的に預かったりしていたのだ。その罪はまだ表沙汰にはされていないが、陰で『一条和佐の共犯者』とささやかれると、図星を突かれた気がして神経が縮こまる。


 人嫌いの姉様と違い、円珠は交友関係はそれなりにあったが、関係を知られたことでその付き合い方も改められた。距離をおくもの、変わらずに交流を持ってくれるものまで様々であったが、まず円珠自身が友人との距離感を図りかねた状態であり、元の仲に戻るにはしばらく時間がかかりそうであった。


 円珠は身体を隠したタオルを取り払い、繊細な曲線を描いた胸やお腹を、湯気で曇った鏡の前に晒した。


 胡桃色の視線は鏡に映った自身の右腕に向けられた。

 身体同様に細い前腕にガーゼの包帯が巻かれている。


 これを見つめると、傷を負ったあの夜の出来事と、当時の自分の愚かさとが同時に思い起こされてしまうのだった。


 包帯の中に隠されているのはカッターナイフによる傷であり、傷を与えたのは円珠自身だ。姉様との関係が崩壊しそうになった際、その仲を修復しようと、自傷という狂気の沙汰と呼ぶべき行為を選んだのである。もっとも、この思い切った行動がなければ姉様との絆が深まることはなかっただろうが、怪我の功名という名目で自分の中にある狂気をたやすく受け入れる気にはなれなかった。


 円珠が憂鬱に感じるのはそれだけではない。姉様が自分のことを気にかけてくれるのは無上の幸福であるが、一学年の差はやはり大きかった。共にいられる時間をほとんど得ることができず、円珠は寂しさに打ちひしがれることが多かったのだ。


(いっそ、姉様が留年してくだされば……)


 とんでもないワガママを思い浮かべてしまい、円珠は慌てて首を振った。いくら自分のことを懇意にしてくださるとはいえ、そのために姉様が人生の歩みを止めるはずがないし、そう願うことが許されていいわけがなかった。


「ばかばか」と頭の中で自分を叱りつけていたとき、騒がしかった大浴場が急に静まり返った。


 驚いて顔を上げ、周りと同じ方向を見る。


 ちょうど入り口の引き戸が閉められ、新たに現れた少女がタイル張りの床を踏んでいたところだった。


(あ……っ!)


 その少女を見た瞬間、円珠は心臓発作におちいるかと思われた。香気の場に訪れたのは自分が散々想いをめぐらしていた姉様ではないか。


 姉様……一条和佐は同年代の少女より背が高く、みずみずしい体躯にタオルが巻かれていた。タオルの上部から形の良い肩や鎖骨が剥き出しになっており、下部からは極上の脚線美が見てとれる。胸のふくらみ具合は厚手の布地に隠されてもはっきりとわかり、湯船に浸かる前からのぼせ上るには十分すぎるほどだ。


 どんなに性格が悪くても、白髪少女の美貌を否定できるものは存在しない。もっとも、周囲から美貌を賞賛されることは和佐の本意ではなく、鬱陶しい視線から逃れるために、普段は個室のシャワーブースに駆け込むのが常だった。


 その姉様がなぜ突然大浴場を訪れる気になったのだろうか。


 和佐の灰色の視線が名ばかりの『妹』の姿をとらえる。見つめられた円珠は背筋をぴんと張り、姉様の接近を呆然と見つめた。足取りは堂々としていたが、やはり半裸の肢体を晒すことに慣れないらしい。美しいかんばせに緊張が浮かんでいるのが見てとれた。


 円珠の前まで訪れると、タオルを巻いた白髪美少女は不思議そうに辺り一帯に視線をめぐらしてつぶやいた。


「……大浴場って、もっと騒がしい場所だと聞いていたけれど」


 静かなのは姉様がいるからです……とは言えず、円珠は動悸を抑えながら辛うじて「どのような理由でこちらへ?」と尋ねることができた。


「あなたの傷を確かめたかったのよ。私が負わせたのも同然の傷だから……」


 和佐の声は人嫌いとは思えぬ沈痛さで満ちていた。


 確かに、カッターナイフで傷を作ったのは円珠自身だが、そこまで精神を追いつめたのは姉様と言えなくもない。もっとも、責任の度合いなど今の円珠にとってはどうでもよかった。姉様が傷のことを気にかけてくれる、それだけで胸がじーんと熱くなるというものである。


 だが、その喜びも、姉様の次の行動によって吹き飛んでしまった。


(……ふ、ふええっ⁉)


 目の前で姉様がいきなりしゃがみ込む。タオルから伸びた脚が勢いよく視界に飛び込み、艶めかしい肉感と弾力を秘めた太ももに円珠は頭がくらくらしそうになる。和佐は膝丈より長いスカートを履くことが多いため、太ももの下半分まで拝められることは稀少であった。


 円珠は姉様から顔を逸らし、声を上ずらせた。


「あ、あの、姉様がお気になさるようなことでは……」

「しなくていいわけないでしょう」


 和佐はあくまで真剣である。


「すべては私の愚かさが招いたことなのよ。あなたの大切な身体に傷を入れてしまうなんて……。いくら謝っても許されないとはわかっているけれど、それでも、できる限り償いをしていきたいの」

「ね、ねえさま……」


 円珠は胡桃色の瞳を潤ませた。『妹』の目から見ても、姉様は冷淡で薄情な先輩だった。その姉様が本気で心配し、自らの行いを悔いてくださっているのだ。こんなに嬉しいことはない。


 その一方で、自分は頭の片隅で何を思っているのだろう。どうにか自分を叱咤するも、それでも魅惑的な太ももを脳裏から消し去ることはできなかった。


 和佐の灰色の瞳が、円珠の包帯に向けられる。


「その包帯は? まだほどけそうにないの?」

「えっと、痛みは大丈夫なんです。ただ、医務室の先生から傷口にバイ菌を入れないようにと言われてまして……」

「痣は?」


 今度は視線が、後輩少女の背中に注がれた。


「あ……ッ」

「跡とかは残っていない? あのときは本気で蹴りを入れた気がしたから……」


 確かにそのようなこともあったが、円珠は今それを思い起こすどころではなかった。背中をまじまじと見つめられ、そのせいで血液が沸騰しそうになる。振り返らずとも、正面の鏡によって姉様の視線の動きがわかるのだ。逆に言えば、和佐も鏡越しで円珠の正面からの姿を見ることができるというわけだ。


 灰色の視線が繊弱なくびれや胸をとらえたとき、円珠は咄嗟に背中を丸めて頼りない自分の前部を隠した。


「まま、前の方は大丈夫ですからッ!」

「そ、そう」


 面食らいつつも、和佐は安堵の反応を示した。


「確かに、一瞬だけ見ても痣らしきものは見当たらなかったわね。それに関しては私にとっても救いだわ」


 円珠としては自分の貧相な肢体を見られて、あまり救いとは言い難い心境だったが、姉様との肢体の落差にしんみりしてばかりもいられない。


 どうやらこれで確認は終わりらしく、和佐が円珠の隣の洗い場に腰を下ろそうとする。

 まさにそのときだった。湯船の方から激しい水音が上がったのは。


「ちょっとちょっとちょっとーっ⁉」


 水音に続いて少女の甲高い絶叫が響き、和佐と円珠は揃って湯船の方を見やった。


 湯船から立ち上がったのは、小柄な円珠よりもさらに小さい少女だった。タオルをターバンのように巻きつけ、そこから紫がかった黒髪がちらりと覗かせている。


 すっぽんぽんの肢体に湯気をまとわりつかせながら、二人に対して赤銅色の瞳をぎらつかせた。


「こんな大勢の中で何やらかしちゃってくれてるのよ⁉ 一般常識ってヤツもどうせ知らないんでしょ⁉」


 立ち上がった和佐は、かしましい声の主にうんざりとした視線を投げ返した。


「……興味もないけれど、社交辞令として聞いておくわ。あなた、一体何者なの」

「このルチカ様を知らないなんてどんなモグリよ⁉」


 ルチカ様と称した少女は、すべすべした胸の前で腕を組み、居丈高に続けた。


「と・に・か・く! アンタたちが変なことをしたせいで、こっちは大変なことになってるんだから! ちょっと来なさいよ!」


 ここまで叫ばれては確認しないわけにもいかない。

 和佐と円珠が湯船に近づくと、確かにそこには大変な光景が広がっていた。


 一人の少女が湯船に顔の下半分を沈めている。紅茶色の髪を上方で団子状にまとめており、水面には髪色より濃い赤が滲んでいた。頭が引き上げられると、少女の鼻から新たな血がしたたり始めている。


 鼻血の少女に、和佐は美しい片眉を吊り上げる。


「これがどうして私たちのせいになるの」

「あんたたちのやらしいやり取りを見てのぼせちゃったのよッ。リコは女の子どうしのこういう絡みにホント弱いんだから!」


 責任を問うようにルチカは言い放つが、気弱な円珠でさえも彼女の発言をどうかと思ったものだ。リコと呼ばれた少女は、頭が正常に機能していないのか、周りのやり取りを自分のこととして認識していないようである。


 ぐったりとするリコに対し、和佐は冷ややかな視線を浴びせかけた。


「そんな寮生がどうして大浴場を使っているのよ」


 和佐に反感を抱くものがこの中にはかなりいたが、この時ばかりは白髪少女の言葉に同意見であった。

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