4☆.紅い腕の少女

 立食パーティが始まる三〇分前、一条和佐は『妹』の少女に凄絶な恨みを買われている事実にまだ気づいていない様子で、自室で読書に励んでいた。


 このとき上野岬は部屋にいなかった。スピーチの事前練習ということで三号棟の寮母から招集を受けていたのである。原稿に関しては口を挟まなかったが、余裕のある態度で部屋を出たのを見ると、準備は万全なのだろう。


 正直、ルームメイトが白々しいほど無難な原稿を読もうが、受けを狙って大恥を晒そうが、和佐にはどうでもよかった。

 彼女が気になっていたのは、その岬からもたらされた円珠の態度のことである。


 円珠と初対面を果たした岬は、彼女に欺かれそうになったことを姉様に率直に告げたのである。和佐は今後の方針を問われたが、このような円珠の態度は今まで経験したことがなく、即座に回答が出るものではなかった。

「長期戦になるかもしれないわね……」としか答えられなかったが、そもそも円珠と会う手立てが途絶えた今、自分に何ができるというのだろう。


 だが、いざ部屋を出ようと思った矢先、その円珠から突如返信が来たのである。


「こんな時に……?」


 今まで何していたのよ。胸中でそう毒づきながらも、和佐の心はさざめいた状態にあった。

 通知を開くと、瞬間、和佐の体内の血が凍った。


 表示されていたのは、いつものキノコアザラシのスタンプではなかった。カメラ機能で撮影された画像で、そこに白くほっそりとした円珠の右腕が垂れさがっている。


 ワンピースの半袖から伸びた前腕に赤い線が引かれている。

 肘と手首のちょうど間を斜めに走っていたそれは、線を中心にさらに血でできたシミを肌に広げていた。そして、彼女の右手には刃を赤黒く汚したカッターナイフが……。


 和佐の心も切りつけられた錯覚におちいった。後輩の彼女が血迷って、自分で自分の腕に傷を入れたことは、もはや疑いのないことであった。


 端末を持つ指が震えているところに、新たな通知が届く。今度は画像でなくメッセージで送られてきた。


『すぐ来てくださらないなら、次は手首を切ります』


 和佐は息とともに嫌悪感を吐き出した。

 凄惨な画像を送りつけた円珠の心がどこにあるかはわからないが、向かわないと取り返しのつかないことになる。


 もはや立食の集合時間など構ってはいられない。恐怖に突き動かされるかたちで、和佐は急いで寮棟を飛び出した。


 円珠が痛ましい腕を撮影を自撮りしたのは禁帯出資料室だ。その場所へ向かうために、正面突破の手段を和佐は選ばなかった。

 さすがに集会を知っている司書に阻止されると思い、円珠が普段使っている外壁と塀の隙間を通り、裏口の扉から資料室に侵入したのであった。


「……姉様……」


 入るなり呼びかけられた声は、可憐だがうつろに響いた。


 和佐はその声に導かれて書架と書架の間に滑り込み、壁を背にしてたたずむミディアムボブの少女と正対したのであった。


 円珠と出会った瞬間、和佐の中でささやかな疑問が一つ氷解した。撮影された画像でもそうだったが、資料室の電源は落とされていた。それなのに、円珠の血で汚れた腕はほの暗い灯りによってはっきりと視覚できた。その光源が彼女の足元にあった。円珠はアンティーク調のランタンを持ち込んでいたのである。


 ランタンの明かりに照らし出された少女は、姉様の姿を見て、口元に淡い微笑を広げた。


「姉様が来てくださってよかった。もし、いらっしゃらなければどうなっていたか……」


 その先を聞く気には、和佐にはとてもなれない。血まみれの右腕から目を背け、声だけは厳しく言い放った。


「早々に医務室に行きなさい。まったく、なぜ自分で自分を傷つけるなんて馬鹿なことを……」

「こうさせたのは姉様です。さらに言えば、わたしは医務室に向かうつもりは毛頭ありませんから」

「聞き分けのないことを言わないで」


 姉様らしくとがめたが、自傷を姉様に他責させた少女は雑音を聞いたかのように顔をしかめた。忠節はすでに和佐から遠ざかっていた。

 諫言を無視した円珠は血塗れの腕を動かし、ポケットから鍵を取り出した。そしてそれを姉様に突きつける。


「姉様が所望されているのはこちらなのでしょう? わたしなどではなく」


 悪意に満ちた皮肉である。

 しかも、なまじ事実であるだけに和佐は言葉を詰まらせてしまった。


 沈黙する姉様に円珠は軽い失望の表情を浮かべたが、これ以上の嫌味は言わず、鍵をポケットの中に戻した。


「むろん、お返しはいたします。ですがその前に一つ、わたしの条件を呑んでいただきましょうか」

「条件とは何よ」

「あの編入生から手を引き、二度と関わらないと誓うんです。それができないなら、鍵は渡せません」

「それは……」


 言いさして、和佐は口を閉ざしてしまった。黙ってしまったことに、和佐自身が驚きを禁じ得なかった。

 おそらく昨日の午前中であれば頼まれるまでもなく、編入生を追放するためにあれこれ画策しただろうが、その彼女の首を絞めかけたこともあり、今は罪悪感の方が悪意よりまさっている状態であったのだ。


 もっとも、この時は後輩の申し出を断る口実を和佐はすでに持っていた。


「まず鍵を返すのが先よ。私物を返さないとあいつは出て行かないと聞かないもの」

「私物を返しても出て行くわけないじゃないですか。それに接触を断つなら、姉様の方から部屋を去ることもできるはずです。別にあの編入生に行動を制限されているわけじゃないでしょう?」

「ルームメイト解消に双方の同意が必要な点はどうなるの!」


 声を荒げた和佐だが、円珠はひるむ色を見せない。これ以上、姉様と交渉しても無駄とさとったのか、下から照らされた可憐な顔に憎悪の影がよぎる。


「……どうして即答しないんです?」


 円珠の声が低く凄んだものに変わる。


「姉様の憎んでいたルームメイトなんでしょう? だからこそ昨日、わたしにこの鍵を託したはずじゃないですか」


 一歩前に出る。胡桃色の瞳に濁った光をちらつかせながら姉様のかんばせをまっすぐ睨みつける。


「にも関わらず……その翌日に鍵を返せというのはどういうことです? 何よりまず、あの女に私と姉様の関係を暴露したのはなぜです? わたしの長年の忠誠心は、あの編入生の数日間に劣るというのですか?」

「確かに、円珠のことを話してしまったのは不都合だったかもしれないわね。だけれど、私は別にあなたを切り捨てるつもりなんかないわ」

「だったらその言葉が本物だと証明して‼」


 絶叫とともに、円珠が床を踏み鳴らした。

 引き出しの鍵を押し付けられたとき、姉様は関係の解消をちらつかせて強権的に従わせたのである。その姉様に「切り捨てるつもりはない」と言われたところで信用できるはずがなかった。


「わたしは姉様のために、心の痛むような命令にも耐えてきました。それも一度ならず何度も。そのわたしを報いるのであれば、それ相応の愛でなくては困ります。わたしが姉様のために心を砕いたのは、すべてはそのためでございますから」


 熱を帯びた声で、ミディアムボブの後輩は姉様との力関係をひっくり返してのけた。

 和佐ができることは鍵を取り戻すために、後輩少女の言われるままに愛情を示すしかない。

 岬ほど嫌な気分にはならなかったが、気弱で無力だと思っていた後輩の下風に立つのは、やはり不本意であった。


「あなたの望む愛が証明できれば、鍵を返してくれるというのね」

「ルームメイトの解消が本命ですが、ひとまず良しとしましょう」


 高圧的に言われてしまったが、和佐は黙って円珠の両肩に手を乗せ、顔を近づけた。

 円珠は期待を込めた表情で胡桃色の瞳を閉じたが、和佐はそうしない。

 社交辞令でも目を閉じるべきだったと後悔したのは、接吻する寸前に後輩の右腕に付着した毒々しい血の色を見たときだ。

 神経に悪寒が駆け巡り、それが唇を震わせた状態のキスにつながった。


「ん……っ」


 柔らかい触感があったとき、甘い吐息とともに円珠が軽い痙攣を示した。彼女は少なくとも、戦慄とは無関係の感情でこの反応を起こしたのであろう。

 和佐はこのひと時をまったく楽しむ気にはなれず、事務的に再度キスをすると、さっさと後輩から顔を引いた。


 姉様の感覚が喪失し、円珠は寂しげにまぶたを開ける。

 そして、距離を元に戻した姉様を見た瞬間、彼女の中で何かが弾け飛んだ。


 和佐の距離と態度が、妹としての円珠の値打ちをすべて物語っていた。

 自分を御するためには、この程度の子供騙しでじゅうぶんだと、姉様は考えていたというわけだ。


「……なるほど、よくわかりました」

「何のことよ」

「わたしに愛情を向ける気がこれっぽっちもないってことがね‼︎」


 咆哮する。それと同時に円珠は床を蹴って姉様との距離を詰めていた。

 どうやって取り出したのか、いつの間にか左手に血で汚れたカッターナイフが握られていた。


 至近距離から刃を突きつけられた和佐は、口から狼狽の悲鳴を発した。


「何の真似なの、円珠⁉」

「騒いだらその頬を裂きますよ」


 冷めた声で脅した円珠だが、左手のほうは声ほど冷静ではなかった。

 カッターナイフを掴む指がかすかに震えている。このような禍事に慣れていない証拠だった。


 だが、多少の虚勢はあれど、白髪の姉様の行動を封じるには事足りたようであった。初めて見る『妹』の変容と、不吉にきらめいた刃に、心ごと身体を凍てつかせてしまっている。

 持ち前の知性も、平常心を保ってこそ発揮されるものであり、この場で打開策を見出すなど、できるはずがなかった。


 脅迫しつつ、かすかな憐憫を和佐に向けた。


「ああ、なんて可哀想な姉様。あの編入生がルームメイトとして現れたばっかりに、気高さは地に墜ち、彼女に玩弄される日々を強いられているわけですから。ですが、それもここで終わりです。姉様があの女に屈してしまう前に、わたしがすべてを終わらせるんです……」


 底知れぬ不吉さと物騒さを秘めた宣言である。実行能力はともかく、今の円珠にはどのような凶事もためらいなく果たしてみせるという気概が感じられた。


「わたしの想いの深さを知れば、姉様だって、そのつれない態度を改めてくださるはずです……」


 立ち尽くす和佐に、円珠は血塗られた刃を向けたまま薄笑いをたたえてみせた。

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