3.失望のはじまり

 岬のプルーン色の瞳をきらめかせ、すかさずルームメイトの『妹』と称す少女の容貌を観察した。


 栗色のミディアムボブに胡桃色の大きな瞳を持つ少女で、華奢な身体をゆったりとしたワンピースで包んでいる。若草色の半袖のワンピースで、姉様とは別方面でお嬢様っぽい風情であった。表情は小動物めいた愛らしさが強く、気弱げだが、同時に好きなものに対する一途さもうかがえた。

 なるほど姉様の妹にふさわしい、と岬は勝手に納得したものである。


「あ、あの……わたしに何か……?」


 ぬいぐるみを抱えた少女は目に見えて戸惑った。

 それもそのはずで、円珠は姉様から岬の容姿について一切聞かされていなかったのである。


 黒い三つ編みの少女は、同性から見ても魅力的な笑顔を浮かべながら自己紹介をした。


「あなたが日生さん? 初めまして、あたしが上野岬だよ」


 瞬時に円珠の顔がこわばった。

 この人が姉様を手玉にとってたぶらかした編入生なのかと思うと、社交辞令の態度を取り繕うのも困難であった。


 円珠が身構えたのは『恋敵』と初対面を果たしたからだけではない。編入生の先輩がわざわざ一号棟を訪ねてきたのは、引き出しの鍵のありかを問いただすために他ならない。もしかして姉様は、寮部屋の場所まで彼女に告げたというのだろうか。


 清楚に見える編入生が円珠にそっと耳打ちする。


「どっか二人きりで話せる場所はない? 周りには聞かれたくない話なんだ」


 確かに小声で話すべき内容ではあろう。この変態淑女が一対一の会話を所望するのだ、聞いた人が「それで済むか」と疑うのは必至である。


 円珠も反射的に身構えたが、岬が「もし、あたしが手を出すような真似をしたら寮母に訴えてもいいから」と念押ししたため、アザラシのぬいぐるみを抱えたまま、編入生の先輩を寮棟の非常階段まで案内することにした。先日、暁音に姉様との関係を明かした現場である。

 さすがにその時よりは明るかったが、薄暗い場所であることには変わりない。


 岬は興味津々のていで人の目の届きにくい空間を見渡していたが、円珠の「あの……」という声で、即座に我に返って尋ねた。


「日生さんにも予定があるだろうから率直に聞くね。引き出しの鍵を返してくれないかな?」


 その問いを、円珠は予想できていた。だが、それに対する適切な反応はいまだに思いつけないでいる。


 岬のプルーン色の瞳は清涼そのもので、それを見た円珠はこの先輩のことを欺ける可能性をわずかに考えた。

 嫌がらせのキスで追い出せると確信した姉様と同じ過ちを、彼女も犯そうとしていたのだった。

 暁音に虚報を流したのと同様、嘘で編入生の少女を翻弄させようと試みる。


「……上野先輩の鍵は学舎区の外れに埋めております。本来ならば、わたしが責任をもって掘り起こして先輩にお返しすべきなのでしょうが、ご指摘のとおり、用事が立て込んでおりまして……」


 言葉を切り、円珠は岬の反応をうかがった。嘘と思われるわけにはいかないが、話の内容が内容だけに、ここでおどおどした態度をとっても不自然には映らないだろう。

 岬の態度は、寛容な先輩そのものであった。


「そっかあ。忙しい中、わざわざ付き合わせてごめんね。場所さえわかれば、あたしがどうにか探してみせるから」

「は、はい……」


 思わず呆気にとられたが、それを必死に隠して神妙に頷く。

 こんなに簡単に納得してもらえるとは思いもよらなかったが、せいぜい当てもなく探し回っていればいいと、暗い感情が渦を巻き始める。


 再度頭を下げて、申し訳なさそうに円珠が非常階段を後にしようとした、そのときであった。

 いきなり肩を引っ張られ、編入生の声が至近距離からかかる。


「……と、素直に従うとでも思った?」


 ぬいぐるみを落とさなかったのは奇跡としか言いようがなかったが、それに安堵する余裕もない。恐る恐る振り返ると、編入生の先輩はプルーン色の瞳をきらめかせ、力のある笑みを浮かべていた。


「用事があるどうかは知らないけど、埋めたというのは嘘っぱちでしょ? 一条さんと一緒で、ごまかし方が今一つ甘いんだよなあ」


 低い声に、円珠は心臓からどっと冷や汗が噴き出た。

 完全に油断しており、何か言おうとするにも、このとき唇から漏れたは空気ばかりである。


 円珠が問うことができたのは、しばらくして岬が顔と手を離してくれた時である。


「そ、そんな……根拠をお聞かせ願えますか?」

「日生さんが大事そうに抱いてるその子だよ」


 円珠は岬のプルーン色の視線を追い、自身が抱えている白いぬいぐるみを見下ろした。


「このあざらしちゃん……ですか?」

「うん」


 編入生の瞳は、ぬいぐるみと、それを持つ少女のしなやかな指に同時に向けられていた。


「そんな白い子を大切に抱いてるあなたが、土で手を汚すような隠し方をするとは思えないんだよ。まあ、根拠というより勘に近いけど」


 再び屈託のない笑顔に戻る岬。だが円珠の方はもはや編入生と最初に出会った時の感情に戻ることは不可能であった。

 姉様が苦戦するのも、少しわかったような気がする。この編入生は相手の感情を正確に把握し、それを踏まえたうえでこちらを油断させるような態度をとってくるのだ。詐欺師と一緒だ。初めから物々しい雰囲気で取引を迫るのは得策でないと、彼女は知っているのだろう。

 円珠はうつむき、胡桃色の視線を魅力的な笑顔から外した。嘘を吐いたと自白したも同然の反応だが、岬は腹を立てたりはしなかった。


「日生さんがあたしを嫌うのはわかるけどさ、あの鍵だけはどうしても取り戻さなきゃならないんだよね。一度戻ってあなたの姉様に相談するから、必要になったらまた声かけさせて」


 円珠の顔から血の気が引いた。彼女が心に針の痛みを感じたのは「姉様」という言葉を聞いた瞬間である。自分以外の口からその言葉を聞くのは初めてのことであった。


 その後、編入生が「また後で」の告げて去っていったが、その挨拶は円珠の頭の中を通り過ぎていた。


 一人になってからも、彼女はしばらくその場で身動きがとれなかった。

 しがみつくように抱きしめたアザラシのぬいぐるみの腹部に細い指が食い込み、細かく震えている。

 気弱げな円珠の顔にどす黒い影がよぎった。激情の波がしだいに大きくなり、円珠の中で叫び出したい衝動がますます加速した。


(姉様……編入生にそこまで話したのですか? 姉様と呼んでいたことさえも? わたしには彼女のことを何一つ教えてくれなかったのに!)


 二年間に及ぶ敬愛は、四日間の編入生とのやり取りに敗北した。そう認識した円珠は、憎悪のあまり、アザラシのぬいぐるみを地面に叩きつけた。


「……うああッ‼」


 ついに怒声がほとばしった。


 幸い、その叫びは第三者に聞かれずに済んだ。拾い上げたぬいぐるみの汚れを払うも、もはや大好きな生物に対する愛情も申し訳なさも感じる余裕はなくなっていた。


 一号棟の410号室に引き返すと、ルームメイトが驚いた反応で、憎悪と悲壮にまみれた円珠から事情を聞き出そうとした。

 彼女の気遣いに感謝しつつも円珠は申し出を拒否し、ベッドに横たわって嗚咽を押し殺し続けた。


 少女の熱くて暗くて深い感情の矛先は、苛立ちを起こした編入生でなく、その彼女に自分の情報を売り飛ばした姉様に向けられていたのだった。

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