5.雨降る夜に

 岬とシスター蒼山が三号棟へ引き返した後、暁音はすぐに二人に続くことができなかった。編入生とのやり取りを目撃した友人やら部員やらが詰め寄ってきて、彼女たちに事情を語る必要が出たからであった。


 編入生に幼馴染を道具扱いされたことに腹を立てた旨をたっぷり熱を込めて語ると、終わった時にはシスターの仲裁に入ってからすでに二十分以上が経過していた。


 一帯にいつも通りの静寂が戻ると、暁音は壮大な虚しさと時間の空費を実感した。罵っている間、周りに全然注意を払わなかったが、幼馴染のルームメイトはとっくに大浴場を出て寮部屋に帰還しているに違いない。


 どんな顔して雪葉と向き合えばいいんだよ……と、表情を曇らせながら三号棟の108号室に引き返すと、寝間着姿の雪葉は学習机の椅子から文字通り飛び上がった。


「うわ! あかね、違うんだ、これは……!」


 暁音が現れた瞬間、幼馴染は必要以上に狼狽していた。


 だが、当の暁音は雪葉の動転など目に入らない。部屋に入った瞬間、彼女の視線は幼馴染の机にあるジオラマに注がれていた。


 そのジオラマは氷海をモチーフにしており『海洋生物KINOKO』シリーズのフィギュアが並べられていた。そのセンターを飾るのは、金色に輝くキノコアザラシで、それはまだ雪葉が持っていないはずであった。


 暁音は表情を消し、その黄金のアザラシを睨んだ。なぜこんなところにこんなものがあるのか。無言の圧力に応じたのは、そのアザラシの現所有者である少女である。


「くれたのはシスターあおやまなんだ。あの人がどうしてもって言うんだから、受け取らないわけにはいかないだろ?」


 なるほど、暁音は完全に理解できた。シスターからそれを渡されたということは、そのとき彼女と行動を共にした編入生が裏でこっそり根回しをしたに決まっている。


「…………っ」


 理解した瞬間、暁音の目頭が熱くなった。とっさに両目を押さえたが、その手のひらもまたたく間に濡れていく。


 雪葉は先ほどとは違う意味で慌てふためき、嗚咽を漏らす幼馴染のもとまで駆け寄った。


「あ、あかね、なんで泣くんだよ……」

「な……別に泣いてなんか……っ」


 雪葉の呼びかけに刺激され、脳震盪のうしんとうを起こしたかのように頭が煮えたぎる。湧き上がる感情は悔しさの一言では到底済まされない。岬の反撃は、暁音の驕慢さを痛烈にえぐったのだった。暁音は自分のみじめさを思い知らされ、流れる涙がいつ引いてくれるのか皆目見当もつかない。


 今までのいがみ合いも忘れ、雪葉が暁音の短髪を撫でてきた。その純真さが亜麻色の髪の少女が周囲に好かれる最大の理由なのであろう。


「どうしたんだよ、あかね。なんか今日は全体的におかしいぞ……」


 暁音は答えず、幼馴染の優しい手を払いのけた。ないがしろにするつもりはなかった。だが「あなたにとって雪葉の存在は何なのさ?」という岬の指摘を思い返し、その答えが明確になるまで彼女に慰めてもらえる資格がないような気がしたのである。


 雪葉は軽いショックを受けたが、これ以上暁音を慰めても逆鱗に触れるだけと判断し、そっと手を引く。

 何事もないかのように日常を再開しようとしたが、そこに暁音の唐突な声が響いた。


「なあ、雪葉……」

「い、一体なんだよ」

「私は……雪葉にとって迷惑な存在だったのか?」

「ええっ? なんだよそれ」


 鳶色の瞳が丸くなる。当然のことだ。雪葉は幼馴染の葛藤など知りようがないのである。

 暁音は内心を吐露する意味で雪葉に洗い場での自分の想いを語ったのであった。


「私がいなくても、雪葉は一人できちんと髪も身体も洗えたじゃないか。もしかして……私に気を遣って洗えないフリをしてたのか?」

「しょ、しょうがないじゃん。あの状況であかねに頼むのもすごく気まずいし。あかねにされたことを思い出して見よう見まねでやったんだよ」

「見よう見まねでできるレベルかよ、それ……」


 だとしたら、驚異的な吸収能力としか言いようがない。それに仮に雪葉の言葉が真実だとしても、暁音の心は安堵とはほど遠かった。本当はもっと成長できたのに、自分の存在によってそれが阻害されたような気がしたからだ。

 暁音は腕で両眼を乱暴にこすった。


「……雪葉」

「こ、今度は何なのさ」

「私たち、馴染だよな? これまでも今も、そして、これからも……」

「う、うん」


 雪葉は同調した。この場面はそうするしかなかった。怒られる可能性は高くないだろうが、現在の暁音の前で迂闊なことは言えない。ここは無難な回答を示すのが得策だった。


 雪葉の内心を、暁音はほぼほぼ把握できていた。その場しのぎの回答には違いないが、含みを感じさせない雪葉の返答に、ささくれ立った心が初めて安息の時を迎えた。涙も自然と引いていった。


 だが、その安心も絶対的なものでない。仮に雪葉がこちらを盲目的に愛してくれたとしても、第三者の影響によってその関係が崩壊することも十分あり得るのだ。三年前、一条和佐の嫌がらせのキスによって受けた絶望感を、暁音は二度と味わいたくはなかった。


 平穏と呼ぶにはあまりにもぎこちない空気の中で、二人はそれぞれ就寝の準備をし、そのまま消灯の時間を迎えた。


   ◇   ◆   ◇


 この時になると雲行きの怪しい天気も本格的に雨が降り出しており、箱谷山を潤す天然のシャワーは、乙女たちのかすかな寝息の音をもかき消した。


 もっとも、このとき暁音は寝息を立てていなかった。というのも彼女はベッドにもぐってから一睡もしておらず、ルームメイトが完全に寝入るのを待っていたからである。


 頃合いを見計らい、音を殺してベッドから起き上がる。分厚いカーテンをわずかに開けて視界を確保し、運動神経の良い彼女に似合わぬ愚鈍な動作で隣のベッドに接近し、幼馴染の寝顔を覗き込んだ。


 このとき、暁音の黒い瞳に光はなかった。まるでコックリさんに憑りつかれたような表情で硬直し、濁った思考が頭の中でぐるぐるとうねっている。


「雪葉……」


 男勝りの少女のささやきは、雨の音にかき消されて、本人以外に届くことはなかった。


 雪葉の天使の寝顔を暁音の顔が覆う。そのとき、暁音の表情に緊張が走った。高ぶる胸を手に添え、唇から緊張の孕んだ息がこぼれる。


(雪葉……雪葉……っ)


 意を決すると、暁音は眠れる幼馴染に顔を落とし、唇どうしの距離をゼロにした。


 キスの音があったかどうかを知るのは雨だけだ。暁音自身も、唇にかすかなぬくもりを知覚したのみであり、自分が唇で音を立てていたかどうかなど、まるで関心がなかった。


 暁音は幼馴染の唇に、何度も何度も唇を落とした。白髪の少女によってトラウマを植えつけられた、その唇を。しかも寝込みを狙ってのことだ。許されることではないことはわかっている。


 ようやく暁音が顔を上げたとき、寝間着は冷や汗でびっしょり濡れていた。汗ばんだチョコレート色の短髪を無意識にかき上げる。背徳感と罪悪感は当然あったが、その行為を辞めるという選択肢はなかった。


(……雪葉は私の幼馴染だ)


 暁音がこっそり幼馴染に唇を落とすのは、岬のような変態の血が騒いだわけでもなければ、和佐のような嫌がらせ目的でもない。


 ただ、幼馴染とのつながりを何らかのかたちで示したかったのである。


 幼稚舎から初等科の間は、何も恐れることはなかった。学校の外で雪葉は何度も男の子に声をかけられたことがあったが、そのたびに暁音は不浄な異性を物理的手段で泣かせて黙らせてやった。自分の認めない連中を雪葉のそばに置くつもりなどさらさらなかった。


 やがて初等科を卒業して聖黎女学園へ。男が介在する要素は皆無であり、ここにいる限り雪葉が毒牙に駆られることはなかった。ないはずであった。


 だが、その確信はあっけなく崩れ去った。和佐がルームメイトになった雪葉を追い出すために嫌がらせのキスを果たしたからである。


 当時の暁音は、それを聞いたとき、すぐにショックは受けなかった。同性どうしのキス、という概念に頭がついていけなかったのだ。普通に考えれば、接吻は異性二人おとことおんなでするものだろう。


 だが、異性にせよ同性にせよ、幼馴染のファーストキスが奪われたことには変わらない。あるとき突然、暁音は心に穴が開いたような絶望にとらわれた。寮生がにぎわう廊下のど真ん中でいきなり座り込んで号泣し、寮母が慌てて駆けつける騒ぎになったことは今でも覚えている。


 自分と雪葉だけの世界に、一条和佐という不純物が入り込んでしまった。二度と取り戻すことのできないファーストキスというかたちによって。しかも、それが愛情に基づくものでなかったと知り、暁音は白髪少女を徹底的に憎悪することに決めた。


 ルームメイトを解消するにしても、なぜ嫌がらせのキスという手法を取らなくてはならなかったのか。そのせいで、自分は幼馴染が誰かに奪われてしまうという不安を一生抱えて生きなくてはならなくなったのだ。


 いくらキスを紡いだところで、ファーストキスを奪われた事実が帳消しになるわけではない。その現実が暁音の心に影と涙を落とした。雪葉のためにも、自分のためにすらならないとわかっていても、せめて心に空いた穴を一時的でも埋めようと、再び顔を落として唇を押し当てる。さらに勢いよく。自分の心だけが少しでも満たされる。その時まで。


(私は雪葉の幼馴染だ。誰にも、誰にも渡すもんか……)


 闇の中を降りしきる雨は、いまだ止む気配を見せない。

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