朱夏の声
榎木のこ
第1章
第1話 嫌な女
絵に描いたような夏の空だった。雲は際限なく膨らむし、遮るもののない日差しは何者にも容赦をしない。踏切の警告音の劈くような音は嫌でも耳に入り、既に降りた遮断機のその先、乾いた音を立てて線路の中に落ちたものを呆けた目で見ていた。
たった今轟音に撥ねられたものは女の残骸よりも強烈だというのに、声一つ上げることができない。冷たい金属に掻き分けられた温い風がやむ前に、歩き出さなければならなかった。あの夏を繰り返す術を奪ったのは、他でもない自分だったから。
最初に覚えたのは苛立ちだった。縄張りを無視されることを笑って許せるものなどいるものか。いるとしたらそれは野生がないのだから動物以下だろう。そう考えている間も、いとも容易く侵略を行ったものが、小さなベンチに我が物顔で座り続けていた。
その場所は丁度良かったというのに。沖縄の優しさのかけらもない日差しに幻滅していたから、木陰の下にあるあのベンチはいくらか優しい場所だった。意味もなく騒ぎまわる人も嫌いで、町の端にあるために子供も少ないこの公園が、どうしてもよかった。なのに――その女は、俺に成り代わるかのように同じ場所で、同じことをしている。
女が手元の本に視線を落としていたのが救いのようで、今のうちに立ち去ってしまおうと思った。女に直接文句を言うほどの気力は、七月下旬の止まない日差しに既に奪われている。例え雨が降っていようと言わなかっただろう。人と関わってもろくな目にあわないことは嫌になるほど知っていた。
「ねえ」
女に背を向け、公園に撒かれた砂利から焦げるアスファルトに一歩踏み出したところだった。何かをしくじったような気がしてならない。その声に素直に振り返ったことも間違いだったのだろう。女と目が合う、自分よりいくらか年上に見える、見慣れない制服姿の女と。
「ここ、いつもあなたが座ってる場所でしょ」
スカートに落ちた木葉を手ではらい立ち上がった女は、小さな本で口元を隠しながら目を笑わせた、ように見える。木陰の暗さのせいで確証はない。なぜ知っているのかと思うばかりで問い詰めなかったが、答えは簡単に返ってきた。
「びっくりしたのは私のほうよ。久しぶりにこっちに来てみたら、あなたがここに座ってるんだもの。一年前は私がここに座ってたのに」
確かに俺がここに座り始めたのは今年に入って、関わり合いのない周りの学生が高校受験だなんだと騒ぎ出してからのことだった。侵略者は自分であったことに気づいたが、だからといって何を思うわけではない。侵略には罪悪感など伴わないことが殆どだ。
女が木陰を抜け陽の下に立つと、温い風に揺れた黒髪が一瞬だけ正反対の色に光る。
「ごめんなさい、ちょっとからかってみただけよ」
言葉の割りには悪びれた様子などなかったのが癪に障る。じゃあね、と脇を通り過ぎ、振り返ることなく手を振って立ち去っていく女の、自分と同じ色の長い髪だけが目に入った。遠くで微かに波の音がする。風が女の髪を揺らしているのを見ていると、飽きるほど嗅いだ潮の臭いが女のもののように感じた。公園の北口を右に曲がる姿は見えなくなる。 あの女は非日常そのものだったというのに、印象はなぜか極端に薄い。
「……嫌な女だな」
これはきっと興醒めというものだろう。いつもそうだ、これまで好きだったものが、ちょっとしたことで嫌いになりそうになったり、本当に嫌いになったこともある。今までの原因の大半は無神経な兄だったが、この数年である程度は慣れた苛立ちとはまた違っていた。
そもそも家に真っ直ぐ帰るのが嫌で、徒歩にもかかわらず通学路を大きくそれたここに足を運んでいたのに、徒労に終わって帰路につくのは何だか負けたような気がする。せめてあの女が歩いていった方角が、いずれは通らなければならない自分の歩く道より少しでもずれていれば、まだ諦めがついたのだが。
舌打ちは癖だ、その時に目を伏せるのも。あの木陰よりも自分の機嫌を損ねず暇を潰せるような場所など知らなかったが、とにかくあの女と違う方角へ歩かなければならない。もし誰かにそれは強迫観念だと言われれば、そうかもしれないと答えただろう。
七月の日差しはいくら頼んでも止んではくれない。重さを増した両足を引きずるようにして、北口ではなく西口から、数メートル先さえも揺らいで見える道を歩いていった。
次の日の空も飽きずに青い。どれだけ退屈な授業でも居眠りするほどではないし、休暇は目前に迫っていたから幾分か気は楽だった。勉強は好き嫌いではなく、得意か不得意かで認識し分類している。試験の出来不出来を考えたこともない。出来なければいけなかったしそれが常だったから、不出来とは何かを知らなかった。
父はついこの間まで兄に対する信仰を持っていたが、今はもう薄れてしまったらしい。兄は賢かった。知能だとかそんなものは当たり前で、何よりも生物的によく出来ていた。整った見目も生きるために有利で、それをわざとらしく誇ることもなく与えられた権利として行使した。俺は兄のように周りの目など気にも留めない無神経な生物が一番利口だと思っていて、同時に酷く忌々しさを感じる。彼の性格も素行も俺は許せなかったし、父もそうだったのだろう。あの日から急に何もかもが重くなった。俺は兄ほど利口ではないというのに。
終業式を終えた校舎の昇降口で、部活動に勤しむ奴らと目が合った。野球部らしくユニフォームには至る所に泥がこびりついていて、自分があんな服を家に持って帰りでもすれば誰にもいい顔はされない事実を思い出させてくる。無駄に汗水を垂らす奴らを俺は理解できなかったし、向こうもそうだ。いつもの通り、奴らのうちの一人は身を一瞬強張らせる。奴はこちらを見ながら急いて何かを言っているもう一人に、その背中を押され視界から早々に消え去った。名乗らなくても相手はこちらを知っているのだ。恐怖のおかげで、俺は口数を減らすのに助かっている。
今日は誰もいない。公園の入り口から様子を窺っても、光景は昨日とは違っていて、日常を取り戻したようだった。それでも足取りは途切れ途切れで、車止めを越えてベンチに辿り着くまでに妙に時間がかかる。まだ昼下がりだというのに人を射殺すような日差しから、とにかく逃げたい。夏の最中にあるのが不思議なような、陰の下で少し冷えたベンチに腰掛けてからもしばらくは何もせず、光が照り帰って眩しいはずの砂利に目を落としていた。
突然右頬に冷えたものが当たって、反射的に身体が強張り小さな呻き声が漏れる。頭上から堪えるような笑い声を降らせていたのは、他でもないあの侵略者だった。俺は気づいた時には立ち上がって女との間に距離を取っていて、避けられていたはずの日差しの下に自ら躍り出ていた。
「予想よりびっくりしてくれた!」
睨まれていることに気づかないはずがないというのに、女は薄い笑みを崩さずこちらの目を見据えたまま微動だにしない。
「はやく受け取って、ずっと持ってるから手が冷たいの」
そこで初めて女の差し出している右手に視線を落とす。女の両手には薄く青い透明色のラムネ瓶が握られていて、結露した水が木漏れ日を反射させながら僅かに滴り落ちるのが見えた。諦めなければいけないような気がして、俺は女から奪い取るように瓶を受け取ってそのまま立ち尽くしていたが、女は腰かけたベンチの空白を叩いたから、素直に従う他なかった。
「私ね、毎年夏休みだけ沖縄に来てるの。東京の暑さよりこっちの方が好きだから」
小さな布製の鞄から出したハンカチをラムネ瓶に巻きつけ、もう片方の手で本を取り出しながら女は言う。
「高校生?」
「……来年はな」
「へえ、背が高いから高校生かと思った」
こちらは初対面で年上だろうと推測できたのに、両者の感覚はずれているらしい。女は、男と女じゃあ違うのね、と関心なさげに慣れた手つきで瓶の蓋を開けた。ガラス玉が瓶の中に落ちる軽い音、炭酸飲料の独特な気の抜けたような音。それを掻き消すように蝉が鳴き出したが、女は俺ほど音に興味はないらしく、本のページをぱらぱらと捲っている。
「あなたを初めて見た時は本を読んでたみたいだったけど……いつもここで本読んでるの?」
「……まあ」
「受験生なのに。……同じ受験生のくせに貴重な連休を潰して遊んでる私には、言われたくないでしょうけど」
見た目に反して不真面目なのだろうか。化粧っ気もなく髪も黒いままなのはまだいい。旅行なのかどうかは知らないが違う土地で、連休中だというのに制服を僅かにも崩さず着ているのは、あまりにも律儀な気がした。これまでに羽目を外した人間を何人も見てきたからなのか、ひどい堅物に映る。こちらの疑惑を感じ取ったのか、女は顔をあげて弁解するように呟いた。
「でもちゃんと勉強してるわよ。あなたはどうか知らないけど」
「俺だってしてる」
「あら、偉いじゃない」
顔を上げてからかうように笑うが、元から気分が沈んでいたからかそこまで顔を顰めずに済んだ。数度見たはずのこの女の瞳を、たった今初めて見たような気がする。整った瞳の中は――何もない、真っ先にそう感じた。ラムネ瓶の口を握る右手に自然と力が入り、女はすぐ手元の本に視線を戻して黙り込む。似合わない赤色のブックカバーがかけられていて、中身が分からないと理解した途端に、女は本の題名を口にする。
「世界の悪女百選」
「…………」
なんだそれは、とも口にできない俺の呆れた目を見て、女は悪戯が成功した子供のように笑う。
「これを読んでると落ち着くの。愛読書よ」
「愛読するような本じゃないだろ……」
「そんなの人の勝手じゃない!」
エリザベート・バートリなんていっそ清々しいのよ!などと、その悪女とやらの血生臭い列伝を矢継ぎ早に語ったが、俺が何も言わないでいると一転して呆れたような、訝しむような顔をしだした。
「私のこの話にやめてって言わなかった人、初めてだわ」
この女は万人受けする話題ではないことを承知した上で、これまでに何度も口を動かしてきたのだろう。だが拷問だの殺人だの、決して他人事ではない世界に生まれながらに片足を突っ込んでいる人間に語っても、関心も動揺も誘えないことまでは知らないはずだ。一つ確かに言えるのは、やはりこの女は――。
「お前も十分嫌な女だ」
まだ蓋も開けず、無駄に水滴を落とすだけのラムネ瓶を持ったまま、俺は飽きもせず俯いている。年恰好の近い相手に憚った口のきき方をしたことはない。大概はその前に自ら押し黙るのだが、激情を誘おうとも言ってやろうと腹に決めた時に限って、相手の構える矛先は急に鈍るか、始めからこちらに向けられていないかのどちらかだった。今回も当然のごとく後者だったのに。
「当たり前よ」
目を合わさないようにしていたから、その目は見えないのだ。この女の考えていることが丸きり分からない。そう理解した時にはもう立ち上がっていて、口も責めるような調子で勝手に動いていた。
「なんでまた声かけてきたんだよ。昨日ああ言ってたから、もう来ないと思ってたのに」
「来てほしくなかったみたいな言い方ね」
「分かってるじゃねえか」
「だって気が合いそうな予感がしたんだもの、そういう頑固そうなところか 」
何度か聞いたことのある、女という生き物の常套句だ。そんな感覚を一度も有したことのない自分にとってはおかしくてたまらない話で、見当違いにも程がある。純粋さを気取ったような目が我慢ならなくて、ラムネ瓶をベンチに置き通学鞄を引っ掴もうとした時にさえ言葉は投げかけられる。
「ねえ、あなた、名前は?」
「……教えるとでも?」
鞄を乱暴に肩に引っ掛けてその場を立ち去ろうとした時、突然こちらに向けられた呼びかけが響いた。反射的に息が止まって、溜息が漏れると同時に目を閉じた。背後の女にはさぞ情けない姿に見えるだろう。俺に勝手につけた愛称を、勝手に喚き散らす男の声は止まない。
「さぶ、こんなとこで何やってんの!」
兄は誰も咎めないのをいいことに、行先も告げず出掛けることが多い。今日も早朝から彼の自転車は家から消えていた。兄の通う高校は今日から夏季休暇に入ったそうだが、初日からこれだ。頻度が増えるばかりの外出の帰りの大概は大量の荷物と一緒だった。光を反射して眩しい銀色の車止めの先、彼の跨っている自転車の前籠は鞄とレジ袋で今にも溢れそうだ。
「今日は親父に呼ばれてるって言ってたじゃん! 遅れたらこっぴどく怒られるぞ!」
足は止まってしまっている。女が笑いを堪えられずにくすくすと笑っていて、咎めるように振り返ってみせたが、腹まで抱えてしまっていることまで知ってしまった。女はひとしきり笑うと、ふうと息をつきながら鞄に本をしまって、まだ少し残ったラムネ瓶を片手に立ち上がる。
「私、まさきっていうの。真実の真に、花が咲くの咲で、真咲」
女はまた静かに笑い出して、俺の脇をすり抜け先を歩き始めた。その後ろ姿は昨日見たものと同じようで、違う気がする。
「それじゃあね、さぶくん」
振り返る顔にも代わり映えしない笑顔が湛えられていた。公園の出入り口で兄と何か一言交わして、昨日を再現するように右へと曲がり姿を消す。兄と同じ空間に取り残されて、自分の機嫌が子供のように悪くなるのをはっきりと感じていた。兄はこちらに無邪気な笑みを向け手招きしていたが、俺が反対側の西口の方へと足早になったのを見て、腑抜けた声を出しながら慌てて先回りをしてくる。
「さっきの子、お前の友達?」
ハンドルに肘を置いただらしない格好で、サドルに跨ったままぺたぺたと足で地面を蹴り俺のすぐ横をついてくる。女が去った方を振り返りながら、兄は続けた。
「綺麗な子だなあ。いいとこのお嬢さんって感じ。 沖縄の人じゃないみたいだし」
「……ただの嫌な女だって」
兄はからかうように小さく声を笑わせている。あの女のものとはまた違った、子供じみた笑い方だ。明らかに好きではなかったが、反吐が出るほど嫌いというわけでもない、そんな見慣れた笑い方。
「……っていうか、そっちは逆方向だぞ!」
家に帰らないと怒られる、そう喚いているが父に呼びつけられた時間は夕方で、まだ日は高い。帰りたくないからわざわざこんな離れた所まで来て、歩く必要のない道を歩いていることなど、兄ならば造作もなく予測できるくせにしようとはしない。兄は後ろの荷台を指差して家まで乗せていくと言っているが、俺が素直に従うとは最初から思っていないはずだ。兄はどうしても利口なのだ、俺の性格を知らないほど馬鹿ではい。
俺が言うことを聞かないせいで諦めたのか、ふてくされたように身を屈めながら足で地面を蹴り続けていたが、はっと身を起こして俺の顔を覗き込んでくる。あまりにも急だったから俺も思わず足を止めてしまって、面倒そうにしていると分かるような顔をした。
「お前、ラムネは? さっき持ってたじゃん」
「……置いてきた」
「なんで」
「いらないから」
何匹いるのかも分からない、蝉がうるさい。代わりに兄は何も言わなかった。俺も続ける言葉がなく、固まったままの兄を置いてもう一度右足を踏み出す。兄は気づいている、あのラムネ瓶は例の女から貰ったものだということに。
「ひでえやつ」
俺は兄が笑うのは特別嫌いではなかった。いつ、どんな時に笑うか、その選択を誤りさえしなければ。兄は今笑っているはずで、間違ってはいない。ただその薄ら寒さには自覚もしないのだろう。
瓶は置いてきた、それも間違いではないはずだ。兄は少しペダルを漕いで、また追いついてきて喋り出す。音が消えることはなく、相も変わらず蝉の声も耳障りだ。嫌なものほど忘れられないのは自分が人間であるせいだった。
長い灰色の坂を下り始めて、赤い花の咲いた石垣に囲まれて、ずっと先の海を見下ろしても、声は止まなかった。
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