A nation fuga !

渡月 星生

第1話 勇者


 三方を険しい山々に一方を荒れた海に囲まれたその国は、大昔には平和だったのだという。それは伝承レベルの話でしかない。何故なら、魔王と名乗る存在が国を脅かして久しいからだ。

とはいえ魔王は現れてこの方休みなく睨みを利かせていたわけではない。この国には勇者と呼ばれる存在もあり、魔王が目覚めるときにはまた勇者の力も目覚め、地底の奥に押し戻す。数百年の周期でそれを繰り返していたのだ。

 魔王の目覚めが近づけば魔獣の活動も活発になり、日の当たる場所にも現れるようになる。同時に勇者の血を引く一番若い者は勇者の力に目覚める。それはこの国に住まう者であれば子供であっても知りうる事実である。



 そして、今───





 日もすっかり昇った時間だというのに、未だにベッドの上で微睡んでいる眩しい赤毛の少年がいた。窓から差し込む日差しから逃げるように寝返りを打つ。少年と言うよりは青年の方が近いだろうか。背丈や面差しよりも、慣れた眠りかたがそのように見える。


「シャオ!いい加減に起きなさい!いつまで寝ているの!」


 そんな微睡みを破り壊すような声が部屋に響いた。むべなるかな、彼以外の家族、つまり両親は既に朝食を済ませてしまっている。そしてそれ以上に大事な通達があったのだ。

 しかしながらシャオは逃げかけた眠気にすがるように丸まってしまう。というのも、昨夜は家を抜け出して光虫採集に勤しんでいたからだ。夏の風物詩である光虫は、そのままで綺麗であるのもさることながら薬の材料にもなるらしく、術師に対してよく売れる。一稼ぎするにもってこいの虫なのだ。


「シャオ!」


 怒鳴り声がさっきよりも近くで聞こえる。シャオは声に抗おうとブランケットを頭まで引き上げて───その望みは儚くも崩れ去った。遮断していたはずのブランケットは、いいやシャオの体ごと物理的にひっくり返されてしまったからである。横になっていた体を縦にされては、流石に嫌々であっても起きざるを得ない。

 恐る恐る目を開けると怒り顔の母親が見えた。逃げ出したいあまりもう一度暗闇の中に潜り込みたい気持ちで一杯になるが、哀れなブランケットは無惨にも尻の下であり、どうにもならない。ため息がこぼれるのも仕方のないことに違いない。


「シャオ、あんたいつまで寝てるつもりなの! もう朝って時間でもないのよ?」


 そんな風に叱るのは母親の役目だ。だから普段ならば子供らしく子供の務めを果たすべく言い返したり煙に巻こうと努力したりするものなのだが、今日は不思議とそんな気になれないでいた。簡単に言えば「嫌な予感」がしたのだ。いいや嫌な予感しかしなかった。

 シャオは恐る恐る母親の顔を見上げる。モンスター・ホーンはいつもよりも一本多いように見えた。そのまま笑う顔。


「シャオ。あんたに良い報せがあります」


 シャオは咄嗟に尻の下のブランケットを引っ張り上げようと試みて、母親はそんなシャオの右腕を咄嗟に掴んで押さえつけた。その顔にたたえる笑みがより一層深まっているのを見て、シャオは悪い予感が確信に変わる瞬間というものを初めて知る。


「魔王復活の兆しが確認されました───」


「嘘だっ!」


 話を最後まで聞かずにシャオは声をあげた。

 確かにそんな話は聞いていない、というわけではない。幼い頃から嫌というほどに示唆されていた可能性だった。だからって義理堅く現実になる必要なんてどこにもないだろうに。


「いやほら、ほら! 母さんの時だって散々言われてたのに結局来なかったんだろ?だから今回だってきっと気のせいだって! オレの子供ん時に目覚めんだってきっと! きっと!」


 勢い任せに言葉を吐き出したシャオは、母親の顔がちっとも変わっていないことに、それどころかじんわりと深まっていることに気がつき、自分が下手を踏んでしまったことを悟った。とっさに首を竦めたのは生まれた時よりの付き合いの長さゆえだったのだが、さてそれは褒められた反応だったのかどうか。


「アンタねぇ! 母さんだってできるもんなら自分で叩きのめしに行きたかったわよ! でもしょうがないじゃない母さんの時に復活の兆しが出なかったんだから! アンタ産んじゃってアンタに力が移っちゃったんだから!」


 手が振り上がることはなかった。その代わりに両手はシャオの肩をガッチリと掴んで勢い良く揺すりだす。この反応は分かっていたのだ。母親はずっと勇者として魔王を退治しに行くことを夢見ていて、けれどそれは叶わずに時が流れてシャオが産まれ育ち───つまり今勇者として目覚めるのはシャオであり、その事実を羨んでいたことを知っていたのだから。


 そう、二人は、二人の家系は違うことなき、決して伝説などではない勇者の系譜なのだ。


「だから、つべこべ言わずに! さっさと起きてさっさとお城に行きなさい、ゆ・う・しゃ・さ・ま!」


 勇者として目覚めつつあるはずのシャオは母親の手を振りほどけないのは、二人の努力の差なのだろうか、それともその類まれなる執念ゆえなのだろうか。

 魔王退治に向かいたかった母と向かいたくない息子。需要と供給はどうしてこうも噛み合わないのだろうか。どうしてままならないものなのだろうか。天を仰ぎたい気分というものをシャオは初めて分かった気がした。残念ながらここでは薄汚れた天井しか仰げないのだけど。


「分かったよ! 分かったから───」


 ゴクリとつばを呑み込んでシャオは最後の抵抗を試みる。


「ちょっと夢から覚めさせて」


 即座にゲンコツを食らったのは言うまでもない話である。



 とはいえ荷造りにはどうせ時間がかかるだろうと高を括っていたシャオは、しかし二時間後には見事家の外に出ている羽目となっていた。というのも遅い朝食をとって着替えている間に玄関に荷物が用意されていたからで、何故なのかといえば母親が前々から準備をしていたからである。

 地図など一部の物は自分が旅立つときに使おうとしていたものであり───我が母ながらその執着を羨ましく恐ろしく思い、シャオは深く深い溜息をついた。需要と供給は本当にままならない。どうしてだろうか、と悩みながらの出発だ。

 母親は「さっさと行ってさっさと帰ってこい」と言わんばかりの勢いであったし、全くの一般人である父親はといえば、少し考えてから「無理だけはするな」と言っただけであった。

 旅立ちというのはこんなものだろうか。物語なんかで良くあるのはもうちょっと違う感じではなかったろうか。仰々しくしてほしいわけではないが、あんまり特別感がないというのもなんというか不満がある。ただでさえ自主的な出発ではないというのに、これでは気分がだだ下がりするだけではないか…… と。


「───お。ほら、やっぱりだ」


 シャオ!と何人かの声が聞こえてシャオは振り返る。他でもない、一緒に光虫を採りに行く友人たちだ。


「聞いたぞー。今日行くんだな」


「えっ、マジか早くね?」


 口々の反応に驚いたシャオを呆れたように一人がどつく。


「早くねぇだろ王様のおふれだぞ?」


「……あー、そうか、そうなるのか……」


 どつかれた頭を軽く掻いてシャオは呻く。そう、目覚めの兆しを確認し結果によっては広く伝えるのは王様の役目であった。だからこそ、勇者となるべき者のところにいち早く報せが届くのである。

 寝ぼけ頭で話を途中で遮ったものだから、そんなことも今の今まで忘れていたのだが。……いや別に忘れて支障があるわけではない。分かりやすく恥をかく、ということ以外には。


「ったく、今日ほど母さんの戯言だったら良かったのにって思ったことねぇよ」


「あー。でもさー、シャオの母ちゃん何かと特別だったじゃん?」


 そう返されてシャオは深いため息をついた。自分はともあれ確かに母親は他の誰とも違っていた。なんせ力自慢の男衆が三・四人集まってようやく追い返せるような逸れ魔獣を、一人できっちり退治できてしまってたのだ。

 最近は流石に一人でとはいかないようだがそれでも村のみんなに一目置かれていることには変わりがないし、シャオだって幼い頃にはそんな母親を誇らしく思い憧れ、一緒に行きたがったりなどしたものだ。

 ただしそれは幼い頃の話であり、せいぜい5……7年くらい前の話だ。前の話なのだからこそ──


「良かったね、シャオ。ずっと前からの夢だったものね?」


 ───7年前の自分を全力でぶん殴ってやりたい、と思っていた。目の前でにこにこと笑う黒緑色の髪の彼女は、サナインはその七年前の戯言が未だに変わっていないと思い込んでいるのだ。

 お陰で今でも曖昧に誤魔化さなければいけなくなっている。いや本当のところを言えばいいのだろうけれど、それでガッカリされてしまうのはやはりちょっといただけない。いいやガッカリされるだけならともかく、見損なわれたりなんかされた日には……!

 なんて考えれば誤魔化し続ける現状も致し方ないというものだ。うん。


「シャオ?」


「あ、ああ。うん。まぁな」


 どこか不思議そうな顔をしているサナインにシャオは笑って首を振る。と、ニヤニヤしている奴らの顔が見えてムッとなった。こっちの気も知らないで!なんて内心で喚いてみてもどうにもならない案件である。いかんせん彼らは勇者にはなれないのだから。


「ま、諦めるんだな。決定事項なんだしな」


「頑張れよ、勇者様」


「死ぬような度胸つけるんじゃねーぞ」


「魔王倒してきてね!」


 バシバシと肩を叩かれながら言われたのはどうやら餞別の言葉のようだ。

 確かに選択肢が無い以上向かうしかないのだし、そこはどうしようもないことなのだから悩む必要は無いとも言える。───前向きに考えるのなら、だが、それでも何となくそんな気になったような気がした。そうだ、旅立ちというのはこうあるべきじゃあないか!


「おう、やれるだけやってみるさ」


 背中に一発痛いのをもらって思わず咳き込んで、顔を見合わせて笑ってからグッと大きく伸びをする。そうして手を振って「行ってくるな!」と言ったところで


「シャオ! あんたまだこんな所でグズグズして!」


 たまたま外に出た母親に見つかってしまい、シャオは青亀よろしく勢い良く首を引っ込める。振り返るようなことはしなかった。そんな時間の猶予なんて無かった。次の言葉が飛んでくる前に慌てて村の外へと走り出す。

 全くどうして母親というものは人が多少なりともやる気になった瞬間にしゃしゃり出てくるものなのだろうか!


 ……きっとこれは人類が生まれてからこの方、そして未来永劫に至るまで判明されない永遠の謎なのだろう。きっと。

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