五品目『人気トラットリアの狂気』(8)


「気の、せい…?」


 小さく呟いた瞬間、もう一度こつん、と音がした。今度はカーテン越しに石の影も見える。

 そろりと。少女はベッドから滑り出た。こんな夜中に誰の悪戯だろう。こちらは昼間から怖い思いをしてまだ足が震えているのだ。おそるおそるカーテンを避けて階下へ視線を落とす。


「由香里ちゃーん、こんばんは」


 そこにはレストランの新人さんが立っていた。いつもの白いコック服とはまるで違う。真っ黒な服装のその姿を見て、少女は少しだけ安心した。それから使命感に駆られた。

 このいつも優しい新人さんは、あの料理長が化物だと知らないのかも知れない。だったら教えてあげなければならない。だが、何故こんな夜中に家にやって来たのだろう。庭に立って手を振っている新人さんは満面の笑みだ。その笑顔に、少女はさらなる安心感を覚えた。窓のカギを開けて、からからとガラス戸を細く開く。


「お兄ちゃん、こんな時間にどうしたの?」

「んー?何言ってるか聞こえないなぁ」

「こんな時間にどうしたの?」

「由香里ちゃん、もう少し顔出して話してくれるー?」

「…うん」


 少女は窓を大きく開き、身体を乗り出した。


「お兄ちゃん、こんな時間に、由香里に何の用?」


 そう声を掛けた瞬間。新人の笑みが変わった。人の良いいつもの優しい笑顔から、歪んだ何かを瞳に湛えた不気味な笑み。

 一目見て、少女は体を部屋の中に引っ込めた。心臓が早鐘の様に鳴り始める。


「お兄ちゃんはね」


 目の前の窓には、新人さんがにっこり笑ったまま裸足の両足を縁に掛け、屈み、月を背に背負っていた。

 少女の体は硬直して、部屋の中に腰を抜かしたまま一切動けない。ただただ新人さんの豹変した『笑顔』を、恐怖の滲んだ瞳で見つめる。

 この人は、きっと、あのふたりより怖い。


「由香里ちゃんを殺しに来たんすよ」


 笑ったままの新人さんは、いつの間にか腰のバッグから取り出していたペティナイフで少女の首を掻き切った。

 部屋の壁に血痕が飛び散る。少女の好きなキャラクターの描かれた布団に、その体が傾く様に倒れた。キャラクターが赤く、紅く染まって行く。

 一瞬の事だった。獣よりも速く部屋に飛び込んだその刃が少女の首を舐めるのは。


「あは。ばいばい、由香里ちゃん」


 殺すのが大好きな新人さん。人間を食べに地球に来たコックさん。

 二人は五人の死体を触手からぶら提げたまま、帰途についた。

 待っているのは、食べるのが大好きなギャルソンさん。そう、二人より、ずっと、ずっと怖い人。

 それを知る前に『食材』になった少女は、幸せだったかも知れない。


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