私は月虹の部屋に戻った。

 やや薄暗い中、壁の星座図が光って見える。夜光塗料が塗ってあるのだ。足元に何か光る物が落ちていて、私はそれを拾い上げた。

 なぜ、今頃になって見つかったのだろう? なくしていたパズルのワンピースだった。私の手の中で、かすかに赤く星が光る。


 ——火星。


 このパズルには、黄道上に沿って適当に惑星が散りばめられていた。みずがめ座には、火星があったのだ。

 私は壁に歩み寄り、そっとパズルに火星をはめ込んだ。


「見つけたの?」


 背後で月虹の声がした。

 振り返ると、彼はにっこりうれしそうに微笑んでいた。


「うん、見つけたよ」


 私も微笑んだ。

 壁のパズルは完成した。そして、私の月虹探しの旅は終わった。


「私、やっとあなたを見つけた。あなたは火星人なのよ」


 長年の夢が叶う瞬間——私は感激のあまり、声が震えた。しかし、月虹は軽く微笑んだまま。


「違うよ、優子……」


 月虹の口から最後に漏れた言葉だった。


「え?」


 私の笑顔は凍りついた。

 白くて薄い月虹の影が、サラリと音を立てた。


 ——え? 


 私の見ている目の前で、違うよ……という言葉とともに、サラサラと砂が舞う。

 何が起こっている? いったい何が?

 月虹は砂で作られた人形と化していた。


 笑顔を留め、風に吹かれて崩れ去る恋人。

 そして部屋も……。

 壁もパズルも観葉植物も、すべては砂となっていた。触れれば簡単に崩れ去る砂の居城。

 あまりに静かな音を立てて、すべてが消え去っていく。


 ——サラサラサラ……


 やがてあたりは何もない宇宙空間。

 それでも私は何が起こったのか、まったくわからない。


 なぜ? 何?

 せっかく月虹を見つけたのに!


 頭の中が真っ白になる。その白い世界に、朝日が昇った。


「嫌だ! 夢から覚めないで!」


 世界が崩壊したのにやっと気がついて、私は絶叫した。



「おねぼうさんね、月虹は……」


 声? 

 声がする。

 女の人の声だ。月虹?

 月虹がいるのか? 


 私は声の向かう方向に意識を定めた。

 ベッドから飛び起きた子どもは、まだ五歳くらいの幼子だった。

 白い髪、手でこすられて開いた大きな目は赤。

 そして大きなあくびをする。


「だってママ。僕、すごい夢見ていたんだよ。地球の女の子と遊ぶ夢なんだ!」


 私は信じられない勢いで地球の引力に引かれていた。

 朝が近い。

 目覚めの時間だ。

 私は思わず顔を覆った。

 夢はもちろん、いつかは覚めるもの。でも、私が見つづける限り、この夢は消えないと思い込んでいた。

 でも違う。

 月虹が実在の人間ならば、彼の夢だって覚めるのだ。



 私は絶叫とともに飛び起きた。

 汗はびっしょりだが、朝日は最後の火星の夢みたいに、白く明るい。鳥の声すら聞こえるさわやかな朝だ。

 私は夢を何千回も見ていた。

 でも、おそらく月虹は、たったひとつの長い夢を見ていたのだろう。夢の中、目覚めるたびに私は砂になって、月虹の目の前から消えていた。

 そのたびに彼は悲しい思いをしたにちがいない。

 私が二度と夢を見ないのでは? という恐怖におびえたに違いない。

 今の私がそうだから。

 火星という言葉は、月虹を夢から目覚めさせるキーワードだった。


 私の不安は当たった。


 火星人の月虹は、二度と地球の少女の夢を見なかったのだ。

 いや、見たのかもしれないが、私はすでに大人になっていたから……。



 乾いて荒れた大地に木々はない。

 かわりに巨大な電波望遠鏡が、宇宙からの情報をすべて受けようと、枝葉のようにアンテナを伸ばしている。

 小高くなったこの位置はその様子がよく見えて、赤い丘の下にあった巨大ドームを思い出させる。

 私は乾いた土を握りしめる。そっと手を開いた。砂が散った。

 夢はすべて消え去った。

 地球外生物探査プロジェクトは解散し、私は他部署に異動するか、日本へ帰るかの選択で迷っていた。

 そのような中、ジェフがドライブに誘ってくれ、ここに連れてきてくれたのだ。


「火星の丘は、ここに似ているんだぜ」


 ジェフは言った。

 今回ばかりはジェフの言葉が真実に聞こえた。


「俺が火星の夢を見なくなったのは、火星に行くことを決めたからなんだと思う。たぶん。ユウコがそいつの夢を見なくなったのは、火星に行って実際に会うためだ、きっと」

「私の夢……? あんな嘘みたいな夢の話、本当に信じていたの?」


 私は驚いてジェフの顔を見た。ジェフは照れくさそうに笑ってみせた。


「あたりまえさ。夢の中で俺も誰かに呼ばれたような気がしたし。でも、会うなら本当に会ったほうがいいと思って、丘の上で誓ったんだ。火星で会おうってな」


 はじめて応えた人は、友達じゃなかった。次に来てくれた子は、何度かこの丘に立ってくれたけれど、いつか会おうと言ったきりだった……と、月虹は言っていたような?

 すっかり枯れてしまっていた私の心に、何かがめまぐるしく走った。


 月虹の想いを受け取ったのは、私一人ではないのかもしれない。

 ありえなさそうな夢を追っているのは、私一人ではないのかもしれない。


 ジェフは三回咳払いをした。


「だから、ユウコは俺と一緒に火星にいかなきゃならないんだ」

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