金のなる木
文野麗
第1話
夕食後に訪れる快活な時間、僕は大学の課題を片付けるために書きものをしていた。穏やかな気分であった。時間に追われることもなく、1か月以上思ったように過ごせるのだ。
没頭して文を書き連ねていたその時だった。何とも不快な音がした。いかにも不穏な忌々しい音であった。後ろを振り返ると、似たような衝撃音が連続して幾度か聞こえた。僕は障子に近づく。すると消しゴムくらいの大きさの物体が和紙に衝突しているのだった。離れてから、もう一度僕の鼻の高さにぶつかった。
「わ、私はあの時のコガネムシでございます」
「何だね、丹頂鶴みたいなことを言うんじゃないよ。コガネムシなんて助けてやった覚えはない。……頭突きはよしてくれ。今廊下に出るから」
虫が部屋に入らないように素早く部屋の外に出た。
「私はお宅のお庭にあった金のなる木の根によって大きくなり、こうして成虫になることができたのです。今夜はそのお礼を言いに参りました」
「ああ、あの時の嫌な幼虫というのはお前だったのか。礼など言われる筋合いはない。何もお前は吹雪の夜にこの家の戸を叩き、心優しい家主に中へ入れてもらったわけではないだろう。まさか『こんなものしかありませんが』と金のなる木の根っこを差し出されたわけでもあるまい。ただ単に突然鉢の中に現れて、その根を食い尽くしたというだけなのだろう? 祖父は落胆していたぜ? 3つしかなかった木の1つはもうダメになってしまったのだから。あの金のなる木はただの植物じゃない。もらった時にはほんの小さな苗だったのを、祖父が丹精込めて大きくして3つに増やしたんだ。礼を言うよりむしろ謝るべきじゃないか?」
「謝るつもりはございません。生きるまでにしたまでのことです。お爺様だって、何も生きる術を断たれたわけではないのでしょう? しかし私はあの豊かな根が、自分をここまで立派にしてくださったというのが嬉しくてたまらず、一言お礼を申し上げずにはいられなかったのです」
「そう思うのなら出ていくがいい。祖父はお前を見たら、きっと殺してしまうだろう」
僕は窓を開ける。昼の残りの熱気が境界を越えてくる。虫は素直に外へ出た。
「お孫様のお顔を拝見できて光栄でした。感謝の念に堪えません御恩は一生忘れません」
虫は空中で一回転してからどこかへ去っていった。僕はわざと不服そうな顔をして窓を閉めた。
再度机に向かう。僕は考えざるを得ない。
虫が話をするわけがない。礼を言いに来るなどありえない。そもそも別の個体に決まっている。
どうしてあんな独り芝居を平気でできるのだろう。ありもしない妄想を口に出して言うのは正気ではない。僕の精神は確実に異常をきたしている。
病識があることだけが救いだ。その認識もどこまで当てになるかはわからないが。自分の未来は恐怖でしかない。
夏の夜は静かな狂気に加担した。
金のなる木 文野麗 @lei_fumi_zb8
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