イハンスにやらせろ

歩く猫

第1話

 犬のヨーイはパン焼き女のジナンナと暮らしていた。

 窯は冬でも暖かかったし、焼き上がったパンの番などすればご褒美がもらえた。

 ある時、日暮れた調理場に侵入者があった。

 ヨーイは闇の中を近づき、くたびれた作業ズボンを見分けて噛みついた。

 盗人は細くあえぎ、ヨーイがズボンの裾をくわえたまま跳ねるように後ずさると、抵抗せずに従った。

「いい子、ヨーイ。慌てた盗人にそこらを引っくり返されちゃたまんないの。いい子、ヨーイ」

 陰からジナンナがおだて、声に合わせてヨーイはますます後退した。ジナンナは身構えながら近づき、大小の壺、パンが盛られた鉢をかばう位置に立った。

「お座り。動くな」

 言った途端に盗人が木箱に尻餅をつき、ジナンナはフフと笑った。

「犬に言ったのよ」

 当のヨーイがはまりこんだのは、木箱よりも奥まった隅だった。盗人がゆっくり膝を除けたので、彼女は出てきて〈お座り〉をやり直した。誇らしく首をそらし、〈お座り〉にぴったりの空間を見回したついでに盗人の口元を嗅ぐ。まだ幼い子供の匂いがして、彼女は優しい気持ちになった。

「もう仲良しの挨拶? 大した番犬ね」

 ジナンナは灯りをかざし、鼻と鼻をくっつけている一人と一匹をつくづくと眺めてから、パンの鉢からきれいな欠片を選んで、まずは番犬の仕事に報いた。

「ほらあんたも」

 乳で煮るしかない古いパンを突きつけられ、盗人はエホッと咳き込んだ。むせながら指さした先にあるのは、糖蜜の壺。

 盗人猛々しい、とジナンナは匙をつかんでずぼりと上げた。細く流れる糖蜜を幾筋かふりかけ、パンを手渡し、指についた分は舐め、そんな飼い主のあらゆる動作に、ヨーイが灼けつくような視線を送っている。

 盗人は手の中のパンを頬張った。

「あんた、ガラス窯んとこの小僧っ子ね。食事をもらってないの?」

「ムッ、エホッ」

「ほら水」

「エホン、親方は言うんだ。るつぼの中のガラスが冷めて、糖蜜をかきまぜたぐらいの硬さになったら、頃合いだって」

「……」

「俺、糖蜜をかきまぜた事ないんだ」

「……」

 目じりを怒らせたジナンナは腕組みを解かず、ヨーイは「こいつやっちまった」とうなだれた。

「“ご馳走になりまして。ジナンナさん”」

「えっ」

 小僧が当惑げに首を振り、ジナンナは噛んで含めるように言った。

「あんた、口がきけたのね。だったら言う事があるのじゃない?」

「ご、ご馳走になりまして、ナッ、ナさん」

「ジナーンナ。やりたきゃどうぞ」

 ジナンナが場所を譲り、何一つ見逃すまいと張り切る犬に靴を踏まれながら、ガラス窯の見習い小僧は木の匙を引き抜いては混ぜ、灼熱の炉床、見つめすぎると目がつぶれるという白光の、彼のいるふいご場からは見えない核心の底にある、輝くるつぼを思い描いた。

 あとくちの甘い液体は、くるくる踊りながら垂れていった。


 ガラス窯の小僧はイハンスといった。

 とぼとぼと工房へ戻ると、徒弟連中は下っ端の彼の分も片づけを終わらせていた。

「俺、糖蜜をかきまぜて来た」

「そうかい」

「パン窯に犬がいるって知ってた? 耳の垂れた猟犬」

「知ってた!」

 それっとばかりイハンスを押さえつけ、よれたズボンの噛み痕を見つけると、職工達は笑い合い、小突き合い、賭けの配当を互いに言い立てながら、宿坊へ帰って行った。

 俺が刺し子の前掛けするようになったら見とけ。イハンスは呪いを込めて見送った。

 腕から膝までを覆う刺し子の防熱前掛けは、ガラス職人の序列の証だった。腕を認められた徒弟は灼熱の窯口に立ち、親方の目と手の合図だけで動いた。

 前掛けを勝ち取ってそれをするのは、ふいごを踏んでいるイハンスのはずはなかった。でも彼の大好きなウラカエなら――。頭が良くて物知りの彼となら、いつか一緒に工房の差配ができるのだと、イハンスは夢見るようになっていた。

 二人は以前、同じ修道院にいた。

 ある時、ガラス工房のピヤル親方が頼み事に来た。異教徒の学者によるガラス作りの本が出回っているが、俗語翻訳者がガラスの事を知らないらしく、おかしな配合になっている。当時の知識人の共通語であった古典語版を手に入れたので、翻訳をやり直してもらいたい。

 筆頭写字僧はパラパラと見て、自分もガラスの事を知らないから同じ事になるだろうと答えた。古典語が分かってガラスが分かる、そんな者はいなかった。だが一番若いウラカエなら今からでも仕込める。そして話は聖堂窓の修繕の件になった。修道院は現金を出したくなかった。

 ウラカエは耳が聞こえない。彼に懐いている少年を共に行かせ、身の周りに気を付けさせる。そう取り決めが整い、二人はひびの直った聖堂色ガラスの代金として、ガラス工房の徒弟になった。

 初めの数ヵ月をかけ、二人は共に下積みをこなした。ウラカエが上級職工に何か訊ねる時はイハンスが仲立ちした。ざっと仕事を覚えた今は、イハンスは一人ふいご場の見習いについている。

 薄闇色に沈んだふいご場で、イハンスはあくびをした。

 煉瓦に沿って戻りかけると、耐熱煉瓦の壁に影が流れた。回廊を小さい灯りが近づき、アーチ形の開口部に、書き物仕事を抱えたウラカエが立っていた。

「あー」

「フン」

 二人は素早く修道院手話を交わし、夜が更ける頃には、ウラカエも猟犬の鼻が顔にぷちょんとくっつく感触を思い浮かべ、床の中で笑った。


 その週から、加熱調剤が始まった。

 川砂、植物灰、処理した石灰石などの原料を加熱しながら混ぜていく。新しい調合を試すのでイハンスはふいご場をはずれ、付ききりでウラカエの手話通訳を務めた。

 窯が高温溶融に入ると、いてもいなくてもいいイハンスは時おり半休をもらった。


 のどかな土手道の途中で、イハンスは駆け出した。パン窯の前庭でジナンナが腕を振り回し、ヨーイが知らない男に引き倒されている。

「こいつめ、すっかりここんちの子みてえな顔か? あ? しゅきしゅき父ちゃんとこおいで!」

 駆けつけるうちにイハンスにも分かった。男はヨーイの前の飼い主で、騒ぎは再会の取っ組み合いだ。「およしよ、みっともない!」と男の背に豆のさやを投げつけていたジナンナはイハンスに気づくと、白い頭巾にきりっと巻き付けた結び残しを、さらに念入りに押し込んだ。

「この子はガラス窯の子よ」

「お得意さんか」

 デバンと名乗った男は山越えをする行商人で、ガラス作りの盛んな沿海州から、海藻灰を仕入れて来たのだった。

「ヨーイを、迎えに来たの? 最近足をひきずるんだけど」

「連れてきゃしないわよ」

 デバンは猟師としてそれなりの暮らしを立てていたが、ヨーイが産んだ仔犬は猟師仲間に高く売れ、こりゃあ狐なんか狩ってるより実入りがいいやってんで、以来ブラブラしながら儲け話を探してる。というのがジナンナの乱暴な注釈だった。

「大体合ってんな。おいどうした」

 ヨーイはぎくしゃくと身を低くしていて、主人が手を伸ばしても避けた。

 お見限りなのさと呟いてジナンナは半扉を突き、豆のさや剥きに戻った。

「違う」

 イハンスは犬から見て〈喧嘩〉にならない場所まで下がった。

「困ってるんだ。ご主人が急に帰ってきて……そうだ、俺とさっきの取っ組み合いをしてよ。わー!」

 いきなり声を上げて横っ跳びに跳ね、イハンスはぽかんとするデバンの股をすくいにかかった。

 びくともしないデバンにそのまま押さえつけられてしまう。イハンスは「降参」とうめいた。

「勝ったぁ」

 即興芝居を飲み込んだデバンは天に向かって拳を振りたてた。ヨーイは集中して首を傾げている。

「ヨーイ、こいつといていいぞ。お前なんて名?」

「イハンス」

「いい子だ、イハーンス」

 大きな手がイハンスをもみくしゃにし、オスの位階がはっきりして安心したヨーイはまっすぐ近づいて、頭目オスの鼻を正式にべろべろなめた。

「すっかり機嫌が直ったな」

「この子、最初からヨーイを魔法にかけたみたいだったよ」

「コツでもあんのか? 餌くれるジナンナの言う事きくのは分かるが」

「え……っと」

 イハンスは人、犬、人と目を泳がせた。

「犬は、今の事しか考えないんだ。今したい事と、今されたくない事。そこに調子を合わせてやるの」

「あ?」

「やっぱり魔法だ」

 ジナンナがポクッとさやを折り、ヨーイも異議なしと後肢で耳の横をかいた。


 ヨーイが本腰を入れて放蕩主の歓待に取りかかるのをしばらく眺め、「じゃあね」とイハンスは工房に戻った。来客があって取り次ぎに出ると、それはヨーイをお供に連れたデバンだった。

「よ、一瞬ぶり。イハーンス」

 デバンは肩に担いだ大きな袋をわざわざ持ち替えて、イハンスの頭をくしゃくしゃにした。

 されるがままのイハンスは「オホン、こちらへ」と威厳をとりつくろった。

「親方に荷を届けにな。ああ、そうだよ悪ぃか。戻ったらまずヨーイへの挨拶だ。商談なんざ後回しさ」

 デバンは一人で言い訳しながら荷をどさりと土間に下ろし、お出かけにはしゃぐヨーイをなでたり掻いたり、〈ここで待て〉と鼻声で命じてもいるようだが、遊んでいるようにしか見えず、切りがない。

「おいで、こっちの壁があったかいよ」

 イハンスが呼ぶと、ヨーイはダメ押しで頭をなでてもらってから、窯口の脇へ収まった。

 首を立てて寝そべったヨーイは、古代の彫像のように威風あたりを払い、吹き抜けの二階へ上がっていく二人の姿にひたと目をすえていて、つまみ食いの前科がある職工達は、知らん顔で片づけを続けた。


「しばらく見なかったな」

 二階の居室で出迎えたピヤル親方にも、デバンとはお決まりの軽口があった。

「早いとこ後がまに収まってしまえや」

「うるさいな」

「番犬なんぞ置いてって、唾をつけたつもりか知らんが」

「うるさいな」

「人が見たらわしらが寡婦の世話をきちんとしてないみたいじゃないか。パン窯の許可状を継ぎたい働き者なんざ他にいくらでも……」

 紙束を抱えて辞去するところだったウラカエは、扉を必要以上にゆっくり閉め、イハンスと声を出さずに笑った。


 梯子段を途中まで降りたイハンスは、残り半分を飛び降りた。

「ヨーイ! 何された!」

 窯口でぬくぬくしていたヨーイが、土間のはずれで腰を抜かしている。

「何もしねえよ」

「耄碌してんだろ」

 兄弟子達は順繰りにとぼけ、しかし憂さ晴らしの余興を楽しんでいる様子もない。

「ヴルルル……アンッ!」

 ヨーイは骨から身を震わせ、イハンスはぐるりと呪いの目つきをくれてから、窯の裏手へ走った。

 煉瓦造りの溶融炉の向こうに徐冷炉があった。成形したガラスはここでゆっくり冷まされ、割れや歪みの出た物は屑ガラスに回された。

 差し掛け屋根のある中庭へ出ると、次の窯焚きの準備が始まっていた。失敗品をできるだけ、槌で細かく砕いておく。下積みの頃にイハンスもやった作業だ。

 失敗ガラスのいずれかは、きしみ上げるような音で割れるのだった。皆、悪魔の悲鳴と呼んで嫌がった。イハンスはよく見てどんなのが悲鳴を上げるか当てられるようになった。色がにじんで厚みのあるやつだ。

「やめ! 作業やめ!」

 熟練工でもないイハンスでは一声忽ちというわけにいかなかったが、槌を打つ手がぼちぼちと止まり、イハンスは徒弟の一人から槌を取り上げた。突き場に広げられたガラス片から疑わしいのをかき出して、箱に放り込んでいく。

「いいだろう。始めろ!」

 誰も動き出さない。徒弟たちもそこまで威張られる謂れはないのだ。

「あの、ありがとう。こっちは俺が砕いておくから」

 耳にキーンと来るアレなんだぜ知ってる? と尻すぼみに恩を売り、開け放しの戸口からのぞくと、ヨーイはウラカエに首根っこをもみほぐされてうっとりしていた。

「おいで、パン窯にいよう」

 イハンスはひと単語の手話も送らず土間を走り抜けた。


 るつぼの中のガラス素地は、糖蜜の硬さになっていた。

 窯口をのぞいたピヤル親方はうなずいて、長い吹き竿の先に一回分を巻き取った。

 舞踊の振り付けのようにそばへ寄り、竿を受け取ったのは吹き役だ。丸く大きく吹いてから、竿は親方に返される。親方は竿先を炉に突っ込み、柔らかくしてからまた渡す。

 今度は回し役が進み出て、徒弟達が場所を空けた。竿の真ん中を持ち替えながら、風車のようにぶん回す。遠心力でガラスは円筒状に延びていく。親方の合図で竿は止まり、再び炉へと戻された。

 かいたそばから汗は渇いた。炎熱をまともに浴びぬようはすに身構え、職人達は竿を操った。回し役がぶん回す。親方は目で「もっと」と促した。もう少し長さを出してから円筒を縦に切り開き、延べ板の上で平たくすれば、片腕長の大きな板ガラスが取れるはずだ。


 街道三国の戦争で、一帯は荒れていた。まともな宿場でジナンナの夫は盗賊に襲われ、猟師のデバンに背負われて戻った。

 これからはどんな輸送にも金がかかるだろう。色つき瓶などいくら作っても採算が合わない。

 大きい透明板ガラスなら、護衛費を上乗せしても人は買うだろう。窓の採光が良ければ、どんな北方の冬の弱々しい日の光も取り入れられる。貴重な薪を節約できる。角突き合いを制した大国が、街道を通る燃料薪に課税し始めたがこれなら――


 後日、徐冷炉から引き出された板ガラスは、すすけたような色だった。

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