第7話 残らないもの、残るもの

「……そっか、わかった」


 考えをまとめると、沙希さきは小さくうなずいた。その顔には、穏やかな笑みが広がっている。


「会えて本当によかった。今日、起こったことは一応秘密にするって約束するね」


 第一、幽霊に襲われたことなど誰も信じないだろう。


「本当に、ありがとう」


 夕雨ゆうさめは、黙って沙希の声を聞いていた。続けて問いはしなかった。沙希の出した選択を。

 夕雨は沙希に顔を向けたまま、数歩、後ろに下がった。ワタリが、音もなく夕雨の手から飛び立った。


 もうすぐ彼女の時間が、終わる。


 夕雨は、ワタリが飛ぶ先を見つめた。その先の空を見て笑う。穏やかに微笑む沙希に向けて、夕雨は両手を祈るように合わせた。


「……お前の未来に、幸あることを」


 そう、夕雨の声が高らかに響いた。



 その瞬間沙希の目の前から、夕雨は赤い光を散らして文字どおり

 林の中で目立った赤い着物は、残像もなく消え失せた。その上を飛んでいたはずの、ワタリもいない。


 沙希は、誰もいなくなった目の前の風景をじっと見た。何度かまばたきをしてから、首を傾げる。


「……あれ? 私、何でここにいるんだろ?」


 沙希は、不思議そうな表情を浮かべた。

 先ほどまで、ベンチで絵を描いていたはずなのに、なぜここにいるのか。理由を少しの間考えて、思いついたように小さく声をあげる。

 確か、絵を描くきっかけになる絵を眺めてたら、ここに来たくなったのだった。その証拠に、今、彼女の手にはその絵が握られている。

 沙希は改めて広場を見渡した。

 以前よりも、鬱蒼うっそうとしている気はするが、この場所の静かな雰囲気は変わっていない。あの頃は、本当に楽しかったものだ。


 その時、カバンの中から携帯の着信音が聞こえた。

 沙希は、はっとした顔を浮かべるとあわててカバンを開いた。スマホを、急いで引っ張りだした。

 沙希の予想どおり相手は彼女の母親。それも、メッセージ受信ならまだましなのに、電話だ。


 沙希は、はあっと息を吐きだしてから電話に出た。


「……もしもし」


 恐る恐る、声に出す。


『沙希? ちょっと、今どこにいるの? 塾にいないって聞いたんだけど』

「うん、まあ、そう」


 やはりばれたか。沙希は心の中で深いため息を吐いた。


『もう……あんたって子は。どうしたの? 今どこにいるの?』

「緑地公園」

『公園? ……ああ、ちっちゃい時によく行ったとこ? なんでまたそんなところに』


 電話から聞こえる母親の声は、あきれ返っている。不思議なことに怒っていないようだ。


「まあちょっと、新鮮な空気を吸いたくて」

『はあ、何言ってるのよ? ……まあいいわ。調子が悪くて、塾行けそうにないんだったら、今すぐに帰ってきなさい。また、これから、雨降るらしいわよ』

「うんうん、わかった、帰りますよ」


 沙希は、塾から出た時に傘を置いてきてしまったので、雨が降るのは困る。塾に傘を取りに行くのも気がひけるので、ここは大人しく帰ることにした。これは帰ってからこっぴどく怒られるパターンになりそうだ。

 そのまま、母親に何か言われる前に電話を切ろうとして沙希は手を止めた。眉をひそめる。

 ……何か。何か、大事なことを忘れているような気がした。


『じゃあ、待ってるからね』


 電話の向こうの母親が、電話を切るような気配を漂わせる。


「待って」


 気づくと、沙希はそう言っていた。同時に思い出す。


『ん、何?』

「あの……」

(言わなきゃ。だって私、決めたんだから)

「私帰ったら、お母さんに話したいことがあるの」


 それは、彼女にしては力強い声だった。


「だから、その、待っててくださいっ」

『…………』


 電話の向こうで、母親はほんの少し押し黙った。


『――やっと言ってくれたね。あんた』

「え?」

『最近、ずっと何か言いたそうな顔してたでしょうが』


 戸惑う沙希には構わず、母親はそう指摘すると、


『聞いてやるから、早く帰ってきなさい。じゃあ』


 一方的に電話を切った。

 沙希は耳からスマホを離すと、通話が終了したことを示す画面をじっと見つめた。

 そもそも沙希は、なぜ自分が進路について話すことを決めたのかはよく覚えていない。ただ沙希は、やっぱり母はわかってくれていたのだ、と思った。

 ふと、スマホの画面が見えづらくなって、彼女は顔を上げた。


 見ると暗い雲の合間から、日が差していた。その暖かな日差しは沙希を照らしてくれているかのようだった。

 真上にあるその太陽は、雲の後ろへすぐに隠れてしまったが、沙希には話し合いがうまくいくということを示してくれているように思えて、彼女は微笑ほほえんだ。


 それから絵をカバンの中に丁寧にしまうと、彼女は歩き始めた。林の間を抜けた先にへと。







 そんな沙希のことを、人知れず見守っている者がいた。

 現世と重なるように、平行して存在する世界――影の世界。常人にはえない、現世と冥界の境界に広がる世界。


 影の世界から見ると、薄いカーテン越しに見ているかのように現世は暗く見える。音もくぐもって聞こえる。


 それでも、には、沙希の答えがちゃんと聞こえていた。


「うまくいったようじゃな」


 夕雨は影の世界から沙希の背を見つつ、つぶやいた。

 現世の地上に沿うように、黒い地面が広がる影の世界は暗い印象を与える。その風景に、彼女の赤い着物は彩りを与えていた。


「はい、今のところは、ですが」


 少し離れた地面に止まっていた、ワタリが言葉を返した。


「彼女は、あなたの言葉を覚えているわけではありません。あなたが現出を終えるまでに彼女自身が思ったことだけを、記憶にとどめているのにすぎないのですから」


 夕雨ら影浪かげろうは、影の世界の存在だ。

 彼女たちは限られた時間でしか、現世には姿を現すことはできない。そして、現出時間が終われば現世における影浪の記憶は抹消されてしまう。誰の記憶にも残ることがない、それが彼らだった。


 沙希は、自分が決意した理由を忘れてしまっている。彼女は、そんな不確かなことを信じなければならないのだ。


「わかっておる。でもきっと、大丈夫じゃ」


 ワタリが不思議そうに、夕雨を見上げた。


「我は忘れられてしまうとしても、残るものがあると、信じておるから」


 かなり小さくなってしまった、彼女の背を見ながら、夕雨は目を細めて笑みを浮かべた。

 影の世界にいても、現世のことは見えるのだから、沙希がどうなるのか見届けても構わなかった。

 だが、夕雨はそうしないで置こうと決めていた。

 誰かの人生に深入りはしない。夕雨は、そう心に決めていた。

 これからも、夕雨は、数多あまたの人生に会うことになるのだから。接触は最低限にと決めていた。それは、想いが尽きない限り存在し続ける影浪の宿命でもあった。


 夕雨はしばらくのあいだ、そこで林の道を見つめていた。




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