第7話 『血も涙もない』人間
気づけば六は駆け出していた。
4日前にも、血は見ていた。
けれど、今日は、どうしても我慢できなかった。
理由なんて、わからない。
……死を、見たからだというのは、簡単だ。
…………でも、それ以上の、何かが——。
…………。
……あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。
…………けれど、結局は同じことだ。
高原六は、あの場から、逃げた。
それが、真実であり、すべてなのだ。
「ハァ……。ハァ……」
柱に、手をつく。
気づけば息は荒くなっていた。
傘も気付けば手元からなくなり、全身が雨でしとどに濡れていた。
……ここは、どこだろう?
頭上の橋梁からは、大量の車が行き交う音が響いている。
……上にあるのは、高速道路だろうか。
「……私……」
深呼吸すると、また、脳裏にあの光景がよみがえる。
そして、六は、また考える。
……私は、やはり心のどこかで憧憬を抱いていたのだろう。
近衛継莉という少女に。
——その彼女の見たくもない側面を、目にしてしまったような。
そんな気分を、気のせいにしてしまいたかったのではないか?
……。
いや、これ以上考えても、仕方ない。
だって、きっと誰にだってわからないことなのだから……。
「そうだ、警察……」
そこまで考えて、思いいたる。
……けれど、連絡して、どうしようというのだろう。
……あれは、私が見た、幻だったんじゃないか?
そんなことすら思う。
自分は、あれをどう説明すればいいのだろう……。
だって、余りにもあれは非現実的で。
あの赤は、余りにも……。
「——ォエッ……」
吐きそうになって、口元を抑える。
けれど、きっと幻なんかじゃないことぐらい、わかっているのだ。
あの夜、虚構と見まごう事実を体感した。
あれだって、結局のところ嘘なんかじゃなくて、近衛継莉という少女は、確かに実在した。
……。
受け入れるしか、ない。
この、現実を……。
それなら、私は……。
心を落ち着けた、その瞬間だった。
声が、聞こえたのは。
「久しぶり、六」
血が、凍るかと思った。
それは、確かに聞き覚えのある声だったから。
「何か、あったの?」
……近衛、継莉。
背後から聞こえた声は、彼女に、間違いなかった。
その顔を見ることが、怖くて。
けれど、見ないわけにはいかなくて。
六は、恐る恐る、背後を振り返る。
そこには、にっこりと笑顔を浮かべる継莉がいた。
……その身を、紅く、赤く、朱く。
ただただ、赤く、染めて——。
「継、莉……さ、ん……」
自分は、彼女になんと言えばいい?
わからない。
また、現実を否定したくなる。
自分の瞬間の確信を信じられなくなる。
彼女が、一條先輩を、殺した?
わからないじゃないか。
確かに、あれは血の赤で、彼女は血にまみれている。
でも、それがなんだというのだ。
自分で、その瞬間を見たわけではない……。
じゃあ、やっぱり……。
…………。
事ここに至っても、感性は目の前の事実から目を背けようとする。
……けれど、理性はわかっているのだ。きっと、彼女が、一條先輩を、殺したと。
それとも、逆だろうか。
理性が、事実から目を背け、感性が確信を持っているのだろうか。
……もう、何もわからない。
自分自身の、ことさえ。
…………いっそ、すべて嘘だったらいいのに。
けれど、決してそんなことはない。
全てが嘘なんていうことは、ありえない。
渦巻く思考の、どれかは信じたくなるような嘘で、何かが確実に信じたくもない真実なのだ。
……そうだ。
六は、もう知らなくてはならないのだ。
……先程の出来事の、真実を。
だって……、知ってしまったのだから。
「……ねぇ、六が、…………殺したの?」
……婉曲な聞き方なんて、六にはできなかった。
それはもう、自分の中で十分済ませた。
だから、真っ直ぐに尋ねた。
そして、その問いに継莉は、すぐに答えた。
……躊躇うことなく。
「うん。……それが?」
それが?
それが……。
……それが、どういう意味を持つのか。
「……なんで?」
だから、六は聞いた。
その、理由を。
……しかし、返ってきたのは、明確な返答ではなかった。
「ハハハハ! まさか、彼を哀れんでいるの!? あの彼を!?」
お腹を抱えて、笑い出す、継莉。
その笑い声が、雨の京都の高架下に、反響して、こだまする。
「……アレは元から生きてなんかいない! 笑わせないで!」
「そんな言い方……」
思わず、言葉を挟む。
……だって、あんまりじゃないか。
彼は、もうきっと、死んでしまって、いると言うのに……。
「——……。へぇ……そっか……。六は、そう言う人間かぁ」
しかし、彼女にとって、それはあまり気のいい返答ではなかったらしい。
……六には、彼女がわからなかった。
あの、鴨川で自分に向けて「昨日の言葉は、忘れてくれていいよ」と言った彼女と。
今、目の前で「彼を哀れんでいるの!?」と嘲る彼女——。
どっちが、本当の彼女なのか。
——一体何が、真実なのか。……私は、何を、信じればいいのか。
わからない。
わからないよ……。
「……私は——っっ!!」
継莉が叫ぶ声が、高架下の空間にこだまする。
……それは、きっと、魂の慟哭。
「私を否定するものを認めない!」
今、自分は初めて、『近衛継莉』という存在に触れているのではないか。
その叫びを聞きながら、六はどこか頭の片隅で、そう、考えていた——。
「————私は、私だ!」
ボボボッ……!
彼女の激情に駆られるように、彼女にまとわりつく血液が燃え上がる。
それは、暗闇が包む雨の中だからこそ、不気味に揺らめく。
六の肌を、夏の蒸し暑さではない熱気が焼いた。
「それに……」
荒れた心が少し落ち着いたのか、継莉は声のトーンを落とす。
そして、一歩、大きくこちらに近づく。
もう、二人の間に距離などない。
圧に気おされた六が一歩後退ると、そこは冷たく屹立するコンクリートの柱。
そこに、継莉の手がトンと付かれる。
目の前には、余りにも見目麗しい継莉の顔と、嗜虐的で赤く色づいたその瞳。そして、彼女の肩からハラリと垂れる、サイドテールの金の髪……。
彼女は自分よりも小さいはずだというのに、その存在感——圧力は、並大抵のものでは、なかった。
これが、人生で初めての壁ドンだなんて場違いなことを頭の片隅で考えながら、六の頭は蒸し暑い夏の空気で溶けていく。
そして、そんな六を見つめる継莉の目に、嗜虐的な光が、灯った。
「あなたが、私を殺してくれるんでしょう?」
それは、六が4日前に彼女に言った、言葉。
「じゃあ、あなたも悪い子だね。……六」
六の、耳元。
それは、ささやくような声音だったけれど。
それゆえに、六の中に染み渡った。
……背筋が、ゾクッとした。
ガクッ——。
一瞬、足の力が抜けそうになるけれど、なんとか気力で立ち続ける。
「——だから、あなたも、殺してあげるわ。……それで、全部、なかったことになる」
パシン!
それは、六ですら、予期していないことだった。
……けれど、確実に六が行った行動。
——六の右手が、継莉の頬を、ぶっていた。
一瞬で、我に返って、ハッとする。
……自分は、何を——。
「へぇ……——」
継莉の顔色は、変わらず穏やかだったけれど、また、垂れ落ちた血痕が、ボッ、ボッ……と、不規則に燃え上がる。
……けれど、こうして怒りに沈み始めている継莉を前にしても、不思議と六は彼女の頬をぶったことに、強い後悔は抱いていなかった。
そして——。
だから、高原六は、対峙する。
目の前の、近衛継莉と。
——六は、思った。
彼女は、きっと涙を流すことなどない。
彼女はきっと、人の感情の機微を理解することなどない。
……彼女には、血が流れていないという。
あぁ……だったらそうだ。
きっと、そうなのだ。
——六は、ずっと疑問だった。
血も涙もない人間が仮にいたとして、その人間が、本当に血も涙もないのかどうかが。
けれど、今日やっとわかった。
『血も涙もない』人間とは、血をもっていなくて、涙すら流さない人間のこと指すのだと——。
だから、そうだ。
今、目の前にいる、彼女。
血のない、彼女こそが、血も涙もない人間だ——。
このとき六は、始めてそう思った。
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