誕生日の約束

時雨ハル

誕生日の準備

「王手」

 広い応接間に、少年の容赦ない声が響いた。盤を挟んだ向かいに座った少女が表情を引きつらせる。

「まだ逃げられますよ、フィアス」

「……分かっているわ」

 フィアスと呼ばれた少女は不満げに返した。王の駒に触れ、しかしすぐに手を離して騎士の駒を持ち上げた。少し悩んで駒を進める。

 駒を置いてもなお悩む彼女とは対照的に、少年は考える素振りすら見せず駒を持ち上げた。王の目前に城壁の駒が置かれる。フィアスは眉根を寄せ、深緑の目で少年を睨み付けた。

「もう無理よ」

「まだ大丈夫です」

「どうせすぐ詰められるわ」

 少年が言葉を返す前に、フィアスは王の駒を倒してしまった。苦笑しながら少年は残った駒を盤から下ろす。

「もう一度やりますか?」

「嫌よ。勝たせてくれないし」

「手を抜くと怒るでしょう」

「怒るのはジルの意地が悪いからよ」

 フィアスは王の駒を指先でいじりながら、表情で心外だと示しているジルを睨んだ。幼い顔立ちのせいかあまり気迫のない視線を受けて、ジルは表情を苦笑へ変える。

「王手からひたすら逃げる遊びだと思えば楽しいかと」

「楽しくない」

 背もたれに体重を預け、フィアスは天井を仰いだ。

「お腹が空いたわ」

「午後のお茶はまだですよ」

「でもお腹が空いたの」

「そんなことでは良き淑女にはなれません」

「うるさい」

 投げつけられた駒をジルはひょいと避ける。歩兵の駒は揺れた黒髪を掠め、床に落ちた。

「ジルの方こそ紳士じゃないくせに」

「こうして暇つぶしに付き合って差し上げているのに何を言いますか」

 再び投げられた歩兵を今度は左手で受け止め、机上に戻す。床に落ちていた駒を腕を伸ばして拾い、ジルは盤上に駒を並べ直し始めた。

「糖分が足りないから苛つくんですよ。午後のお茶まで時間を潰してあげましょう」

 椅子の上で膝を抱えて、フィアスは盤を睨んだ。細い腕を伸ばし、ジルの側にある女王の駒を取り上げる。

「これはもらうわ」

「どうぞ」

 特に動じた様子もなく微笑むジルを一睨みすると、フィアスは歩兵の駒を動かした。

 ――そうして午後のお茶が始まる頃には、フィアスは今日二回目の敗北を味わっていた。


 *


 良い香りのする紅茶がカップに注がれる。それを不機嫌そうに見据えながらフィアスは口を開いた。

「本っ当に、ジルは意地が悪いわ」

 カップに角砂糖を1つ落としたジルは、それをフィアスの前に置いてから苦笑する。

「お茶を淹れてあげているのに酷い言い様ですね」

「使用人にやらせればいいじゃない」

 砂糖を混ぜながらフィアスが返す。ジルは無言で肩をすくめて、自分のカップに口を付けた。その反応に不満を覚えて、フィアスはさらに言葉を重ねる。

「それとも、使用人の仕事をするくらいジルは暇なの?」

「まさか」

 今度はすぐに答えがあった。少し満足して、フィアスは机の上に置かれた焼き菓子に手を伸ばす。一口かじると強すぎない甘みが口内に広がる。目を細めてフィアスは微笑んだ。

「暇そうに見えるのは、あなたのために時間を割いているからですよ」

 菓子に夢中になっていたフィアスは深緑の目を丸くしてジルを見つめる。口の中にあった菓子を飲み込んで首を傾げると、金色の髪が床のわずかに上でふわりと揺れた。

「いつも暇なのかと思っていたわ」

「忙しいですよ。父の後を継ぐために学ぶことは山ほどありますし、そろそろ結婚しなければいけませんしね」

「ふうん」

 適当な返事をして、フィアスはお茶のカップに口を付ける。それからついでのように問いを口にした。

「結婚するの?」

「十七になりましたから。父は良い相手さえいればすぐにでも結婚させたいと思っているようです」

「もう結婚するのね」

 結婚が許されるのは十七歳になってからだ。自分にはまだ遠い話に、フィアスは小さく溜め息をついた。

「あなたは来月で十五でしたか。まだ少し先の話ですね」

「婚約ならいつでもできるわ」

「そうですね」

 音を立てずに、ジルはカップを机に置いた。

「あなたと婚約できれば嬉しいんですが」

 水底のような青の瞳。正面から見つめる視線を受け、フィアスは何度か瞬きすると口を開いた。

「無理だと思うわ」

 ジルも特に表情は変えず「分かっていますよ」と返す。

「まずアイゲンズィン伯爵が許してくれないでしょうね」

「お父様はジルの家が嫌いだもの。こうして遊びに来るのも一苦労なのに」

 背もたれに体重を預け、ジルは溜め息をついた。

「まあ、仕方ありませんね。少し前までは貴族ですらなかった家ですから」

「金で爵位を買った成り上がりって言っていたわ」

「否定はしませんよ」

 ジルは目を閉じて息を吐き、何かを考えているような表情で沈黙する。その様子をしばらく見ていたフィアスは片付けられていた盤から音を立てずに駒を取り出し、ジルに向けて軽く投げた。

「痛」

 駒の当たった額を押さえ、ジルはあきれた目でフィアスを見やる。

「何をするんですか」

「隙を見せるからよ」

 差し出された駒を元の場所に戻して、フィアスは椅子から立ち上がる。

「そろそろ戻らないと。お父様が帰ってくるわ」

「玄関まで送りますよ」

 扉に向かって歩き出そうとしたフィアスは、足を止めるとジルの方へ振り返った。

「そういえば、来月のパーティだけど」

 椅子から立ち上がったジルが首を傾げる。

「あなたの誕生日ですか」

「そう」

 隣に並んだジルと共に、フィアスは玄関ホールへと歩き出す。

「ジルは来るの?」

「もちろん行きますよ。招待状が来ましたから」

 ジルが視線を落とすと、ちょうど見上げたフィアスと目が合った。

「あなたが送ったんですか?」

 長い睫毛を何度か瞬かせ、フィアスは口を開く。

「お父様が送りたくなさそうにしていたから、誕生日にはカオフマンのドレスを着たいって言ってあげたの」

「なるほど」

 彼女の言葉に頷きながら、ジルは二ヶ月ほど前に父がドレスの注文を受けていたことを思い出す。

「ありがとうございます。父も喜んでいました」

「もっと感謝しなさい」

「お礼にドレスの代金を割り引かせていただきます」

 ジルの父親が受けた仕事に対して、彼にそんな権限があるはずもない。それを分かっていてもフィアスは頬を膨らませた。子供そのものの表情にジルは苦笑を浮かべる。

「お金の話ばかりしていたら結婚できないわよ」

「すみません」

 苦笑を保ったまま、ジルは玄関ホールへの扉を開けた。そこには既にアイゲンズィン家の従者が控えている。

「では、誕生日には素敵な贈り物を用意しましょう」

 予期しなかった言葉にフィアスは目を丸くする。しかしすぐに目を細めると、悪戯好きな子供の笑みを浮かべた。

「期待してるわ」


 *


 まだ仮縫いの残っているドレスを身にまとい、フィアスはその場でくるりと回る。表情を見る限り母親は仕上がりに満足しているらしい。フィアスもつられて笑みを浮かべた。

「フィアスお嬢様、苦しい所などはございませんか?」

「ええ、大丈夫よ」

 ジルの父であるカオフマン男爵に笑顔を向ける。

「もう少しウエストは絞った方が良いわ」

「かしこまりました」

 横から飛んできた声にカオフマンが即座に答える。フィアスは思わず声を上げた。

「お母様、これ以上絞ったら潰れちゃうわ」

「慣れれば平気よ」

 フィアスの反論を一蹴して、母親は「お願いね」と念を押す。カオフマンは悩んだ顔をしながらも、衝立の向こうへ声をかけた。

「ジルヴェスター、仕立て表とペンを」

「はい」

 衝立の向こうからジルが現れ、父親に紙とペンを渡す。彼はフィアスを見て、にこりと笑った。

「とてもお似合いですよ、フィアスお嬢様」

 貼り付けたような笑顔に不満を覚えながら、フィアスは表面上はにこやかに「ありがとう」と返した。母親の方を振り返ると、仕立て表を覗き込みながら未だにウエストの話をしている。

「私、誕生日の前に絞りすぎで死んでしまうかもしれない」

 溜め息と共にぽつりと呟くと、ジルのわざとらしい笑顔が苦笑へと変わる。

「このくらいで死にはしませんよ」

「だってこのドレス、今ぴったりなのよ。これ以上細くできるわけないじゃない」

「それが今の流行です」

 フィアスはまた溜め息をつく。それと重なるように部屋の扉がノックされた。二人は衝立の向こうにあるはずの扉へと視線を向ける。

「お父様かしら?」

 侍女が扉を開く音の後に、フィアスの耳に聞き慣れた声が届いた。

「ただいま。フィアスはいるかな?」

「お兄様!」

 仮縫いのドレスをまとったまま、衝立の向こうへ飛びだして兄に飛びつく。彼は笑顔でそれを受け止めた。続いて現れたジルが深く礼をすると、それに会釈を返す。

「お帰りなさい、ヘクトお兄様!」

「ただいま、フィアス」

 頭を撫でられて満足すると、フィアスは兄から一歩離れる。ドレスの裾を持って礼をするように広げてみせた。

「誕生日に着るの。似合うかしら?」

「とても似合ってる。可愛いよ」

 再び頭を撫でられ、フィアスは微笑を浮かべる。しかし先程の母親の言葉を思い出して、少し眉をしかめた。

「でもお母様はもっと絞れっていうの。もう十分ぴったりなのに」

「ああ」

 納得したような声を出す兄を見上げて、フィアスは不機嫌な表情を浮かべる。

「仕方ないよ。その日はヴェステン公爵にお会いするんだろう? 目一杯着飾らないとね」

「ヴェステン公爵?」

 フィアスが首を傾げると、ヘクトもつられたように首を傾げた。聞き覚えのある名前を思い出そうと、フィアスは必死で記憶を探る。

「確か西側の……えーっと、すごい人よ」

「確かにすごい人かも知れないけどね」

 妹の曖昧すぎる記憶に苦笑しながら、ヘクトは言葉を続ける。

「マーノルド・ヴェステン公爵。ヴェステン家の当主だよ。西側では最もこの国に影響力があるんじゃないかな」

「そんなにすごい人が私の誕生日に来てくださるの?」

 フィアスが尋ねると、兄は不思議そうな顔で彼女を見た。顔を上げ、母親に声をかける。

「母上、まだフィアスに話していないのですか?」

「話そうとしたら遊びに出てしまったのよ」

「ああ、なるほど」

 妹がしばしばカオフマンの家に遊びに行っていることを思い出して、ヘクトはちらりとジルを見ると苦笑した。頭に疑問符を浮かべているフィアスへ視線を戻す。

「お兄様、どういうことなの?」

 服の裾を掴んで引くフィアスの頭を撫でてから、ヘクトは口を開いた。

「フィアス。お前はヴェステン公爵の婚約者になるかも知れないんだよ」

 突然の事実を告げる言葉にフィアスは目を丸くした。しかし兄の言葉に最も驚いているのはフィアスではなく、開いた口が塞がっていないカオフマンらしい。息子とフィアスが結婚すると思っていたのだろうか。そんなことを頭の隅で考えながら、フィアスは「もっと早く言ってくれればいいのに」とだけ返した。

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