正しい魔法の使い方

時雨ハル

魔法使いを探しに

 カウンターに置かれた本の題名を、司書さんは慣れた手つきでカードに記していく。神学の本や論文の題名を書き写して、彼女はふと手を止めた。本の題名を小さな声で呟く。

「植物の進化と起源……?」

 司書さんは私を見上げて、首を傾げた。

「教会の子がこんなの借りていいの?」

「はい。やっぱり、対極にある意見も知っておかないと、こちらから主張することなんてできないと思って」

 用意していた言い訳を口にすると、彼女は「真面目ねえ」と笑って本を渡してくれた。

「たまには息抜きしなさいね、クレスちゃん」

「はい、ありがとうございます」

 笑顔で返し、本を受け取って図書館を後にする。日差しに目を細めながら空を見上げる。今日は雲が少なく、涼しい風が吹くおかげで過ごしやすい。市街を出て、教会に続く古い橋へ足を踏み入れながら、ようやく私は大きな溜め息をついた。

「こんなんじゃ駄目、だよね……」

街と教会の間にある大きな湖は森に囲まれている。普段は人の姿が見えないからこその独り言だったけれど、森から出てきた人影を見つけて思わず歩みを止めた。遠くて顔はよく見えないけれど、茶色い髪の男の子らしい。水面を覗き込んでいるのは、何か探しているからだろうか。彼が探しているものを見てみようと、私は橋の柵から身を乗り出した。その時ちょうど彼は顔を上げて、多分、目が合ったと思う。慌てながら、私は身体を起こすために柵に体重をかけた。――けれど、古くなっていた柵は重みに耐えきれずいとも容易く崩れてしまう。

「きゃ……!」

 思わず目をきつく閉じて、衝撃に耐える。けれど、予想していた衝撃は訪れなかった。目を閉じたまま動けずにいると、ようやく思考が追い付いてくる。湖に落ちるはずだったのに何ともない。代わりに妙な浮遊感がある気がして、恐る恐る目を開く。

 本当に、浮いていた。ゆっくりと下降して、橋の上に座り込む。何が何だか分からない私に、遠くから声がかけられた。

「大丈夫ー?」

 顔を上げると、さっきの男の子が湖の向こうからこちらを見ていた。

「だ、大丈夫です!」

 もしかして彼が助けてくれたのだろうか。でも浮くなんて、魔法じゃあるまいし。混乱したまま返事をすると、彼は踵を返し森の中へ消えてしまった。後に残ったのは私が落とした本と、呆然と座る私自身だけ。少しの間そのまま座り込んで、ようやく本を拾い始めた。手は本を拾い集めながらも、頭は疑問符で埋まってしまう。さっき確かに、私は湖に落ちそうになった。なのに気付いたら浮いていて、湖には落ちなかった。何度思い返してみても、何が起こったのか理解できそうにない。

 思わず眉をしかめた私の耳に、教会の鐘の音が飛び込んできた。夕食の時間まであと十五分だ。慌てて残りの本を拾い集めると、私は駆け足で教会へ向かった。


 *


 配膳の間は騒がしかった食堂も、全員が席に着くとやがて静まり返る。司長様が日々の恵みへの感謝と祈りを唱え、私たちがそれを復唱する。食堂が沈黙で満たされると、司長様は顔を上げ微笑んだ。

「では、いただきましょう」

 その一言を合図に、食堂には少女達のおしゃべりが溢れ始める。私にも、隣に座っているノモが声をかけてきた。

「クレス、今日は時間ギリギリだったね。どうしたの?」

 いつものように正面から顔を覗き込んでくる。私は少し迷ってから、橋であったことをかいつまんで話した。男の子がいたこと、柵が崩れたこと、でも落ちなかったこと。

「――それで、本を拾ってたら遅くなっちゃったの」

「はー……」

 ノモの持つスプーンからジャガイモが落ちた。スープに落ちたジャガイモに気付いていないのか、彼女は私の顔を凝視している。その表情は、驚きと好奇心に満ちていた。

「もしかしてそれって、魔法使いじゃないかな?」

「魔法使い?」

 ノモの言葉を繰り返してみると、彼女は何度も頷いた。

「ほら、森の中に住んでるって聞いたことない? 茶色の髪と金色の瞳をした男の子なんだって」

「確かに髪は茶色に見えたけど……」

「きっとそうだよ。本当にいるんだねえ、魔法使い」

「魔法で助けてくれたってこと?」

 私が尋ねてみると、ノモはスプーンを持ったまま眉をしかめた。その顔からは既に好奇心は消えている。

「もしかしたら助けてくれたのかもしんないけど……クレス、お礼言いに行ったりしちゃ駄目だよ」

「わかってるよ。司長様に怒られちゃうし」

 私達の信仰しているキスト国教では、魔法は神の作った規則を歪めるとして嫌われている。ノモは不機嫌そうな顔のまま私を見据えた。

「そうじゃなくて。会ったら何されるか分かんないじゃん」

「分かってる。大丈夫だよ、ノモ。会いに行ったりしないから」

「ならいいんだけど……」

 ノモの不機嫌な表情は治らないけど、私達は食事を再開する。あの時見た人が魔法使いで、彼が助けてくれたのならお礼くらいは言いたいと思う。けれど、それが真実なのかも分からないし、わざわざ司長様に怒られてまで魔法使いを探しに行く気はしなかった。


 *


 翌日、私は魔法使いを探しに、教会と街の間に広がる森へ来ていた。外から見るよりは明るい森の中を進みながら溜め息をつく。歩きやすい靴を選んでは来たけど、泥だらけなのは決していい気分じゃない。まあ、自業自得なのだけれど。

 昨晩の消灯の後に、他の人に見られないように、私は図書館で借りた本を静かに広げた。寝台に備え付けの明かりを頼りに題名を確認して――一冊足りないことにようやく気付いた。

 橋を渡ったときに落としたのだろうと思って探してみてもどこにも落ちておらず、まさかと思って湖も覗き込んでみたけど見当たらなかった。自分で買った本ならともかく、図書館で借りた本は諦めるに諦められない。結局、わらにもすがる気持ちで魔法使いを探し始めてしまった。

 探すと決めたはいいけど、魔法使いの家がどこにあるかなんて分からない。適当に進みながら辺りを見回していると、少し離れたところで何かが光るのが見えた。歩調を速めながら光の方へ進んでみる。

「……あれ」

 そこにあったのは湖だった。森の中を歩いている間に方向感覚が狂ってしまったらしい。顔を上げると、そう遠くない所に教会が見える。もう少し進んでいるつもりだったのだけど、この調子だと魔法使いの家なんて見つけられなそうだ。もう一度、大きく溜め息をつく。

「だれ?」

 誰もいないと思っていたところに、不意に声がかけられた。驚きに肩を跳ねさせてから声の方へ振り返る。

 見覚えのある茶色い髪を持った男の子が、水辺に座っていた。好き放題に跳ねている髪は、後ろで一つにまとめられている。何も言えずに立ち尽くす私に、彼は質問を重ねた。

「教会の子、だよね?」

 私が何度か頷くと、彼は座ったまま首を傾げた。

「あれ、もしかして昨日の人?」

「は、はい。あの、昨日本を落としてしまったんですが、見かけませんでしたか?」

 魔法使いなのか、とか、昨日助けてくれたのか、とか聞きたいことは色々あったけど、とりあえずは一番大事なことを尋ねる。彼は首を傾げたまま、少し考えてから口を開いた。

「見てないと思う。昨日の時に落としたの?」

「はい、多分」

 私が答えると彼は目を閉じ、腕を組んでまた考え込む。しばらく無言で待っているとようやく目を開き、立ち上がって服に付いた土を払った。

「探してみるけど、あんまり期待しない方がいいと思うよ」

「あ、ありがとうございます!」

「別にいいって。何て題名の本?」

「え、あ……」

 言い淀む私を見て、彼はまた首を傾げる。私が教会の人間だと分かっているのに題名を告げるのは気が引ける。けれど探してくれると言っているのに告げないわけにもいかず、小さな声で本の題名を口にした。

「植物の進化と起源、です」

 彼は目を丸くして、何度か瞬きをしてから口を開いた。

「教会の人でもそういうの読むんだ」

「いえ、多分私だけ……です」

「ふうん?」

 感情の読み取れない視線を向けられて私は思わず俯いた。けれど目の前に手を差し出されて顔を上げる。

「そういえば自己紹介もまだだね。俺はライア、一応魔法使い。年は十六」

 少し迷ってから、差し出された手を握り返した。

「クレス、です。十六歳で、教会で暮らしています」

「ん。よろしく」

 握っていた手が離れる。男の人に触れるのなんて久し振りで、少し恥ずかしい。

「ところでさ、クレス」

 知らず知らずの内に俯いていた顔を上げると、いたずら好きな子供のような笑顔が私に向けられていた。

「系統と進化についての本なら俺の家にいっぱいあるんだけど、読みたくない?」

 唐突な質問に、私はとっさに答えられなかった。

「え……」

 この誘いを断るべきだと、頭ではすぐに判断していた。「落とした本を探しに行く」と言ってはあるけれど、午後の礼拝まではあと二時間くらいしかない。そもそも魔法使いの家に行っていたことが知られたら司長様に何と言われるだろう。

 それでも私は、彼の提案を断ることができずにいた。どんなに興味があっても学べなかったことが、少し手を伸ばせば届いてしまう。それはどうしようもなく魅力的だ。ためらう私に、彼はもう一度声をかける。

「俺はあんまり読まないし、気に入ったのがあれば借りていっていいよ」

 駄目押しされて、結局私は「じゃあ、少しだけ」と小さく返した。

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