ご褒美(ジャンル:現代ドラマ)

ご褒美

「無い! 無い無い無い無い無い! お金がないわ!」


 夏も近付いたある日の夕方、祖母がまた騒ぎ出した。


「お祖母ちゃん、お財布ならここにあるでしょう? ほら、中身見て? 減ってないでしょう?」

「嘘おっしゃい! なんだいこの五千円札は? 女の人がお札になんかなるもんか! アンタが玩具とすり替えたんでしょ!」


 枕元に置いてあった財布を開いて中身を見せるが、祖母は納得しない。祖母の中では、五千円札は樋口一葉ではなく新渡戸稲造のままなのだ。

 ベッドの上で身を起こしたまま、駄々っ子のように「お金を返して! お金を返して!」とわめきたてている。


 ――祖母がボケ始めたのは、半年くらい前のことだ。

 以前から物忘れが激しくなったり、私の名前を忘れかけたりと兆候はあったけれども、それが本格的に進行したのは冬のこと。

 急激に痴呆が進み、今では、あれほど可愛がっていた母のことさえ分からない始末だ。


 若い頃は教師として高校に勤め、定年後も度々に渡って学校関係の仕事を手伝っていた頭脳明晰の祖母。それが今や、時折火が付いたように「お金がない! 盗られた!」と騒ぎ出すのを繰り返すだけの存在になっている。

 痴呆というものの恐ろしさを、私は嫌というほど見せつけられていた。


「ちょっとアンタ! 節子は? 節子はどこに行ったんだい?」

「お母さんなら仕事に行ってるわよ。いつもそうだったでしょう?」

「仕事……ああ、そうだったねぇ。あんな悪い男に騙されて子供を産まされて、逃げられて……女手一つで娘を育てるんだって頑張ってるんだったねぇ……。全く、不憫な子だよぉ」


 ――母の節子は、いわゆるシングルマザーだ。祖母はそのことを言っているのだと思うが、事実はちょっと違う。

 過保護な祖父母のもとで育てられた母は、非常に奔放な女性だった……らしい。遊び相手の一人だった父と出来ちゃった婚したものの、当然のことながらまともな夫婦生活など出来ず、破局。

 父に逃げられてからは、女手一つで私を育てた――訳ではなく、私は主に祖母に面倒を見てもらっていた。


 祖母は私には厳しかった。

 自分で言うのも何だけど、私は勉強も運動もそつなくこなす方だ。でも祖母は「そこそこの成績」などでは全く満足してくれなかった。

 やれ「最低でも県下で一番の公立高校へ進学出来なければ全部無駄」だとか、やれ「部活なんて全国大会出場くらいしないと箔がつかない」だとか。一番とまでは言わないけれども、常に上位を目指せと、厳しく私を躾けたのだ。


 褒められたことなど殆どない。

 頑張ったご褒美をもらったことも、一度だってない。小学生の頃、「テストで百点を取ったら好きなものを買ってあげる」と言われたことがあったけど、実際に百点を取っても、祖母は何も買ってくれなかった。

 代わりにくれたのは「嘘も方便ってことわざがあるんだよ」という、厳しい言葉だけだった。


 きっと、母を甘やかしすぎた反省も多分にあったのだと思う。

 でも、それを孫の私にぶつけないで欲しかった。母自身にぶつけて欲しかった――今更あの性格は変わらなかっただろうけど。


「……ところで、アンタ誰だい?」

「お祖母ちゃん、私は孫の八重子よ。お祖母ちゃんが名前を付けてくれた……忘れたの?」

「そうかい、アンタも八重子って言うのかい。うちの孫も八重子って言うのよ。ところでアンタ、うちの孫を知らないかい? 小学校に上がったばかりなんだけどねぇ……どこへ行ったやら」


 この通り、祖母はもう私のことを認識出来ていない。

 「八重子」という孫がいること自体は覚えているのだが、祖母の中では私はまだ小学生で――高校生になった今の私と重なることは、決してなかった。


 その割に、普段来てくれているヘルパーさんのことはしっかり覚えているから不思議だ。

 でも、寂しくはない。そもそも私は厳しい祖母のことが、あまり好きではなかったのだから。


「ねぇアンタ、お金を返しておくれよ。こんな玩具じゃなくてさぁ」

「……お祖母ちゃん、だからそれは本物のお金よ? 何年も前にお札が新しくなったの。『ようやく女の人がお札になるのね』って、お祖母ちゃん喜んでたじゃない」

「新渡戸さん、どこへ行ってしまったのかしらねぇ……?」


 祖母はこちらの言うことに反応しているようで、その実ほとんど独り言を言っているようなものだった。

 一応、単語は拾っているらしいのだけれども、祖母の錆びついた脳神経は、無関係な記憶同士を結び付けるばかり。最早、会話に脈絡というものは存在しないらしい。


「ねぇ、お祖母ちゃん。必要なものは私やお母さんが買ってくるし、銀行にはちゃんと預金もあるわ。足を悪くして自力で買い物にも行けないのに、手元にお金を置いておく必要はあるの? ないでしょう?」

「困るのよぉ。お金が無いと、困るのよぉ……」


 祖母は、もう自力では歩けない。ベッドの上で身を起こすのも誰かの介助がいる。

 何か買いたいものがあっても、自力では買い物に行けない。可哀想だとは思うけど、介護しているこちらとしては、徘徊されなくて助かる思いしかない。


「お祖母ちゃん、何か欲しいものがあったら私が買ってくるから」


 こう尋ねると、祖母はいつも何故かだんまりを決め込む。

 言動の読めない祖母の、数少ない確かな行動のトリガーだ。ぐずる祖母を宥める「魔法の言葉」とも言える、私の切り札だ。

 でも――。


「駄目なのよぉ、私が行かなきゃ、駄目なのよぉ! したんだもの!!」


 この日、祖母はいつもと違う反応を示した。


「えっ!? お、お祖母ちゃん、何が駄目なの? 約束って……誰と約束したの?」


 びっくりしつつ、祖母に尋ねてみる。

 こういう反応を示した時は、僅かな確率だけれども、今まで閉じていた何かの記憶の扉が開いている場合がある。ヘルパーさんからそう教えてもらったことがあったのだ。

 出来るだけ相手の話に乗ってあげて、言葉を引き出してあげないといけない。

 果たして、祖母の答えは――。


「キュアプリを……買ってあげないといけないんだよ」

「……キュアプリ?」


 「キュアプリ」というのは、私が子供の頃からやっているテレビアニメだ。

 主に女児に人気がある長期シリーズで、私も小さい頃はよく観ていた。でも、何故キュアプリ? そもそも「キュアプリを買う」だと、だいぶ意味が通じない。

 もう少し言葉を引き出す必要がありそうだった。


「お祖母ちゃん、キュアプリの何を買うの? 誰に買ってあげるの?」

「……。だから、ちゃんとご褒美あげないとね」

「――っ!?」


 「百点を取ったからご褒美をあげないと」――祖母は確かに、今そんなようなことを言った。

 それはつまり、昔守ってもらえなかった私との約束のこと……?


「ところで、キュアプリって何なのかね? 

「……私は八重子だよ、お祖母ちゃん」

「あらそうかい。アンタも八重子って言うのね。うちの孫も八重子って言うのさ――」


 そこから先はまた、いつもの堂々巡りが始まってしまい、祖母は二度と「キュアプリ」という言葉を口にしなくなった。

 ――そしてその半年後、老衰でこの世を去ってしまった。


   ***


「ふーん、そんなことがあったんだね」


 祖母の葬式を無事に終え、お骨と共に家に帰ってきて一息ついた時のことだ。

 私はふと、祖母が口にした「キュアプリを買ってあげないと」「ご褒美をあげないと」という言葉を思い出し、母に話していた。


「う~ん。でもママ、八重子には厳しかったもんね~。百点取ったからって、ご褒美なんてあげるかね?」

「……だよね」


 あの時の祖母の言葉は、かつて私に「百点を取ったご褒美」をちゃんと与えなかった後悔から来ていたのではないか? と思ったものの、何となく疑わしくもあった。母も同じ意見らしい。

 あれはやはり、脳神経の混線がもたらした意味のない言葉だったのだろうか?


「――あっ、でも待った。な~んか心当たりあるかも」

「ええっ?」

「百点取ったらご褒美って、八重子が小一の時の話よね? ああ~……う~ん……もしかすると……」

「え、何? 何か心当たりがあるの?」


 母は眉間にしわを寄せ、何かを必死に思い出そうとしている――いや、この顔は「思い出したものの言いたくない」時の顔だ。

 心なしか、私との距離を少し開けようとしているし。


「お母さん? 思い出したんなら、ちゃんと言って。お祖母ちゃんの御霊前で、嘘は許さないよ?」

「ひぃっ!? ……わ、分かった! 分かったからそんな睨まないで!」


 甘やかされて育った母と、厳しく育てられた私。どちらが強いかと言えば、圧倒的に私だった。

 母は私の眼力に負けて、渋々と言った感じで漏らし始めた。


「え~とね? 八重子が一年生くらいの頃、我が家の家計は火の車だったの」

「ああ、私が小学校に入学した年に、お母さん仕事クビになってたものね」

「うぐっ!? ふ、古傷をえぐらないで……。え、え~とね? だから、あの頃はお母さんお金なくて、よくママに借りてて……でも、ママも当時はそんなにお金なかったから……」


 その話は聞いたことがあった。

 なんでも、私が生まれる少し前に祖父が病気で亡くなったのだけれども、治療費や入院費で、祖母はその蓄えの殆どを使い切ってしまったのだとか。

 祖母が晩年まで学校関係の仕事をしていたのは、老後の蓄えが無かったからだった。


 つまり、母が言いたいのはこういうことか。


「お母さん。それって、お母さんがお祖母ちゃんにお金を借りたせいで、私へのご褒美が買えなかったってこと?」

「もしかしたら、ね。ママが何を買おうとしてたのかは知らないけど、あの手のアニメのオモチャってやけに高いじゃない? だから、もしかしたら、ね?」


 ――真実は残念ながら分からない。祖母はもう逝ってしまった。「生きている内にもっと色んな事を話せばよかった」と今更ながら後悔する。

 けれども、同時にこうも思う。祖母はその本心を、生きている内に明かすことは決してなかったんじゃないか、と。

 祖母はとても意地っ張りでもあった。「お金が無くて約束を守れなかった」だなんて、口が裂けても言わなかったことだろう。


「お母さん……お金がないって、悲しいことだね」

「そりゃあまあ、お金が無かったら生きていけないからね~」


 母と二人苦笑いしながら、骨壺の前に置かれた祖母の遺影に目を向ける。

 遺影の中の祖母は、見慣れたしかめっ面でこちらを見ていた――。



(了)

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