真っ赤なスポーツカーで迎えに行くから(ジャンル:現代ドラマ)

真っ赤なスポーツカーで迎えに行くから

 妻が子供たちを連れて出て行って、もう一ヶ月以上が経つ。

 「子供たちが、伸び伸び過ごせるように」と無理して買った広いマンションも、今は無用の長物。僕一人だけでは広すぎて、余計に寂しさが募るばかりだった。


 妻が出て行った理由は皆目検討がつかない。尋ねようにも直接は会ってくれず、弁護士をよこして「離婚に同意してください」の一点張りだ。

 僕は訳も分からずオロオロするばかりで――当然、離婚届に判も押せず、ダラダラと時間だけが過ぎてしまっていた。


 そう、本当に訳が分からなかった。

 この十年近く、僕は良き夫、良き父親となるべく心を砕いてきたはずだ。


 結婚を機に、趣味だったカーレースをやめた。お金がかかる上に万が一の事故も心配だったから。

 長男が生まれた頃に、愛用の赤いスポーツカーを売り払って普通のコンパクトカーに買い替えた。子供を乗せるには不便な車だったし、二人目も考えていたから当然の判断だろう。

 育児だってサボってきた覚えはない。長男が生まれた時も長女が生まれた時も、僕は育休をとって妻と二人三脚でやってきたつもりだし、育休が明けてからもなるべく家事を分担し、土日は全て家族サービスにあててきた。


 ことさら「イクメン」を気取るつもりはないけれども、世間一般の父親と同じくらいには、その役割を担ってきたはずだ。

 その証拠じゃないが、妻のよこした弁護士も「父親としての貴方に不満があった訳ではない」と言っていた。

 もっとも「だったら何が不満なんだ?」と尋ねても、「それに貴方が気付かないから奥様は離婚を決意されたのです」の一点張りだったんだけど。本当に訳が分からない。言いたいことがあったのなら、はっきり言ってほしかった……。


 この一ヶ月、僕は無為な日々を送っていた。

 家と会社を行ったり来たりするだけで、どこかに遊びに行ったり同僚と飲みに行ったりもしていない。

 帰宅しても、人気のないリビングで特に興味のないTV番組をぼうっと眺めるだけ。何もやる気が起きない。

 休日ともなれば、それこそ食事時以外は引きこもっているような始末だ――ちょうど、今日のように。


「そういえば腹、減ったなぁ……」


 ふと空腹感を覚えリビングの時計を見やると、時刻は午後二時過ぎ。昼には少し遅い時間だ。そりゃあ腹も減るだろう。

 食材があれば自炊するんだが、あいにくとここ数日買い物も億劫になってサボっていたせいで、冷蔵庫の中はほとんど空だ。外食するか、空腹を我慢するかしかない。


「……仕方ない、出かけるか」


 そう口にしてから「そういえば独り言も増えたな」等と今更になって気付き、僕は苦笑しながら出かける準備を始めた。


   ***


 暑かった夏が終わり、いよいよ秋が近付こうとしていた。

 日に日に肌寒くなる中、街では半袖を着た人は殆ど居なくなり秋の装いが増えている。


 マンションからほど近い、駅前の商店街へ向かう。

 今時珍しい活気に溢れた商店街は、今日も人でごった返していた。地方ではシャッター商店街も増えているというのに、全く有り難いことだと思う。


 さて、選ぶのに困らないほどの飲食店が立ち並んでるけれども、何を食べようか? 空腹感はあるけど、実は「~を食べたい」という気持ちが全くと言っていいほど無い。

 ランチタイムも終わって店はどこも空いている。選び放題なんだが……困った、本当に食べたいと思える店が見当たらない。

 ――子供たちと来た時は、店を選ぶこと自体があんなに楽しかったのに。


 結局、そのままどの店にも入る気になれずフラフラと歩き続け、気付けば商店街の端っこの方まで来てしまっていた。

 ここまで来ると飲食店はぐっとその数を減らし、美容院だとか雑貨屋だとか、営業しているのかどうか怪しい古い服飾店だとかが軒を連ねている。

 その更に先、商店街の一番端には小さめの中古車販売店があり、その先はもう住宅街だ。


「……引き返す、か」


 このまま当てもなく歩き続ける、という選択肢もあったけど、流石にそれは止めておいた。

 精神的疲労と空腹のダブルパンチ状態のまま歩き続けていたら、本気で行き倒れてしまうかも知れない。

 仕方なしに、中古車販売店の前まで来たところできびすを返し商店街の方へ戻ろうとした――その時だった。


 所狭しと並んだ中古車の群れの中に、見覚えのあるシルエットを見付けてしまったのだ。


「……あっ」


 思わずそんな間抜けな声が出た。

 中古車販売店の敷地内に並べられた内の一台。それは、長男が生まれた時に僕が手放したあのスポーツカーと同じ車種だった。ご丁寧に色まで同じ赤だ。

 懐かしさを感じ、思わず歩み寄る。


 極端に低く薄い車体。

 ドアは当然、四つではなく二つ。後部座席はとても狭くてろくに足も下ろせないから、「お座敷」なんて言われてた。

 背面にはわざとらしい位に恰好良いリア・ウイング。あれ、バックする時に視界を塞いで、ちょっと邪魔なんだよな……。


 見れば見るほど、僕が手放したあのスポーツカーと瓜二つ。

 細かいオプションまで同じだ。ここまで同じだと、もう僕が手放した愛車そのものだとしか思えない。

 でも、僕が愛車を売ったのはこの店じゃない。もっと別の店だ。それが、流れ流れてこんな自宅近くの店に置かれるだなんて、そんな偶然あるだろうか?


「――お気に召しましたか?」


 突然、背後からそんな声が聞こえてきた。驚いて振り返ってみると、そこにはここの店員らしき中年の男性が愛想の良さそうな笑顔を浮かべて立っていた。


「え、ええ、まあ……。実は、昔乗っていた車によく似てるんですよ。手放したのは八年くらい前なので、違うとは思うんですが」

「こちら、人気の車種でしたからねぇ。オプションもこの構成が人気で……ほぼ同じ構成のを、昔取り扱ったことがありますよ」

「……ですよね」


 そうだ。いくらウイングやエアロパーツの構成が同じであっても、これが僕の愛車だったものだとは限らないんだ。よくある構成、人気の色。ただの偶然の一致だ。

 ――でも、もしかしたら。万が一。


「あのー……」

「はい! なんでしょう?」

「エンジンルーム、見せてもらっても?」

「どうぞどうぞ! 非常に良い状態ですよ! とても二十年近く前の車種とは思えません!」


 言いながら、店員は慣れた手付きでロックを外し、ボンネットを開く。

 中を覗き込むと、なるほど、店員の言った通りエンジンルームの中はとても綺麗だった。きっと前のオーナーが大切に乗っていたのだろう。


「車体の修復歴もありませんから、非常におすすめですよ!」

「なるほど……」


 店員のセールストークに生返事を返しながら、僕は視線をエンジンルームから上へ――ボンネットの裏側へと移していた。

 「あるはずがない」と思いながらも、僕はかつての愛車の痕跡を探していたのだ。

 もしこの車が僕の愛車だったものなら、ボンネットの裏に――。


「あっ――」


 あった。無いはずのものが、あった。

 ボンネットの端っこに、マジックで何かが書かれていた跡が、あった。


「お客様? 何かありましたか? ……あっ、これは……相合い傘・・・・、ですか? 名前までは分かりませんが……あれぇ、気付かなかったなぁ……」


 そう、店員の言う通り、ボンネットの裏の片隅に、ほぼ消えかかった「相合い傘」があったのだ。

 彼はそれを「店の落ち度」だと判断したのか、何やらオロオロしだしたが……とても相手をしていられない。

 何せ、彼より僕の方がずっと動揺しているのだ。


 これは……この相合い傘は、彼女が――妻が書いたものだった。

 まだ結婚する前、付き合っていた当時の僕は物凄い車バカだった。何せ、愛する彼女が自宅に遊びに来ているのに、どこかへ連れて行くでもなく車のメンテナンスに付き合わせていたくらいだ。

 驚くべきことに、当時の僕はそれを「恰好良い」と思っていたのだ。


 でも彼女は――妻は、文句一つ言わず、僕が黙々とメンテンナンスする姿を面白そうに眺めていたのだ。

 そんなことが何度か続いたある日のこと、彼女は突然「ボンネットの裏に落書きしてもいい?」と聞いてきた。

 僕は彼女の意図が全く分からなかったものの、確か「目立たない場所にちょっとだけなら」と返したはずだ。僕の返事を聞くと、彼女はまるでいたずらっ子みたいな表情を浮かべながらマジックで「相合い傘」を書き、そして僕にこう言ったのだ。


『ずっと一緒にいられるといいね――このお車クンも』


 当時の僕は彼女の行動と言葉の意味をよく分かっていなかった。――いや、今も多分よく分かっていない。

 でも、一つだけはっきり思い出したことがある。彼女は、車バカでデートにもろくに行かず、暇さえあれば車のメンテナンスばかりをしている僕のことを好きでいてくれて、結婚までしてくれたのだ。

 普段遣いには不向きな僕の愛車に、「ずっと一緒にいられるといいね」とまで言ってくれたのだ。


 それなのに、僕は長男が生まれた時、妻に相談もせず愛車を売ることを決めていた。

 「当たり前のことなんだから」と自分ひとりで納得して、「本当に売るの?」と尋ねた彼女の胸の内など、考えようともしなかったんだ。

 そうだ、妻はあの時、とても寂しそうな顔をしていた気がする。


 思えば、僕は「良き夫、良き父親」であろうとするあまり、「自分らしさ」をどこかに置いてきてしまった気がする。

 妻と子供が居なくなった途端、家にいてもやる事がなく、ただただぼうっとするだけの日々が続いていたのが、何より証拠だ。

 僕は「夫」や「父親」という役割を演じるのに一生懸命で、いつの間にか「僕」であることをやめてしまっていたのだ。


 でも、妻は違ったんじゃないだろうか?

 「良き妻」「良き母親」でありながらも、彼女は彼女自身であることをやめず、「どうしようもない僕のことを好きでいてくれる彼女」のままでいてくれたんじゃないだろうか?

 もしそうだとしたら、彼女が僕に愛想を尽かした理由は――。


「店員さん」

「はい! いかがいたしましょうか?」

「この車……キープって出来ますか――?」


 ――中古車店を後にした僕は、お昼を食べるのも忘れてある番号へと電話をかけていた。妻の弁護士の携帯電話へだ。

 ややあって、弁護士は無事に電話に出てくれた。


「あー、はい、私です。お世話になっております。はい、はい……いえ、離婚届のお話ではなく、その、やはりもう一度妻と話をしたいと――ええ、ええ、それは重々承知しております。はい、何度もお伺いしましたから。でも、どうかこれだけ、妻に伝えてはくれませんか? 『真っ赤なスポーツカーで迎えに行くから』って。はい、それだけ伝えれば分かると思います。

 ……もし分からないというのであれば、その時はお話を進めさせてください。はい、はい。では、よろしくお願いいたします。はい、失礼します――ふぅっ」


 電話を切り、一つため息をつく。

 弁護士は相変わらず「奥様はお会いしません」の一点張りだったけど、何とか伝言を伝えることだけは約束してくれた。


『真っ赤なスポーツカーで迎えに行くから』


 これは一種の賭けだった。

 もし、妻が出て行った理由が僕の想像した通りだったとしたら、きっとこれで通じるはずだ。

 でも、僕の想像が的外れで、妻が僕に愛想を尽かしたのが全く別の理由だったとしたら……もう僕たちは終わるしかない。


 もちろん、僕の想像が合っていたとしても、きっと妻と仲直りするには時間がかかるだろう。子供たちだって、今回の件をどう感じているやら……。

 全てが完全に元通りになるなんてことも、恐らくない。

 それでも、ここで足掻かなければ、僕は――僕らは全てを失ってしまうのだ。せめて全力を尽くそうと思う。


 そうだな、さしあたっては……久しぶりにマニュアル車に乗るのだから、今からイメージトレーニングをしておこうか。

 長年オートマ車に乗ってたからな。上手くギアチェンジとか出来るだろうか――。

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