良き旅を
征歴1960年12月25日。午前7時過ぎ。
宇宙服を着た俺とイワンは、ロケット発射台に走るバスに搭乗していた。
マイラは、先にロケットに向かった。彼女は宇宙船へ乗るのに特別な調整が必要なのだ。
イワンはバスの最前席に、俺は最後方の席に座る。他には、政府広報のカメラマンがいた。運転手を含めて計4人の車内は静かな緊張に満ちていた。カメラマンはイワンの周囲で、彼にシャッターを切っている。俺を写さないのは、機密漏れを防ぐためなのだろう。
「アニケーエフ中尉、表情が硬いですね。笑顔をお願いします」
「……」
カメラマンの呼びかけに、イワンは答えなかった。
「あの……分かりました」
彼は諦めたのか、もうイワンには話しかけない。
今、笑顔を向けろと言われても、難しい話だ。イワンはきっと、俺が出発した後のことを考えているのだと思う。地上に残る彼には、多くの仕事が待ち構えている。ソフィエスは彼を英雄として喧伝し、世界中を巡らせる。共産主義の勝利、自国の科学技術が世界一であると証明するために。
……やっぱり、俺にそんな役割は無理だ。なので、英雄は皮肉ではなく素直にイワンへ任せたい。
俺は、今日のために心血を注いでくれた人へ報いることだけを考えよう。
この宇宙服を着せてくれたグレゴリィさん、身体検査をしたタチアナ医師、それに、バスの出発時、見送ってくれた打ち上げ基地に勤めるみんなへ。
バスは停まった。ロケット発射台に着いたのだ。
「お二人とも、到着しました。ベ……アニケーエフ中尉、飛行の無事をお祈りしております」
運転手は後ろを向き、名前を言い直して言葉を贈る。
「ありがとう。ここまで無事に送ってくれて感謝する」
イワンは運転手に礼を告げて、立ち上がった。バスの乗降口に向かい、降りる。
俺も立ち、彼の後を着いた。その途中、まだ後ろを見ていた運転手と目が合った。
「……」
俺は、彼に対して無言で頭を下げる。
――ありがとう。
バスから降りると同時に、俺はイワンの影となる。公式上では、マルス・ベロウソフという人物はいなくなるのだ。
それを彼も分かっていて、熱い視線を送ってくれている。今朝から、俺は何十人と同じ目を向けられた。ここにも俺を想う人がいたのだ。
彼らの想いに足は進み、バスを降りる。
降りてすぐの場所に、イワンは立ち停まっていた。
「どうしんたんだい、イワン?」
彼は前方を見上げている。
「今日の空は、きれいな青色だと思ったんだ」
俺はイワンの隣に並び、見上げた。
彼の言うように、本当に美しい空の色だった。
雲ひとつなく、どこまでも澄み渡るあお。
前に、イワンとともに飛行機に乗った時と同じか、それ以上の美しさだった。
いや、空の美しさに上下なんてない。その時見る人の心で、変わるのだ。
「うん。まるで、ソラが俺たちを祝福しているかのようだ。これから、初めて自分の元に人を招く。扉を開けて、待っていると俺は感じる」
「――ふふっ」
イワンは一瞬、俺を驚いた顔で見て、笑った。
「? 何で笑うんだい」
「やはり、君が初めてにふさわしいのかもしれない。それに、バスに乗っている間、考えていた。君に、僕の娘の名を決めて欲しいんだ」
「えっ? 俺が……?」
バス搭乗中、イワンが難しい顔をしていた理由を含めて、驚く。
「そのとおり。妻もきっと喜ぶはずだよ」
「……分かった」
責任重大だ。名前は、その子の一生を左右する。
俺のマルスという名も、父が想いを込めてつけてくれたのだ。
イワンは俺を信じて託してくれた。
だから、今、素直に思った名を贈ろう。
「アクィラ。この名前はどうかな。オロルの使っていた言語で、空の意味がある」
オロルは空を愛した民族だった。彼らの言い伝えでは、空の女神が世界を創り出したという。その空を飛ぶ鳥は、神の使い、自由の象徴とされた。
「やっぱり――君に決めてもらってよかった」
イワンは満足した笑みを浮かべる。
「これで、戻ってくる理由が一つ増えたよ。名付け親になるのなら、その子と直接会わないといけない。それに、今度は俺とマイラの新しい家族に、君から名前を送って欲しい」
「……もちろんさ」
俺たちは互いの目を見つめあっていた。
――願わくば、俺たちの友情が、次の世代にも続いてほしい。
何も言わなくとも、目が語っていた。
「そろそろ時間だ。ベロウソフ、ヘルメットを被り、発射台に歩け」
近くに控えていた空軍の上級士官が俺に指示をする。
発射台の周りには、彼以外にもツナギの作業員、白衣の技術者、同じ軍人が合わせて10人ほど立っていた。
「分かりました」
「少し、待っていて欲しい。マルス、僕はさっきから用を足したいんだ。君はどうだろうか?」
イワンはにんまりと、悪戯を思いついたような顔で誘った。
「は……用って、まさか」
俺は彼の意図を理解する。そのために周りにいる人物たちの顔を伺った。
「そのまさかだよ。飛行中オムツを濡らすのもかっこわるいじゃないか。どうせなら、今、出してしまおう」
俺たちは、宇宙服の下にオムツを履いている。飛行中、用を足したくなった時のために。もちろん、出発前にトイレは済ませた。
「アニケーエフ? いったい、何をするつもりだ。時間は迫っている。余計なことを……」
空軍士官は不愉快な表情を見せていた。
「余計なことではありません。この行為は彼、いえ、私たちにとって重要案件です。貴官の言動が搭乗者への身体に著しい負担となった場合、計画の失敗もありえます。そうなった場合、いかなる責任を……」
「――分かった。私は目を閉じる。……諸君らは、手を貸してやれ」
「さあ、許可も取った。一緒にしようじゃないか」
イワンは周囲を驚かせるほどの積極さで俺を誘う。
バスの右前輪に、俺とイワンは並び立つ。俺は右で、イワンは左に。
何人かに宇宙服、与圧服、下のオムツを脱ぐのを手伝ってもらった。だけでなく、風邪をひかぬようにと、たき火も準備してくれた。
「……うぅ、火があるとはいえ、さすがに、冷える。出したら、固まってしまいそうだ」
この寒さに男二人が下半身を露出するのは、なんとも滑稽だ。しかも、時間に余裕は無いというのに。
「こんなふうにして用を足すのも、昔、弟と二人して以来だよ。村を占拠した帝国兵の戦車に向けてね」
イワンはそんなことはおかまいなしのように、快活に教える。
俺は彼を真面目な優等生かと思っていたが、素はこんな悪童だったのだ。
用を終えて、俺たちはオムツ、与圧服を履きなおす。
「……そういえば、父さんが言っていたよ。お前もいつか、並んで用を足せるような友達ができたら、大切にしろよ。そいつとは、一生涯の友人になれる可能性があるからな。って」
「ユーリさんが……。実は、妻と結婚を決めたのも彼のおかげなんだ。彼女とは、飛行学校時代に交際を始めた。けれども、彼女のお母さんは、僕が将来軍人になることを快く思っていなかったんだ。従軍した夫を亡くしたのが、原因のようだった。それで、学校を卒業して、僕たちは別れた」
「それでも、心の中では彼女のことを?」
「その通り。僕は、彼女を諦め切れなかった。そんな燻りを、ユーリさんは見事言い当てたのさ。彼女のことが好きなら、諦めるなよ。飛行機乗りは、自分の夢と、愛する人、両方を手に入れないとな。と」
「……」
その時の父さんの心情を想像する。
父さんは、きっと自分とイワンを重ねたのだろう。
「彼の言葉に奮起した僕は、彼女と、お母さんに宣言したよ。僕は世界一の飛行士になる。絶対にあなたたちの元に戻ります。……あの時の、二人のあっけにとられた顔は、今でも覚えてるな。まあ、その後は上手くいって、結婚に至ったわけさ」
「だから余計に男の子が産まれたら、名前をユーリに」
「うん。妻もユーリさんには感謝をしていたから……」
「やっぱり、すごいな……改めて思うよ。肉体が失われても、人は死ぬわけじゃない。意志、魂は引き継がれていく。遥か過去より、現在、そして、遠い未来へと。その結果が、あのロケットなんだ」
俺はロケットを見る。
数億年前、海から陸に上がった始まりの者。ソラへ行く。その意志は繋がっていった。幾億もの失敗、挑戦を経て。
「……泣いているのかい?」
「あ……うん。俺の意志も、誰かに引き継がれるのかなって」
「当たり前だろ。僕、クルスク、エヴァ、みんな、君とマイラによって成長できた。他の候補生たち、中佐も影響を受けている。君たちが生きていた証は、消えることはない。いや、生きていたなんておかしいな。これからも、あり続けるんだ。生きていく限り」
「――イワン、ありがとう。やっぱり、君は俺の兄さんだ」
「マルス。帰ってくるんだぞ。僕はもう、弟を喪いたくない」
俺たちは抱き合って、互いの耳元に「良き旅を」と囁く。
これは、ソフィエスに伝わるまじないだ。
旅立つ者に祝福を。遠く離れても、あなたのことを想う。という祈りを込めた。
親友であり、兄でもあるこの人ならば、俺の意志をみなに伝えてくれる。
だから、安心して旅立つことができるのだ。
再び、会えることを信じて。
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