理想と現実

 喫茶店を飛び出したエレーナさんを追って、俺は百貨店を走り回る。

 エレーナさんは意外と足が速い。くわえて、人の多さに行方が分からなくなってしまった。

 これはまずい。もし百貨店の外に出てしまったら、時間内に見つけるのはほぼ不可能だ。

 それならばと機転を効かせて、先に出入り口に向かおうとした。

 全力で駆け、俺は正面出入り口に着く。すると、その付近で言い争いをしている二人組がいた。

 もしやと思い、俺は二人に近づく。

「離して! わたし、ここから出て行きたいの! あんな人のいる所から少しでも遠くに」

「エレーナお嬢様、落ち着いてください」

 予想通り、一人はエレーナさんだった。もう一人は彼女をお嬢様と呼んでいる。つまり、彼女の関係者だ。

「エレーナさん!」

「マルスさん?」

 俺が呼びかけると、エレーナさんははっとこちらに向き直す。

「良かった……追いついて。店外に出たら大変でしたよ」

「マルス・ベロウソフさんでしたね。エレーナお嬢様に何の御用ですか?」

 エレーナさんの元に近づこうとする俺に、関係者が阻む。

 黒の短髪で、中性的な声と顔、背が俺よりも高く、上下黒のスーツを着ていた。

 その外見から、男か女か分からなかった。

「あなたは?」

「失礼。私、カティアと申します。ブレジネワ家の旦那様よりエレーナお嬢様のお世話を仰せつかっている者です。貴方の側に控えていた者がいたように、私もいたのですよ」

 カティアと名乗ったエレーナさんのお世話係は頭を下げる。名前から、女性なのだと俺は判断した。

「そ、そうですか……。ともかく、貴女が引き留めてくれたおかげで、助かりました。エレーナさん、クルスクは本心で――」

「マルスさんっ!」

 突然、エレーナさんは俺の胸に飛び込んだ。

「……え、エレーナさんっ!?」

わたくし、わたし……う、う~……あ、あああああ――!!」

 続けて、彼女は泣き出してしまう。

 かなりの大声なので周囲の人は足を停め、俺たちを見る。

「あらら、こんなところで女を泣かせて……男から別れ話でも持ち出されたかね」

 勘違いではあるが、微妙に合っている話が聞こえる。

 この状況は困った。目立つし、いらぬ誤解を招いてしまう。

「こうなるとしばらく泣き止みません。一旦外に出ましょう。私、車を持ってきますので」

 カティアさんは冷静に俺へ解決案を出してくれた。

「は、はいっ」

 俺はその案に乗り、エレーナさんを連れて、百貨店の外に出る。

 エレーナさんをなだめすかしながら待ち、数分が経った。俺たちの元に黒色の大型車が近づき、停まる。運転席には、カティアさんがハンドルを握っていた。

「お二人とも、後部座席にお乗りください」

 窓を開けて俺たちを誘う。

「ええ。エレーナさん、車に乗りますよ。大丈夫ですか?」

「……」

 エレーナさんはこくりと頷いた。

 ドアを開け、俺は左側にエレーナさんを座らせた。続けて、俺は右側に。

 内部はゆったりとしていて、席の座り心地もすごく柔らかい。さすがは有力政治家の車だ。これだけの高級車を持てるのは、人の多い首都でも限られているだろう。

「お嬢様、どこに行かれますか?」

 カティアさんは行き先を尋ねる。

「……どこでもいいです。でも、家は嫌。今は戻りたくないの」

「じゃあ……俺の前に住んでいたアパートに行ってください。場所はこの首都の南西、スタールィ地区の八一番地です」

「分かりました。お任せください」

 カティアさんは俺の指示を了承してくれた。

 車は発進し、俺のかつての住み家に向かう。


 三十分後、車は目的地に辿り着く。首都の南西、スタールィ地区に。

 高層建築がそびえ建つ中心部と違い、未だにこの区域には平屋の木造住居が並ぶ。今でこそ鉄筋コンクリートの建物が一般的になったが、戦前にはほとんどがこのような木造建築だったのだ。

 戦後、首都は時の第一書記により急速な近代化が勧められた。戦勝国である共和国の繁栄を国内外に知らしめるためだ。さらには、戦争によって疲弊した同志たちを鼓舞するという理由もあった。

 その目論見は成功し、多くの都民は次々に建つ高層建築に住居を移した。そこには、戦災で家、家族を失った地方の人々も。おかげで、現在、首都の人口は戦前より五割増しになっている。

 しかし、首都の急激な変化を受け入れられない者たちもいた。家族の思い出が残る家から離れたくない者。戦後、自分の居場所が見つからない者……など。

 俺がここで生活していたのは、後者に近い理由だったからだ。

 全てを諦め、首都に流れ着いた俺は、この場所の空気に惹かれたのだと思う。

 この区域に訪れるのは、今年の五月以来七か月ぶり。辺りを見回せば、良い悪い、どちらの意味でも変化は無い。

「マルスさん、こちらでよろしいのですね」

 車をアパートの前に停めたカティアさんが俺に聞く。

 ここまで彼女は何の迷いも無く車を運転していた。この辺りの道は複雑で、初めての人は大抵迷うものだが……。

「ええ。この二階建てのアパートです。カティアさんはこの辺りを訪れたことが?」

「いえ。ただ、ブレジネワ家の車を預かる者として、首都の地形を隅々まで頭に入れるのは当然のことでございます。そうでなければ、お嬢様にご迷惑をおかけしますからね」

 カティアさんはさらりと答えた。

「す、凄いですね……。では、カティアさんもアパートに着いてきますか?」

「私は車で待っております。この辺りは治安が良いとはいえませんからね。車をしっかりと見張っておかないと。だから、しっかりとお嬢様をお願い致します。ただし、不埒なことは考えぬように」

 カティアさんは最後の言葉を強く言って、じっと俺を見た。

 たしかに、車の周辺に住人たちが集まっている。ここでは珍しい高級車が停まっているためだ。

「分かってますよ。エレーナさんは俺が護りますから」

 クルスクの婚約者を傷ものなんかにできるわけがない。

 俺は車から降り、エレーナさんを車外に誘う。

「エレーナさん、着きましたよ。気をつけてくださいね。貴女にとっては初めて見るものも多いと思いますが」

「はい。構いませんわ」

 エレーナさんははっきりと答える。

 良かった。大分調子は取り戻したようだ。

 彼女の手を引いて、アパートに向かおうとした。その矢先、杖を持った中年の男が俺に話しかける。

「よぉ、マルス。しばらく見ないかと思ったら、随分と立派な格好になったじゃねえか。しかも、そのお高そうな女は……ヒヒッ」

 エレーナさんをねっとりと見回し、下卑た笑い声を出す。吐く息は酒臭かった。

「やめろ。この人はあんたの想像とは全然違う人だ。あっちに行け」

 俺は男を手で払う。この男とは互いを知っているが、仲は良いわけではない。

「んだぁ? お高くとまりやがって。ついこの間までは同じ穴のなんたらだったくせによ!」

 彼は逆上し、唾を跳ばす。

「……行きましょう。時間の無駄です」

「……え、ええ」

 俺たちは男を無視してアパートへと歩く。

「ま、待てよ! おい――うわっ!」

 背後の男から、悲鳴と派手な音が聞こえた。

 振り返れば、彼は前のめりに倒れている。

「ちっくしょう……いてぇ、この足さえまともなら、俺だってよお……」

 男は自分の右脚をさすりながら呻いていた。その足首の先からは、無い。

 彼は傷痍軍人だ。戦争で右足を失った。

 それ故に、復員後、まともな職にも就けなかった。と、耳にした覚えがある。

「……」

 このまま見過ごすのも悪い気がして、俺は男を起こそうと思った。  

「大丈夫ですか?」

 その前に、エレーナさんが彼の元に寄る。

「……構わないでくれ。あんたみたいな人が俺に近づいちゃいけねえよ。……すまねえな」

 男はエレーナさんの親切を断り、自分で立ち上がった。その後に小さく謝罪して。

 彼はとぼとぼと俺たちの前から去って行く。

「……私、あの方に悪い事をしてしまったのでしょうか」

「エレーナさんが悪いわけじゃないんです」

 この場所には、彼のような人物は他にも大勢いる。

 彼らがまともな社会生活を送れない理由は、体の傷だけではない。心の傷もだ。彼が失ったのは、足だけではないのだろう。家族、友、愛する人、誇り、自信といったあらゆるものを。

 戦後、彼のような人物は各地をさまよっていた。父さんも同じだったと思う。

 戦争の後遺症に悩む者たちに対して、政府は補償を約束した。しかし、現状は今、目にした通りである。

 富の分配と平等を謳う共和国の理想と現実。

 遠くに見える高層建築と、目前に並ぶ木造建築が、それをよく表している。

 俺は、大いに矛盾を感じるのだ。

「驚いたでしょう? ここには、彼のような居場所を無くした人たちが多いんです。俺も、かつてはそうでした。父、夢を失い……ここに」

「……話には聞いたことがあります。戦後、満足な補償を得られない方たちがいる。私は父に尋ねました。どうして何もしないのですか? と。……お前は何も分かっていないと一蹴されました」

「みんながみんな無気力になったわけじゃありませんよ。俺の養父も戦争で家族を亡くしましたが、再び夢を取り戻せたんです。お金や物じゃない……何か、きっかけがあれば、きっと――」 

 俺だってマイラと出会い、生きる意志を持てたのだ。

「きっかけ――」

 それを聞いて、エレーナさんは自分の左脚を見る。

「行きましょう。ここにいるとまた絡まれるかもしれません」

 俺はエレーナさんの手を引き、アパートに入る。

 まず一階の管理人室に行って、自分の元使っていた部屋を空けてもらおうと思った。すると、入ってすぐに目的の老年の男性、管理人に会った。

「おお、君はマルスじゃないか。久しぶりだね。どうしたんだい?」

 突然の来訪にも彼は柔和な顔で迎えてくれる。温和な性格で、身ひとつでここに流れ着いた俺に住む部屋を提供してくれた。

「はい、お久しぶりです。突然で申し訳ないのですが、俺の元いた部屋ってまだ空いてますか? 空いていたのなら、使いたいんです」

「君の部屋? ああ、それなら……今はが使っているな」

「え? あのいわくつきの部屋を? それに、せんせいって、医者? 教師?」

「教師……みたいなものかな。一か月ほど前からここに来て、今は子どもたちに勉強を教えているんだよ」

「そうですか……」

 管理人さんは俺の時と同じように、素性を問わずにその人物を住まわせたのだ。

 彼は俺とエレーナさんを見て、何かを察したような表情になる。

「ふむ。何やらわけありのようだ。他の空き部屋を使いなさい。お嬢さんも良いかな? なにぶん、わしと同じで古くさい建物でね。温かさは補償できんが」

「いえ、お心遣い、感謝致しますわ」

「ありがとう」

 エレーナさん、俺は管理人さんに頭を下げる。

 俺は彼から二階の部屋鍵を受け取り、階段に足を乗せた。

 同時に、上から誰かの階段を降りる音が聞こえる。

 それを聞いて、思わず足をひっこめる。先程管理人さんも言った通り、年季の入った建物だからだ。三人も同時に踏めば、板が抜けてしまう可能性もある。 

 なので、俺たちは階段を降りる人を待った。 

 足音が近づき、その人物の姿が見える。瞬間、俺の目は奪われた。

「あ――」

 その人は、顔を包帯で覆っていたのだ。

 まるで、怪奇映画に出る包帯人間のように。





 


    

  


 

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