切ない雨の日には、タイムスリップでも

相有 枝緖

第1話 大雨の日、切なく思い出したら

夕湖ゆうこは、大雨の中を歩いていた。ずっと使っているから古くはなっているがお気に入りの傘をさし、足元は履き慣れたパンプス。スーツではないが、これは仕事柄スーツが必須ではないからだ。

夏の終わりに買ったトレンチコートは濡れてほしくないので、オフィスに置いたままだ。代わりに、いつも仕事中に着ているカーディガンを羽織ってきた。昼間なら、雨が降っていてもこの格好で寒くはない。

まだ勤務時間のはずなのに、内勤の夕湖がこんなところを歩いている理由は、新入社員ちゃんにある。今年入ってきた彼女は、非常にしっかりものに見えて、意外とうっかり屋さんなのだ。10月に入り、営業として一人立ちすることになって1週間、さっそくやらかしたのは資料忘れ。しっかり机の上に置いてあったそれを、近くまで届けに来たのだ。


資料を受け取ると、新入社員ちゃんはペコペコと頭を下げ、急いで客先へ向かった。どうやら、数件梯子するために複数資料を準備して、そのうちの一つを忘れていたらしい。たまたま、手持ちの仕事をひと段落つけていた夕湖が、配達人の役割を任された。

駅前のビルで資料を手渡した後、夕湖はそのまま別の駅へ向かって歩いていた。少し歩くが、地下鉄の方が空いていて、会社の最寄り駅が微妙に近いのだ。ほんの10分程度のことだし、と雨の中歩くことにした。そのあたりの道をよく知っている理由は簡単だ。近くに、夕湖が通っていた高校があったのだ。


そうそう、この辺を歩いてたのよねと思い、ふと気が向いて、足を高校の方へと向けた。駅からは少し遠ざかるが、時間は余裕がある。唐突なお使いを終わらせたのだから、ちょっとくらい寄り道しても構わないだろう。

しばらく歩くと、校舎の上部と緑の葉がビルの間から見えた。思い起こせば、都会にある学校だが、敷地内には緑が多かった。思い出しながら正門の前にたどり着いて見上げると、少し古くなっているように感じたが、すべてが当時のままだった。

正門からゆるくカーブを描く坂道も、その両側を縁取る桜も、桜の葉の向こうに見える白い校舎も、すべて中学3年のときに見学に来て「ここに通う!!」と決めたときのように、柔らかく包容力のある雰囲気のままだった。

立ち止まっていると、胸に何か込み上げてくるような、温かいような、辛いような、チクチクするような、抱きしめたいような不思議な感覚がした。


「切ない……」


そう、切ない。

楽しかった思い出と、戻れない現実と、戻りたい気持ちと、でもあれが過去だから今があるという事実と、キラキラした当時と比べると幾分くすんだ現在、もっと頑張れたのにと思う後悔。様々な記憶と思いが交錯し、夕湖は思わず傘を握りしめた。

「もっと、クラブとか行事とか頑張ったらよかったのかな」

もちろん、当時の自分はそれなりに頑張っていた。それでも思ってしまうのは、過去のことだからだろう。なによりも。

「高校生らしい、周りを見ないような真っすぐな恋愛、したかったなぁ」


思い起こせば、「いいな」と思う人はいた。けれど、恋愛にはつながらなかった。あえて言うなら、物理の先生が好きだったが、あれは憧れだ。実際に付き合いたいとかそういうものではなく、ああいう人と一緒にいられたらいいな、という類のもの。理想が見えただけで、あの人が良かったわけではない。もっと人に踏み込むような付き合いは、当時から苦手で一歩引いてしまっていた。それは今でも変わらないけれど、若ければ勢いでできたんじゃないだろうか。

ため息が出そうになって、ぐっと唇を噛んだ。


雨が、傘を打つ音で煩い。


しばらく佇んでいると、一瞬、周りが真っ白になった。


遠くで、何か大きなものが割れるような音を聞いた気がした。けれど、それよりも全身が一瞬で痺れたような衝撃があり、思わずぎゅっと目を瞑った。







そうっと目を開けると、雨はまだ降っていた。全身の痺れは収まり、なんとか両手で傘を持ったまま立っているらしい。

「――ちゃん、夕湖ちゃん、ねぇ。大丈夫?」

目の前には、高校生のときの友人がいた。確か、山岡藍やまおか あい、夕湖はアイちゃんと呼んでいた。彼女は、高校の紺色のセーラー服を着ていた。見下ろせば、自分もセーラー服だ。左胸のポケットに、校章と学年のピンが付いており、これによると今は2年生らしい。足元は、父親に強請った記憶のあるローファー。

「う、あれ、うん……。ううん、なんか、そう、立ちくらみ、みたい」

とりあえず、ここは無難に切り抜けた方がいいように思う。さっきと同じだか新しい傘がふらつき、雨が当たって冷たいし、ローファーは濡れていて足先が冷たいし、遠くに車の音が聞こえるし、雨のにおいもするし、視界も夢のように狭くない。こんなはっきりと五感を感じるなんて、現実だとしか思えない。

訳が分からないから、とにかく落ち着ける場所へ行きたい。

「帰れそう?お母さんとかに電話して迎えに来てもらう?」

一瞬そうしようかと考えたが、確か高校生のころ、母はパートに出ていたように思う。やっと子どもたちの手が離れたから、ちょっとお小遣い稼ぎして遊ぶのよーとかなんとか言っていたのを覚えている。そして、仕事が面白くなってしまって、夕湖が大学に入るころには正社員にランクアップしていた。

「ううん、大丈夫。早めに帰って、家で寝る方が良さそう」

「うん、そうした方がいいよ。今日は宿題もないし、ゆっくりできるよ」

それはありがたい情報だ。


訳が分からず、体の奥からくる震えを抑え込みながら、足を進める。

ありがたいことに、藍とは路線が同じで、夕湖の方が先に降りる。だから、乗り換えで迷うこともなく家に帰りつくことができた。とはいえ、案外30歳になっても通学路は忘れていなかったのだけれど。


家に着くと、案の定誰もいなかった。確か、部活の後だと母の方が早く、部活のない今日のような日は夕湖の方が早かった。とりあえず、風邪気味だから部屋にいる、とメモを書いて1階のリビングに置き、2階の自室へ入った。

見覚えのある、淡いピンクを中心とした部屋。ベッドも机も、就職で一人暮らしを始めるのを機に捨ててしまったから懐かしい。まずは、個人的に違和感しかないセーラー服を脱いで、長袖のTシャツとジーンズに着替えた。リビングに置いてあった新聞から、今日が高校2年の年の10月15日であることが分かっている。放課後のクラブ活動はたまたま無かったらしい。所属しているのはほそぼそと続く合唱部。文化祭で合唱を聞いて感動し、1年の途中で入ったときには、3年生の6人、2年生はおらず、1年生は夕湖1人という弱小っぷりだった。どうにか友人を巻き込んで、1人合唱部になるのは免れたのだ。藍も巻き込んだ友人の一人だから、さすがにサボってはいないはずだ。

自分の部屋のカレンダーを見ると、10月の21日から4日間、修学旅行と書いてあった。どういうチョイスなのか、熊本県へ行ったのだ。思ったよりも楽しかった記憶があるから、あれはとても良い思い出だ。


混乱しているせいか、過去の記憶がつらつらと出てきて、考えに集中できない。

見知った部屋にいることで、少しは落ち着いたが、過去の自分になっているらしいことだけしか分からない。何故こうなったのか、本当の過去に戻っているのか、夢なのか、戻れるのか、このままもう一度すべてやり直しなのか、さっぱり分からない。

分からないなら、とりあえず受け入れるしかなさそうだ。

明日、学校を休むのは選択肢になかった。もし、本当に過去に戻っているなら、将来のことを考えて欠席は避けたい。そうではなくて夢なら、過去の自分を楽しみたい。寝て起きたら30歳に戻っている可能性もあるけれど、だからといって好き勝手するのは夕湖の性に合わない。よく言えば真面目、悪く言えば融通が利かない性格は、昔からそのままだ。


時間割を確認して、教科書やノートを揃えて鞄に詰める。制服も、一度タオルで拭いてから、ブラシをあててきれいに整えた。そして気になったので、煩雑な部屋を片付けることにした。社会人になって一人暮らしを始めてから、ようやく片付けが習慣化したのだ。それまでは、かなりの汚部屋の住人だった。そして、片付いた部屋に慣れると、もうこれが快適で、元には戻れなくなった。

もちろん、水回りのカビだとか、Gのつくアイツだとか、髪の毛の毛玉だとか、そういったものと一通り格闘してからのこと。片付けが当たり前になると、彼らとはおさらばできた。そんなわけで、あまりの散らかりように耐えられずに片付けだしたのだ。



「ちょっと、風邪ひいてるんじゃなかったの?」

いつの間にか帰ってきた母が、夕湖の部屋の扉を開けて驚いたように言った。一人暮らしをしてからたまにしか会わなくなった母より、ずっと若い。

片付けに夢中になってしまい、玄関のドアの音に気付かなかったらしい。でも、おかげで及第点を与えてもいいくらいには片付いた。

「うん、なんか寝てたら気になっちゃって……動いてたら、しんどいのもなくなってきた気がするから、風邪じゃなかったのかも」

「そうなの?どっちにしても、風邪なら入らない方がいいけど、違うならお風呂に入っちゃいなさい」

そういえば、昨今は「発熱などで体力が落ちているのでなければ、風邪をひいていても入浴した方がいい」という風潮になっていた。しかし夕湖が高校生だったころは、まだ風邪なら入らないのが常識だった。

「うん、ちょっと肌寒いし、あったまるね」

「そうしなさい」

お風呂は洗ったうえで沸かしておいてくれたらしい。


嬉しい反面、なんとなく申し訳ない気持ちになりながら風呂を出ると、母は夕食を作っていた。リビングのテーブルの上にはいつのまにか取り込まれた洗濯物があり、朝刊は片付けられ、父が読めるよう夕刊はダイニングに置いてあった。

なんという至れり尽くせり。もはや申し訳なさで身が縮こまりそうだ。

罪悪感をなくすため、夕湖は家事を手伝うことを決めた。当時どうしていたかはあまり覚えていないが、作られたおかずをお弁当に詰めたり、頼まれれば風呂の掃除、夕飯の準備の手伝い程度のことはしていたように思う。けれど、一人暮らしを何年もしていたから分かる。あれは爪の先ほどの「お手伝い」でしかないではないか。小学生じゃないんだから、と夕湖は洗濯物を畳むために手を伸ばした。先に帰れば、夕刊や洗濯物を取り込んだり、米を研いで炊飯器にセットするくらいのことは簡単なはずだ。なんなら、夕飯を作ったっていいだろう。

固く決意して、自分の洗濯物を自室の引き出しにしまい込んだ夕湖は、1階のリビングに降りた。両親と姉の洗濯物は、それぞれ部屋に置き、タオルなどは洗面所に片付けた後だ。

「珍しいこともあるものね、だから大雨なんじゃないの?」

からかうように言う母は、けれどもとても嬉しそうだった。


夕飯の味噌汁は、あまりに久しぶりな母の味で、思わず泣きそうになるのを必死にこらえた。

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