堕天の星

あきの

第1話


 なにごとにも期待せず、執着しないことが上手く生きるコツだと香夜子(かやこ)は思っている。

 情婦のように熱に心を燻(いぶ)されることは、とても耐えがたいものに思えてならなかった。

 ままならぬことに振り回される人を見ると、(そんなに一点ばかり見ないで。ほら、あれもいいじゃない。こだわらなくたって、素敵なものはあなたのまわりに溢れているわ)と、肩を抱いてあげたい気持ちになる。しかし、情熱の前ではそんな言葉など無意味だと知っている香夜子は、「ええそうね、わかるわ」とおだやかに頷くのみである。

 朔矢(さくや)の瞳は、そんな、ままならぬ恋人を、手の届かぬ俳優を語る友人とよく似ていた。

「姉さん、僕と結婚して」

 蜂蜜色の瞳にある熱を受け止めかねて、香夜子はあいまいに微笑(ほほえ)んだ。

「どうしたの? この前、可愛らしい女の子を恋人だって紹介してくれたじゃない。その子とはどうなったの?」

「何年前の話をしてるんだよ。もうとっくに別れた。それに、あの子とは告白されたから付き合っただけで、そんなに好きじゃなかったんだ」

「まあ。でも付き合ってもいいと思うくらいには好きだったんでしょう」

「意地が悪いな、姉さん。僕は昔から姉さん一筋だよ。あわよくば嫉妬してくれればいいと思って付き合っただけなんだ」

 馬鹿正直に答える朔矢の傲慢さを、香夜子は辛(から)がった。

(自分を守るための棘がどんなに相手を傷つけるかなんて、この年の子は思いもしないんだわ……)

「僕が姉さんを好きなのと同じくらい、僕のことを好きになってよ……香夜姉さん」

 テーブルの上に置かれた香夜子の手を取って朔矢は哀願する。弓と刀を握る手はところどころ固くなっている。武骨で大きな男の手だ。幼い頃に手を引いた時は小ささと柔らかさに驚いたのに。守らねば容易く手折(たお)られてしまうと、香夜子はそのもろさが恐ろしかった。

 香夜子と朔矢は乳(ち)きょうだいである。香夜子の母が朔矢の乳母だった。第二皇女の女房だった母を、第二皇女自身がぜひ弟の乳母にと推薦したことが、奇妙なきょうだい関係の始まりだった。

 おくるみに包まれた朔矢が邸(やしき)に来たとき、香夜子はまだ十歳で、実の弟のように扱ってくれ、との皇帝の頼みを素直に受け入れることができた。とくに世話好きでも子ども好きでもなかったが、ねえしゃま、ねえしゃま、と紅葉のような手を伸ばされて悪い気はしなかった。

 幼年の男の子らしく甘えん坊な朔矢の一方で、香夜子は早熟で変わった子どもだった。

 幼学校のクラスメイトがままごとに夢中な時も教室の隅で植物図鑑を呼んでいたし、映画の若い俳優が素敵だとさわぐ友人の声を聞きながら、白髪ばかりの老俳優のしわをいとしく思っていた。外見にも無頓着で、同級生の間でマガレイトが流行ろうが顎より先に髪を伸ばしたことはなかったし、繊細なレースの半襟やハイカラな文様の銘仙が流通しようが、母譲りの古くさい袴ばかりを着て登校していた。学校を卒業してからはめりはりのないワンピースに白衣ばかり重ねている。小柄でグラマラスな香夜子の体型に合わせて馴染みの仕立て屋で誂(あつら)えているので、けして安物ではないのだが。

女学校を入学するころには錬金術に手を伸ばしはじめていた香夜子を、知人はおしなべて変人だと言った。香夜子の話を嗤わずに聞いてくれたのは、母と邸の使用人、それから朔矢くらいだった。

『姉さんの話は面白いよ。同級生の話はつまらなくて困る』

 香夜子が成人して間もないある日、朔矢はそう言って笑った。

 十二を迎えた朔矢はもう皇居に住まいを移していたが、侘(わ)び住まいを懐かしんでか、ひんぱんに香夜子のもとを訪れていた。

『あら、じゃあ朔矢が面白くしなくっちゃ』

『僕が? でもあいつら、馬鹿なことばかりして笑ってるんだ』

『わかるわ。私もそう思っていたもの。でも自分だけが賢いと思っている子は見ていて痛々しいものよ』

 姉らしくたおやかに答えながら、香夜子は必死だった。夜ノ国(よのくに)の皇子たる人間が、変人と言われ、世俗を離れて研究にあけくれている自分のようになってはいけない。

 香夜子の思いを汲んでくれたのか、朔矢は考えを改め、同級生を見下すのではなく、自分のもとにけん引する道を選んだ。その頃の学友とは今でも続いているようだ。

 朔矢は香夜子の目交(まなか)いで、聡明でうつくしい男性に成長していった。

 現人神である父親譲りの銀糸の髪と蜂蜜色の双眸は儚く神聖な印象をもたせるが、ひとたび口を開けばその太い声で紡がれる利発な発言に誰もが印象を改めるだろう。そのくせ、香夜子の前では甘えた姿を見せるのだ。可愛いったらない。

 朔矢が魅力的な人間であることに間違いはない。しかし結婚となると話は別である。だいたい、朔矢はまだ十九なのだ。二十八の香夜子と結婚を決めるのは早計という他ない。


 香夜子はカーテンを払って窓をあけた。鎧戸(よろいど)を開くとすずやかな空気が部屋に入り込んでくる。ここ数日でだいぶ気温があがってきた。日の昇らない夜ノ国では昼間にならないと川霧に湿ったように空気が冷えていて、夏以外はとてもじゃないが窓をあけられない。

 隣接する昼ノ国(ひるのくに)から漏れる太陽のご相伴に預かり、西の空は薄明に照らされている。東の空にはぽつぽつと星が輝いていた。夜ノ国は東にいけばいくほど暗くなるが、暗くなればなるほど見事な星空が見られるという。寝台列車を使った東方旅行が巷で流行っているらしいが、香夜子には興味がない。

 庭には的場がある。月の神は弓の神でもあり、夜ノ国では狩猟がさかんなので、資産家の家に的場があることは珍しくない。朔矢はよくそこで矢をつがえていた。

 十五の頃より兄皇子について帝都に出没する悪鬼を討つ部隊に所属している朔矢は、実戦でめきめきと腕をあげ、今では王に次ぐ射手である。

『鬼を討つのと動物を狩るのは勝手が違う?』

『森で狩る動物はほとんど草食動物だからさ、逃げるんだ。鬼は向かってくるもの。そのくらいの違いかな』

『怖くはないの?』

『平気だよ。姉さんみたいにぬけてないからね』

『ふふ、生意気』

 香夜子は今でも気まぐれに弓を引くが、狩りをしたことはない。それより朔矢のうつくしい構えをみるほうが楽しかった。

 あれからそんな毒にも薬にもならない回想ばかりしている。

 香夜子は窓枠に背を預けて室内を見渡した。部屋のすみにある天鵞絨(びろうど)のソファは朔矢のお気に入りで、そこで本を読むのが日常だった。亡き父の仕事部屋を譲り受けた研究室は十畳ほどの小さな部屋だが、秘密基地のような雰囲気が香夜子は気に入っていた。蚤の市で見つけたすすけた天秤やフラスコが並んでいる姿は浪漫(ろまん)だと密かに思っている。錬金術の本が詰め込まれた本棚に、まちまちに父の詩集が並んでいるのもいい。きちんと整理されたものより、そういう隙のあるものが香夜子は好きだった。

 部屋の中は天井から吊るされた白熱電球の他に、ところどころカンテラで照らされている。闇と仄かな明かりを愛する夜ノ民(よのたみ)は強い光源を好まず、こういう明かりの使い方をする。

 部屋の中には、香夜子の他にイナミとウルキという名の少年少女がいる。ふたりは机の前に座って、すり鉢で岩を砕いたり、ハーブのエキスを抽出したりとそれぞれの作業に没頭していた。

「朔矢に求婚されたわ」

 にわかに香夜子が言うと、イナミとウルキはそろって顔をあげた。きょうだいのように似たふたつの面輪が香夜子に向けられる。

「そりゃめでたいな。式はあげるんだろ?」

「おめでとうございます」

 イナミは外見に似合わず低い、ウルキは鈴を転がしたような声で言った。

「まだ返事はしていないのよ」

 香夜子が言うと、

「なんだ。若い男をもてあそぶもんじゃないぜ、博士」

「大切なことですもの。ゆっくり悩んでください、博士」

「ふふ。そうね、ゆっくり悩んで早く決めるわ」

 イナミとウルキはたいてい正反対のことを言うが、これでいいコンビなのである。ふたりは香夜子が錬金術師(アルケミスト)を名乗るようになってはじめて錬成したホムンクルスだ。家の仕事と研究の助手、それから護衛のためにつくった。名前は夜ノ民の多くがそうしているように星からとった。香夜子の血と、知り合いの使用人、母、朔矢のほか様々な武人の血が入っていて、思惑通りの多才なホムンクルスに仕上がっている。

 錬金術は渡来してまだ日が浅い、ヨーロッパ生まれの学術で、西欧の現人神(あらひとがみ)、ヘルメス・トリスメギストスを始祖とし、金属から人間の肉体、果ては魂までもをより完全な存在に錬成することを目的としている。その性質からなかなか大和の国には馴染まないが、錬金術師でなければ請け負えない仕事も少なからず増え、母のつてを頼りに、宮内庁や民間から細々と依頼を受けて食いつないでいる。今日は久しぶりに鬼討伐の部隊から大量の霊薬の依頼があったので、缶詰になっていたところだった。

「でも、何故いきなりあんなことを言い出したのかしら。結婚を急かされる歳でもあるまいし。イナミ、男同士なにかわかることはない?」

「さあな。博士に男の影でも見つけて焦ったんじゃないか?」

「私に? まさか」

 香夜子は男性と付き合ったことがない。身持ちがいいと言えば聞こえはいいが、ようはモテないのである。

「あながち間違いじゃないかもしれません。博士、最近すごくきれいになりましたから」

 もちろん前からきれいでしたけど、とウルキは早口に付け加えた。

 ふうん、と香夜子は気のない返事をした。

「そういえば、母さまも三十ぐらいから急にモテはじめたって言ってたわね。結婚したのもそれくらいだって」

 宮内庁式部職の芸術家だった父は、詩人会に出席した第二皇女に付き添っていた母にひとめ惚れしたのだ。

 父は母にも香夜子にもたくさんの詩を残してくれた。中でも香夜子が一番印象に残っているのは、父が亡くなる直前、香夜子の九才の誕生日に描いた肖像画に添えられた詩だった。


 紺青(こんじょう)の濡れ髪は夜ノ国の空

 まなじりのあがった双眸は気高き猫

 しろがねの瞳は綺羅星(きらぼし)

 唐紅(からくれない)のくちびるは新雪に落ちる椿

 きみはわたしの光

 きみはわたしの星


 「わたしの星」という言葉に、香夜子はずいぶん助けられてきた。変人と嗤われても、何度も練って練って提出した論文をあしらわれても、父の星という名に恥じないように踏ん張れた。父の言葉こそ、香夜子の星だった。あの頃は。

(いまの私の星は朔矢なんだわ)

 ふいに香夜子は思った。

 朔矢のことを思うと誇らしい気持ちになる。なさけない姿は見せられないとぴんと背筋が伸びる。

(求婚はきちんと断ろう)

 朔矢にはもっとふさわしい人がいる。彼のとなりに並ぶのは私ではない。夜ノ国の皇族の名に恥じない、素敵な女性がきっといることを伝えるべきだと思った。


 大学に通いながら、朔矢は宮内庁の帝都警邏(けいら)課に所属している。宮内庁は緑豊かな皇居敷地内にあり、薬の納品に足を運んだ香夜子はあらかじめ朔矢とアポイントメントを取っていた。

 ネオバロック的構成の宮殿と比べると、宮内庁はずいぶん簡素な洋館に見える。ここの雰囲気は落ち着くと、香夜子は来るたびに思う。

 朔矢が通したのは小さな客間だった。ゆったりとした深紅のソファと白いテーブルが置いてある。テーブルの上には華奢なティーセットがあった。

「護衛はいい。半刻ほど暇をつぶしてきてくれ」

 部下にそう告げて、朔矢は扉を閉めた。

 仕事中の朔矢は詰襟のダブルボタンタイプの軍服をまとっている。口調も甘えた要素は一切なく、邸の姿とのあまりの差に最初は驚いたものだ。

 朔矢は手ずから紅茶を淹れると、香夜子と並んでソファに座った。その近さに少しためらったが、朔矢は気にするふうでもないので香夜子は距離を置こうとあげかけた腰をおろした。

「話ってなに? 姉さん」

「求婚のお断りにきたのよ。早いほうがいいと思って」

「ふうん」

 朔矢は気を悪くしたようすもなく言った。

「姉さんは僕がきらい?」

「好きよ。大好きよ。でも朔矢と同じような気持ちは抱けないの。ごめんなさい」

 香夜子はせいいっぱいの気持ちで頭を下げた。

「そう」

 朔矢はにわかに香夜子の体をソファに押し付けた。

 香夜子はびっくりして身をよじる。蜂蜜色の目は獲物を見つけた鷹のように鋭くて、悪戯が成功した少年のように意地悪かった。ちゅっと香夜子のまなじりにくちづけて、朔矢は口の端を吊り上げる。

「大丈夫だよ。僕が僕のことをもっと好きにしてみせる」

「そういうことじゃないのよ……」

「姉さん、僕のそばにいて。僕も姉さんのそばにいたい」

 朔矢は香夜子の体を押さえつけたまま、うすい肩に額を擦りつけた。

 こういうことをされると香夜子は弱いということを、朔矢は熟知している。こういう時の朔矢はねっとりとした重い熱をまとっていて、それに絡めとられると身動きが取れなくなるのだ。

 香夜子はすぐには答えられない。

 朔矢の腕時計からちっ、ちっ、と秒針が動く音が聞こえる。

「……どうして」

 絞り出した声は震えていた。

「どうして私なの?」

「理由がわかれば、姉さんは僕のものになるの?」

 熱を帯びた蜂蜜色の瞳と、戸惑いに揺れるしろがねの瞳が交じり合う。

「理由なんてわからないよ。気付いた時には姉さんが好きだった。研究に没頭している姿も、しっかりしているように見えて意外にぬけてる姿も、ときどき変な創作料理を自信満々で出すところもぜんぶかわいい。ぜんぶが好きなんだ」

 迷いのないまっすぐな好意が香夜子を戦慄(わなな)かせる。

 たけだけしい熱に身を焼かれる思いだった。耐えがたくすえ恐ろしい。

 香夜子が腕から抜け出すのを朔矢は許さなかった。腕をつかんでいた手がゆっくりと背中にまわる。耳に息がかかって、香夜子は飛び上がりそうになった。熱に翻弄されるのをきらって身をよじる香夜子の耳元で、朔矢は言った。

「姉さんは僕の星だった」

 香夜子ははっと息をつまらせた。

「最近大量の霊薬の注文があっただろ。あれは僕の隊で使ったんだ。部下が怪我をした。優秀な奴だったんだ。鬼の討伐には危険が伴うなんてことわかっていたつもりだったのに、あいつがあんな怪我をするなんて思ってもみなかった。そしたら急に怖くなったんだ。姉さんも僕の知らないところでいなくなるかもしれないって」

 密着した朔矢と香夜子の体は、ぴったりとあるべきところへ嵌(はま)ったみたいだった。細身に見える朔矢の体は意外とがっしりとしていて、しなやかな弾力がある。セクシュアルな魅力に、香夜子は年甲斐もなく熱がのぼってくるのを感じていた。

「星は見ているだけでよかった、手に入れようなんて思いもしなかった。でも見えなくなるなんてことも思いもしなかった」

 朔矢はおもむろに拘束を解いて、大きな両手で香夜子の頬を包みこんだ。

「だから傍で守らせて、姉さん。姉さんがいないなんて僕は耐えられない。姉さんが誰かのものになるなんて許せない」

 ずっと守っていた扉を惜しげもなく叩いてくる音に、香夜子はドッドッと心臓を高鳴らせる。すべすべとした感触を楽しむように、骨ばった手の甲が香夜子の白い頬をすべって、指先がくちびるに触れた。びくりと肩を震わせた香夜子に朔矢はくすりと笑った。

「怖がらないで……」

 押し付けるように、柔らかいくちびるがそっと重なった。口付けは短かった。互いの湿り気でくっついたくちびるが少し遅れて離れるのが、離れがたい気持ちをあらわしているようだった。

「……逃げないの?」

 平然とそんなことを聞いてくる朔矢が憎らしい。

「知ってる? キスができる相手となら、それ以上のこともできるんだって」

「どこで覚えたの、そんなこと」

「姉さんが付き合ってみろ、っていった悪友から」

「……選択を間違えたかしら」

 などと軽口を叩きながら、香夜子は内心してやられた、と降参を認めていた。

 怖がるな、と言われたとき、核心を突かれた、と思った。

 父を喪(うしな)った事実は、香夜子が思っているよりも鋭利な刃となって香夜子の柔いこころを傷つけたらしかった。香夜子の前では気丈にふるまう母がいたいたしく、香夜子はしばらくのあいだ、母と一緒にいるのをいやがった。母がようやく浮上の気配を見せたころ、見計らったように朔矢が邸にやってきた。母は朔矢の世話に夢中になった。香夜子も朔矢の笑顔にかなしみを埋められた気がした。

 しかし父を喪った時の母の姿は、香夜子の胸にしこりとなって残った。もちろん香夜子も父の死を悼んだが、それよりどこか遠くを見る母の瞳が恐ろしかった。

 香夜子は今もまだ喪失感に怯える子どものまま立ち止まっている。

「狡い男になったわね、朔矢」

 邸の居間に飾られたあの肖像画を朔矢は知っていたはずだ。香夜子があの詩を大切に思っていたことも、あれを引き合いに出されれば、たちまちが無防備な子どもに戻ってしまうことも。

「はは。姉さんがそれを言う? 僕の気持ちを知っていながらずっと見て見ぬふりをしていたくせに」

「……そうね」

 私は朔矢のためを思って無視していたのよ、とは口が裂けても言えなかった。

(自分を守るための棘で傷つけていたのは私のほうかもしれない)

「求婚を受けてくれるんだね? 姉さん」

「もう、だって仕方ないじゃない」

 香夜子の言葉は自分に対する言い訳だった。

 仕方ない。だってにわかにいとしく思ってしまったのだから。

 しかし、そこにはしたたかな打算もあった。

 朔矢は現人神の血を引いている。神の愛は深く、傲慢だ。香夜子は自分に向けられる深い愛情を目ざとく嗅ぎ取っていた。朔矢はこれからもずっと香夜子を愛し続けることだろう。さりとて香夜子は同じ愛情を朔矢には返せない。これからもずっと、期待せずに執着せずに生きていくのだ。朔矢がおのれから離れる素振りを見せても、淡々とその手を離すだろう。生き方を容易に変えられないくらいには、香夜子は年嵩だった。これは香夜子だけの秘密だ。

 せめて自分から裏切ることはしないでおこう。

 こころはあげられない代わりに、ぬくもりは惜しみなく与えよう。

 狡い女には狡いなりのいつくしみ方があるのだ。

 朔矢がおもむろに顔を寄せてくる。香夜子はまぶたを閉じて、身を焼く熱を受け入れた。

 


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堕天の星 あきの @maiaxiii

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