番外編「ビヒトの里帰り」9
ビヒトの顔を照らす小さな明かりと、ふよふよと宙を漂う水の塊。それが口元を濡らし、また宙で待機する。カルトヘルは楽しそうに小さな容器からクリーム状の物を取り出した。指先にとって、ビヒトの鼻の下へと塗りつける。
剃刀を持ち直すと、カルトヘルはぺろりと唇を舐めた。
「動くなよ」
肌を伸ばすように添えられる指も、充てられる剃刀の刃も優しくて、ビヒトは言われた通りにおとなしくしていた。
他の事をしていても、カルトヘルの作り出した光も水も揺らがずにその場にとどまっている。小規模とはいえ、別々のことを平行に行えるのはやはり才能だなと感心するけれど、使いどころは間違っている気がしないでもない。
手際よく、じょりじょりと小気味いい音を立てて作業はすぐに終わった。そこに浮いていた水が待ってましたとばかりに鼻の下を撫でていく。
ビヒトがもういいかと起き上がろうとすれば、カルトヘルはその肩を押さえつけた。
「まだだ」
顔を近づけて剃り残しを確認し、仕上げのクリームまで塗り終えてから、ようやくカルトヘルはビヒトの上から退いた。
一歩引いて満足気に笑むと、細々したものを片付けて光と水も消してしまう。闇が戻ってきて、カルトヘルもシルエットだけになった。
「ずいぶんお上手ですね?」
「う、うるさいな。いいだろ。別に。スッキリしただろ?」
「久しぶりになくなったので風邪をひきそうですよ」
「偉そうなんだよ。ヴェルのくせに」
「いい歳なんですから、見た目くらい好きにさせてくださいよ……」
「うるさい。弟は黙って兄の言うことを聞けばいい」
「横暴な……」
ふふん、と鼻で笑って、カルトヘルは出て行った。
さすがに何もかも面倒になって、ビヒトはそのまま布団を巻き付けるように引き寄せた。もうこれ以上のことは起こるまいと、睡魔に身を任せてしまう。
翌朝。
身支度をしてユエを起こしに行けば、ドアを開けた彼女がビヒトの顔を見て固まってしまった。ビヒトが少し首を傾げれば、小さく呟きが彼女の口からこぼれ出る。
「……ひげ……?」
そこで気が付いて、ビヒトは自分の口元に手を当てた。つるりとした肌の感覚。ああ、と苦笑して肩をすくめる。
「ちょっとした、事故といいますか。過激な愛情といいますか……」
「えぇ? 夜の間に何があったんですか? あ、でも、若返りますね! 無いのも素敵です!」
「ユエ様に褒められたので、良しとしましょうかね……伸ばそうと思えば、いくらでも伸ばせますしね」
「しばらくはないままでいいですよ!」
そう言うと、ユエはするりとビヒトの腕に自分の腕を絡めた。
「こうしたら、恋人同士に見えますかね?」
「ユエ様?」
窘める声を出せば、ユエはぺろりと舌を出す。
「だって、いい男は見せびらかしたいものですよ? こっちにお爺さん連れて、両手に花したいなぁ」
反対の腕も見えない腕に絡めるようにして、ユエは笑った。それからすぐに腕に手を添えるだけにして、神妙な顔を作る。
「そうしておけば、変な人たちも近づいてこようなんて思わないでしょう? でも、カエルが見たら怒りそうだから、エスコートしてもらうに留めておきますね。よろしくお願いします」
分ってるような、分かってないような、強かなユエには苦笑しか出ない。
「ではお嬢様。テーブルマナーまで厳しくチェックさせていただきますね」
「え!? あ、たんま! 待って! そこは優しくお願いします!」
笑いながら食堂へと赴けば、皆の視線が口元に集まって痛いほどだった。それを見てカルトヘルがにやにやしている。何か察したヴィッツが呆れた顔をするのも、歳は重ねていてもなんだか懐かしい空気で。変わっていくものの中に変わらぬものを見たようで、ビヒトはふと表情を和ませた。
帰りにはヴァルムとガルダが揃って迎えに来た。
玄関先で父も兄たちも一目見て動きを止めていたけれど、当のガルダは気にした様子もなく、一人一人と最後にビヒトを順番に覗き込んでニッと笑った。
「なるほどな。来て良かった」
そのまま踵を返してしまったが、咎める者は誰もいなかった。
「もう。挨拶くらいしなさいって言ってるのに」
ユエの声にも皆は苦笑を浮かべるだけだった。
ヴァルムが説明するかのように答える。
「不要だと場が理解したのよ」
「そうなんですか? 魔法使いってやっぱりすごいのかも! お世話になりました。おじ様も機会があったら遊びに来てくださいね」
綺麗な礼をとったユエの何気ない言葉に、ヴァイスハイトは目を細めた。「おじ様」とは、またずいぶん気安く呼ばせているものだ、と少し可笑しくなったが表には出さないでおく。
「遊びに、か。そうだな。暇もできたことだし。リリエ、一緒に行こうか」
「え? 父上、書類上引退されたとはいえ、長期国を空けられるのは……」
「情けないことを言うな。俺に任せろと言えないでどうするのだ」
「父上の穴はそうそう埋まりませんよ。途中で暗殺されたりしないでくださいね」
本気なのか冗談なのか、ユエが「余計なことを言ったかも」という顔で見守っていたので、努力の甲斐もなく、ビヒトの口元は緩んでしまった。
用意してくれた昼食を抱えてのんびりとカゴを放置した場所まで戻る。
ガルダは待ちくたびれたというようにカゴを背に座り込んで、鞄から菓子をつまんで食べていた。
「あれ? ガルダ、それどうしたの?」
「もらった」
「誰に?」
ガルダがビヒトに視線を流したので、ユエもビヒトを見る。
「あー。昨夜酔い覚ましにちょっと散歩して……」
「ガルダと?」
ビヒトがにこりと笑えば、わかったような顔をされてふぅんと見つめられた。
「ビヒトさんが一緒だったなら、変なものじゃないのね。ガルダ、知らない人からもらったものは気を付けないと。毒が入ってたら困るでしょ!」
「そうだな。ユエの分は俺が毒味してやろう」
「何気に人の分まで食べようとするのやめて」
ヴァルムが喉の奥で笑いながら荷物を積み込んでいく。ついでのように、ガルダに訊いた。
「なーにを話してきたんだ? お前さんにしてはおとなしくて心配になるわ」
「大したことじゃない。動けないのは不便だろうから、力と眷属を貸してもいいと」
「随分太っ腹じゃねぇか」
「代わりに旧い話を色々聞かせてもらった。面白かったぞ。失われた魔法の話とか」
ガルダがビヒトを見ながら指を鳴らすと、ビヒトのこめかみの辺りで何かがバチッとはじけた。
少しのけぞって、ビヒトは唖然とガルダを見つめる。
「相性は悪くないが、扱いは難しいな。飼いならせるといいんだが」
新しいおもちゃを手に入れたように、ガルダは上機嫌に笑う。
「え。なにそれ。今のやつ? 静電気みたい。なんの魔法?」
「あいつに聞け。よく知ってるはずだ。時間も充分あるだろう……というか、ユエは本質を知ってるんだな。そういうところが、侮れないんだ」
ガルダはひょいとユエを抱え上げると、そっと大きなカゴの中へとその身を下ろした。壊れ物を扱うように、丁寧に。
ビヒトを振り返り、ふふんと挑発的に笑ったガルダは、そのまま巨大な鳥の姿へとその身を変えていく。
「おぅおぅ。お前さんとこの
「……そっちで話がついたんなら、いいんだろう」
人の間では禁忌でも、主同士は違うのかも。そう思うしかない。そして、たぶん、ユエが生きているうちは、ガルダは無茶なことはしない。少しの不安と、少なくない期待が湧いてしまったことに自分でも驚きながら、ビヒトは早く早くと手招きするユエの待つカゴに乗り込んで行くのだった。
ビヒトの里帰り・おわり
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