番外編「帰郷」2

「……しんど……」


 礼拝堂の椅子にようやく腰を下ろせたのは、とっぷりと日も暮れてからだった。

 ばね細工のように飛び起きて、母さんは医者を迎えに走ってくれたけど、結局主教様は助からなかった。


「お疲れ様」

「母さんも」


 盆に乗ったお茶を受け取って、隣に座った母さんにちょっと掲げる。やっぱり老けたな。皺が増えた。なんて口に出したらしばかれそうだったので、黙って茶を口にする。


「ジョットのおかげであれこれスムーズに済んで助かったぁ。下手したら、夕礼拝まで誰にも気づかれなかったかもしれなかった。最近、朝晩冷え込むのが堪える、なんて言ってたんだよねぇ。中央の方にも連絡付けられたし、お手柄!」

「まあ、偶然だけどね。少しは早く変わりの人来てくれるんじゃない?」

「みんなはジョットがしばらく代わりをすると思ってるみたいよ?」

「勘弁してって」


 クスクス笑われて、すっかりぼさぼさになってしまった髪をさらにかき乱す。着替える暇なんてなかったからしょうがない。一部の人には本当に神官だと思われてた。


「……じゃあ、どうしたの? それ」


 少し眩しそうに目を眇めて、母さんは僕を……僕の神官服を改めて見つめた。


「今、お世話になってる主教が、水浸しになった僕に着替えを貸してくれたんだよ。そうしたら、似合うからくれるって。帰って母さんを驚かせてやれって」

「……うん。驚いた。……驚いた……ねぇ、その主教様って……」


 好奇心旺盛な母さんには珍しいことに、少し訊くのを躊躇ったのがわかった。


「よく手紙に書いてるでしょ。名前は出したことなかったかもだけど……テル・ルーメン主教。色々噂も多い人だし、心配かけたくなかったからあれだけど……最近は――まあ、上手くやってる、かな」


 母さんは敬虔な信者で、前総主教猊下に本当に心酔していたらしい。現総主教猊下には不敬なことだけど、何度愚痴を聞いたかわからないくらいだ。そんな風だから、前総主教猊下が亡くなった顛末も、彼女なりに一通り情報を集めたらしく……実は黒幕だという噂のあるルーメン主教の話も、当然知っていると思われた。


「そう、なの……そう、だったの……」


 だから、彼の名を聞けば、またひとしきり爆発するかとも思っていたのだが……うっすらと涙ぐんでうつむく姿に、拍子抜けしてしまう。


「母さん? 噂ほど、酷い人じゃないよ? そりゃ、強引で呆れることも多いけど」

「うん。大丈夫。。お世話になってるなら、いつかご挨拶しないとね」

「あ」

「え?」


 そうだ。もうひとつ話すこと、あったんだった。あー。でも、この流れでは言いたくない。

 何よ、と不思議そうに瞬いた母さんに、どう誤魔化そうかと思案して、結局一番訊きたかったことを尋ねてしまうことにする。


「フェエルって、誰? さっき、母さんもそう言いかけたよね?」


 バッと、母さんは人一人分くらい僕との間を開けた。


「な、な、な、なんのことかな?!」

「誤魔化すの下手すぎ。別に母さんの不倫相手とかでも文句は言わないから、この際はっきりさせて――」


 今度は飛びつくように戻ってきて、両手で口を塞がれた。その体制で、辺りをきょろきょろと確かめている。誰もいないって。

 その手をどけさせて、しっかりとその目を覗き込む。


「僕の父親の名前ってことで、合ってる?」

「い、言わない……ど、どこから出てきた名前? 珍しい名前でもないデショ」


 もう! 強情なんだから。珍しくはないけど、ありふれてもないんだけど。


「今は主教様くらいしか聞いてないんだから、教えてよ。別に迷惑をかけようとか、思ってないし」

「今になって何?! 何度も教えたじゃない。中央の神官で、聖水配分に来た人。結婚は出来ないけど、誠実な人だったから煩わせたくないの!」

「今だからっていうか。主教様にも訊こうと思ってたんだ。こんなことにならなければ……何をそんなに隠したいの? もう子供じゃないんだし、知りたいだけだよ。ここを出た頃は、そりゃ、少しは顔を見たいとか思ったこともあったけど。主教様も巻き込んで頑なにって、ちょっと異常だよね?」


 台の上で難しい顔で眠っているかのような主教様を仰ぎ見て、ふと、押し付けられたものを思い出した。胸ポケットに押し込んで忘れてた。

 取り出したものを見て、母さんも眉を顰める。


「何ソレ?」

「判らない。多分、僕にって。主教様が。あの時、誰かと勘違いしてたみたいだったから」


 朦朧とした意識で、誰と間違ったのか。

 手の中にあるのは、小さな鍵だった。



 * * *



 父さんのことはいっとき保留にして、僕はそれがどこの鍵なのか探すことにした。主教様の日記でも出てくればいいと思ったんだ。


「ちょ、ちょっと、ジョット。勝手に。まずいんじゃない?」

「母さんも知らないってことは、秘密の鍵ってことでしょ。他の人がいないうちの方がいいじゃない。まずいと思うなら、帰っていいよ。主教様は僕が見てるから」


 母さんは子供のころからこの教会を手伝ってきた。ソラで祝詞が唱えられるほどだ。その彼女が知らないものなんて、そうあるわけがない。

 正式に送りが済むまでは、死体に悪いものが入り込まないように見張りを立てるのが習わしだから、父親、あるいは祖父のように慕っていた僕がそれを引き受けるのを誰も否と言わないだろう。

 中央からか、一番近い隣町の教会からか、葬儀のために主教以上の神官が来るのは、どんなに早くても明日の夜になるはずだ。通常、無理をしてまで田舎の葬儀に駆けつけることはないので、下手すると三日後くらいになることもある。

 頭の中で計算しながら、ゆっくり探せるのは今日明日だと舌なめずりする。


「ちょっと名の通った人と懇意だからって、無茶するのはやめてよ? ただでさえ、総主教猊下直通で報告するなんて、心臓止まりそうだったのに」

「直通なのはルーメン主教。僕が通信具を借りたのはルーメン主教と連絡を取るためで、それも彼が彼の用事を僕に肩代わりさせたからで。葬儀はともかく、何日も礼拝できない事態にはしておきたくないでしょ。馬を走らせるよりだいぶ早く片付くんだから。それとも、母さんが代わりに礼拝する?」


 母さんなら祝詞を上げるくらいできそうで、僕はおどけて促した。


「ばっ、馬鹿言わないでよ。ひとりでお祈りするくらいならいいけど、みんなの前では無理!」

「なら、黙ってて。秘密の一つ二つ増えたところで、どうってことないデショ」


 むぅっと口をつぐんだ彼女に背を向け、まずは事務室の目に付く鍵穴に順番に突っ込んでみる。机も違う、金庫……も違った。戸棚もダメ。鍵付きの書物もいくつか見つけたので合わせてみたけど、どれも開かなかった。

 部屋を移動して同じことを繰り返す。もっとも、鍵穴自体そんなに多いものではなかったけれど。


「だめか……目に付く場所は、これで全部かな?」


 一通りを試して、次に場所を絞り込んでみる。物を隠すなら、離れた場所より身近な方が安心のはず。事務室か自室か、礼拝堂。


「母さん、よく掃除してたでしょ。どこかで鍵穴見かけなかった?」

「え? 特に……穴開いてたら、気になるし」


 結局気になるのか、一緒に探してくれた母さんもお手上げのようだ。うーんと腕を組んだら、腹の虫が鳴き声を上げた。


「……そういえば、夕飯食べ損ねてたね。おかみさんの店、まだ開いてるだろうし、なんか作ってもらってくるよ」

「暗いし危ないから行くなら僕が行くよ」

「別に大丈夫よ。いつものことだもの。少し休んでなさい」


 笑って母さんはさっさと踵を返してしまう。行動力だけはピカイチなんだから。

 一緒に行ってあげたかったけど、主教様を一人残すわけにもいかない。仕方なく僕はもう一度礼拝堂の中をくまなく調べてみるのだった。




 しばらくして、ひそひそと何か話し声のようなものと人の気配がしたので、床に這いつくばっていた僕は顔を上げた。そろそろ今日最後の鐘が鳴る。母さんが誰か連れて帰ってきたのだろうかと、少しだけ眉を寄せた。

 すぐに扉は押し開かれ、冷たい風が吹き込んでくる。


「すみません。主教様は不在で。ご用は承れないかと……」


 立ち上がり、言いかけた僕の目に、青みがかった銀の髪が風になびくのが飛び込んできた。




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