番外編「あなたと共に」7
帝都にいるほとんどの時間は、挨拶回りのようなことをしていた。
ヴァルムさんが決めてきた契約や買取りの顧客に顔合わせをして、あわよくば次の契約や新規の獲得に繋げたい。僕が外回りも出来れば、ヴァルムさんはもっと遺跡に潜る時間や冒険者の仕事を増やせる。
……というのが彼の言い分だけど、多分、金持ちの相手が面倒になっただけの気もする。その気になれば貴族相手の作法も全然問題ないのに、肩が凝ると嫌がるのだ。気持ちは解らないでもないけど。
滞在中の部屋はヴァルムさんの行きつけの酒場のマスターに借りている。
そう広くもない一室で、ベッドも一つしかないのだが、ヴァルムさんはあまり部屋にいないから「ソファを空けておいてくれればいい」と言って譲らない。いつもどこにいるのか、香水の匂いを纏ってくる時もあるので、女性の知り合いも多いのかもしれない。
最初のひと月こそ一緒に行動していたものの、それが過ぎると週に一度顔を合わせればいいくらいになっていた。
「そろそろ慣れたろう? ランクも気楽にやれや」
ニシシと笑って、甘ったるく名前を呼ぶ女性と出掛けていく。
そういえば、休みをもらった最初の目的は僕もそういうつもりだったなと思い出して、苦笑した。
月に一、二度とはいえ、テリエルに付き合わされていると、どうもそういう気になれない。彼女は気にしないかもしれないけど、変な噂が彼女の重荷になってはいけないと思ってしまう。
最初の頃こそ観光のようなことをしていたが、すぐに図書館に通うのが定番となっている。彼女が本当に勉強のためにここにいると分かるのだ。
まさに、その図書館でのことだった。
たまたま人の少ない奥まったキャレルが空いていたので、静かな方が集中できるだろうと彼女を座らせた。残念ながら隣は埋まっていたので、僕はオープンスペースの机の端に陣取る。少し身体を伸ばして傾ければ、棚の向こうに彼女を窺える席だった。
古美術史の本など見つけてぱらぱらと繰っていたけれど、文字ばかりだとやはり飽きてしまうな。目の前に本物があるときの高揚感と言ったら。もっと挿絵があるものはないのかと棚を舐めるように探して戻ろうとしたとき、テリエルを呼ぶ声が聞こえたような気がした。
棚を回り込んで彼女のいるキャレルが見える位置に移動する。一見、変わりなく見えた。もう少し近づくと、隣のキャレルに若い男性がいて、椅子を引いたまま彼女の方へと身体を向けているのがわかる。小声で何か話していた。
テリエルが反応する様子がないので放っておこうかとも思ったのだが、若者は本を見るでもなく彼女に話しかけ続けるので、僕は手近な棚から化学書と思われるものを一冊取り出して、わざと足音を立てながら彼女に近づいた。
「テリエル。探していたのはこれだったかい?」
彼女の前に差し出した本を一瞥してから、彼女は振り返る。明らかにイラついていた顔は、一応笑顔の形に作られた。
「ありがとう。違うけれど、これも見てみるわ」
「おや。その本ではまだ早いのでは。まだ授業はそこまで進んでない」
鼻で笑うような声で自信たっぷりにそう横やりを入れられたけど、テリエルは初めてそこに人がいると気づいたように大げさに瞬きをした。
「あら。あなたもいらしてたの。間違ってないわ。前回探していたのはこの本ですもの。今は、もう少し先のが良かっただけ」
「僕はその方面には強くないから。ごめんね。テリエル」
「いいの。いつもありがとう」
隙のないお嬢様スマイルで微笑まれて、別人だなと本気で笑いそうになるのをこらえる。
そんなやり取りを面白くなさそうに見ていた彼は、ふと、思いついたように口角を上げた。
「ねえ、君。どの方面なら、強いのかな? その本を手にしているということは、歴史? 絵画? その家の特徴も出るよね。楽器は何か?」
きょとん、とした僕に余裕で笑う彼は、明らかに年上の僕を下に見ているようだった。僕の手にあるのは古代芸術の資料。趣味の内容で家格を量ろうというのだろうか。かなりのお坊ちゃんなのかな。僕は別にどうでもいいのだけど、テリエルはどうしてほしいのだろう。
彼女を窺ってみれば、「うるさいから早く追い払って」というオーラを全身から放出していた。
「僕などどれも中途半端で。お話したいなら、外へ出ましょう? 他の方へ迷惑にもなる」
「なに、少しくらい。ここは奥まっているし。好きな曲などありますか?」
物理的に追い払おうと思ったのは失敗したらしい。ここで大衆の耳にできる某宗教の讃美歌など答えたら、してやったりなんだろうな。音楽や声を閉じ込めて何度も再生できるような奏音器は本当に金持ちの道楽だ。楽器を持って友人と演奏を楽しむのもなかなかに金がかかる。
あの家なら暇に任せて楽器を習得するくらいはできそうだけど、そんな優雅な趣味の御仁はそういえばいないな。ビヒトさんなら、できるのかな。まあ、彼らなら狩猟が趣味ですと堂々と言えるのだろうけど。(実際は趣味ではなくて食料確保のためだ)
考えるそぶりで余計なことまで思い浮かべている僕をテリエルが少しだけ心配そうに見る。
ふっと息をつくと、できるだけ申し訳なさそうな顔を作ってみた。
「最近のものにはうとくて……」
彼の口元がそうだろう、と笑みを深めるのを見てから続ける。
「知っているかな? 数は多くないけれどとても透明な曲を書くメイーユ・ドノバンという古い作曲家がいてね。彼は曲だけでなく楽譜もとても美しいんだ。触れたら崩れそうな古いものだけど、それがまた曲のイメージと重なって……」
数小節口ずさんでやれば、上がった口元がひきつった。
「な、なるほど! うちの爺やと話が合いそうだな。もちろん、絵画や彫刻にも造詣が深いのだろうね」
「見る専門だから、技術云々はよくわからないけどね。ヒュッキローネの幾何学的で洗練された筆致は好きだな。あとは昔ながらの写実的な作風だけど陰影が印象的なミラノスクとか。彫刻ならやっぱり女性を柔らかく表現するストラチーノかな。デルロザは斬新すぎて僕にはわからない」
玄人好みそうなところを上げていけば、彼の表情はだんだんと苦虫を噛み潰しているようになっていく。
「そんなものに詳しくても、見ての通り狩猟なんかはからっきしで、肩身が狭いのだけどね」
彼の得意そうなことも上げておいて微笑めば、逆に嫌味と捉えられたようだった。
彼は仏頂面ですくっと立ち上がるとテリエルに軽く礼をする。
「お騒がせした。とても楽しかったよ。また学校で」
彼の背中を見送ると、空いた席を指差して、テリエルは笑いをこらえながら言った。
「ここに来て。ランク。もう邪魔が入らないように」
僕は黙ってそれに従って、ややしばらく机に伏して背中を震わせている彼女に抗議した。
「別に、貴族ぶったわけじゃないよ? 僕には
「音楽は? どうしてそんな曲を知っていたの?」
「言ったじゃない。楽譜だよ。現物もレプリカも意外と売れるんだ。他にも何人か楽譜の残っている作曲家がいるんだけど、その中で一番有名なやつを答えただけ。仲良くしていたお客さんが、こういう曲なのよって弾いてくれたことがあるんだ」
「彼、あなたをずっと疑っていたから、良かったわ。もう、文句はないんじゃないかしら。ランクなら、お茶会に連れて行っても大丈夫そうね」
「やめて。セールストークになっちゃうから、嫌がられる」
「じゃあ」
と、彼女は積んでいた本の中から一冊を僕に差し出した。
「これで女心を勉強して?」
からかうような笑み。渡されたのは流行りの恋愛小説だった。参考書の山にこんなものが混ざっていたなんて。
本当に僕をお茶会に同席させる気はないと思うけど、勉強してと言うからには、こういうのが彼女の好みなんだろうか。
気が付くと、シリーズの全てを手に取っていた。少しきわどいシーンもある砂糖菓子のような大衆小説。
甘い言葉を覚えても囁くことはなく、単純に感想を語り合うだけだけど。
我ながら、まずいとは思ってたんだよ?
彼女の好みを調べるようで。どうして調べたいのか、彼女と語り合いたいのか。薄々気づきつつ、誤魔化し誤魔化し、帝都での半年が終わろうとしていた。
◇ ◆ ◇
珍しく、陽の高いうちにヴァルムさんが帰ってきた。
彼にしてはこれまた珍しく何か考え込んでいて、声をかけるのが
「何かあったんですか?」
「いんや。まだ、何もねぇ。おまえさん、明日は空いとるか?」
「ええ。もう残りはのんびりしようと思ってましたから」
「じゃあ、悪ぃがちぃと付き合ってくれんか。晩飯……といっても、いつもの酒場じゃなくてホテルになるが」
あんまり楽しそうじゃない表情に、嫌な予感がよぎる。
「二人で、じゃ、ない感じですね」
ヴァルムさんはこくんと頷いた。
「わしの息子夫婦……テリエルの両親が、来る。人づてでおまえさんの噂を聞いたらしくてな」
それは、寝耳に水だっただろう。
「ああ。なら、そんなに心配ないんじゃないですか。テリエルが説明してくれるでしょう」
「それで済めばいいんだが」
両親との仲が拗れている話は聞いている。それがカエル君に起因していることも。でも、ご両親が心配して彼女に会いたいと、口実でもなんでも、それにすがっているような気がしたから、僕は素直に頷いた。
「僕がいた方がいいなら、ご一緒しますよ。えっと……作法は、さらった方が……?」
「わしは面倒なのはごめんだから、そんなに気にしなくてええ。元々、わしよりおまえさんのほうが優雅に見えるわ」
特に習ったことはないのだが、見よう見まねでどうにかやっている。お屋敷ではテリエルが教わるのを同じテーブルで聞いているし、自然と倣っていたようだ。
少し安心して、何を着ていこうか考え始めた僕を、ヴァルムさんはまだ難しい顔をしたまま眺めていた。
かっちりでもなく、ホテルの食事で恥ずかしくない程度、というのは思いのほか難しかった。テリエルと会うときは、いいとこの人間に見えるようにと言われるのだが、今回はそんな見栄はいらない。結局シンプルな三つ揃えに落ち着いたのだが、逆に浮いてしまわないかと心配だった。
貫禄のあるヴァルムさんが派手目の長上着をひるがえすので、その従者としてはいい感じに収まったのかもしれないけど。
先に迎えに行ったテリエルは、とても不機嫌な顔をしていた。
シンプルなワンピースに深いボルドーのショールを羽織っていて、そのベルベットの光沢が柔らかく曲線に沿う。髪を纏めて、軽く化粧も施しているらしい。いつもより数段大人に見えた。
「テリエル。せっかくの美人が台無しだよ? 少しは笑って?」
「楽しくないのに笑えないわ」
「久しぶりなんだろう? 仲直りするいい機会かもしれない」
「どうかしら……」
重苦しい息を吐き出すと、彼女は少し不安気に僕を見上げた。
「ランクは、私の味方よね?」
「そうあろうと思うよ。うん。そうだな。僕に笑ってくれたら、きっと断れないな」
ふふ、と彼女はようやく口元をほころばせる。
「そんなんでいいなら、世の女性はみんなランクを味方につけられるわね。気をつけなくちゃ」
「今のところ、僕のお仕えするお嬢様は貴女おひとりですよ。ご心配なく」
忠実な
「私は『お嬢様』にはなりたくないの」
そう言われても、現実として僕は屋敷の主人に雇われている一従業員だ。ご両親の前では、そこはわきまえなければいけない。
肩をすくめた僕が気に入らなかったのか、彼女はまた不機嫌なお嬢様に戻ってしまった。
ホテルで通されたのはレストランではなく、個室だった。
先に待っていた夫人の方が、テリエルの姿を認めた途端、立ち上がって小走りに駆け寄ってくる。
「……テリエル! 大きくなって……もう、立派なレディね」
ひしと娘を抱きしめるその
後からゆっくりと歩み寄ってきたのが、彼女の父だろう。ヴァルムさんに似て身体は大きいが、顔は穏やかな紳士だ。ポン、と奥さんの肩に手をかけると、こちらに黙礼する。
「ほら。まずは挨拶だろう? お久しぶりです。父上。テリエル。そちらをご紹介いただけるかな?」
ヴァルムさんが彼と同じように僕の肩に手をかける。
「うちの店を切り盛りしてくれている。ランクィールスだ。おかげでなんとか潰れずにいられる」
「お気軽にランク、と。初めまして」
にこやかに手を差し出せば、よろしくと握手が返ってきた。
テリエルが不機嫌なことを除けば、ごくごく和やかに食事は始まった。
「ビヒトさんは元気かい? 私はもしかしたら彼が来てるのかとも思ったんだが……」
「奴には家を任せてる。すっかり執事の顔をしてるから面白いぞ」
「そうやって自分は相変わらず飛び回ってるのでしょう? まったく……戻ったら、平謝りしていたと伝えてもらわねば」
「半分は好きでやっとるんだ。別に謝るこたぁねぇ」
「後の半分が問題なんですよ!」
身内の胃はさぞや痛んできたのだろうな、と口の端で笑いながらフォークを運ぶ。奥さまがじっと見ているのに気が付いて、慌てて顔と背筋を引き締めた。商人なので、多少の雑さは目こぼししてもらいたいものだ。
「じゃあ……あなたのお相手だと噂されているのは、そちらのランクさんなの?」
一度も口を開かずに料理を食べ続けていたテリエルだったけど、奥さまの執拗な視線に手を止めた。
「なんの噂かしら。私はやましいことは何もしていないけど」
「ずいぶん仲睦まじく出かけているようじゃないか。縁談の申し込みを躊躇ってしまう、と、冗談交じりにだが言われるというのは、それなりに見えているということだろう?」
「縁談なんて受ける気ないから。ランクには、ほんの息抜きに付き合ってもらっている程度よ。一人歩きは危ないというから、そういう人なら間に合ってますって示しただけなのだけれど」
険のある態度に奥様の眉が曇る。
「でも、いくつかいいお話もきてるのよ。あそこでは出会いも限定されるでしょう? もう少し、いろんな人と会ってみるのも……」
「必要ないって言ってるの。それは誰にとって「いい話」なの? 私のことは私が決めるわ」
息をのんだ母親の代わりに、父親が小さく息を吐き出す。
「テリエル。君が選ぶのは構わないよ。でも、見もせずに良くないと決めつけるのも良くないんじゃないか」
「ちゃんと見もせずに良くないと決めつけたのは、そっちが先でしょう!」
テーブルを叩きつけるように両手をついて立ち上がったテリエルに、奥様は表情を失くした。
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