クランベリージュース
『ケンちゃん、ジャンケンしようか?』
幼い頃に俺がすねると、母さんはよくそう言った。
そんなんで騙されないぞ!と思っていても、母さんが手をぶんぶんと振って、最初のグーを出すと、俺も必死になって次は何を出せば勝てるのか考えてしまう。
そうするうちに、何にへそを曲げていたのか、すっかり忘れてしまった。
こんなこと、とっくの昔に忘れたと思っていた。
俺にとってはどうでもいい記憶。思い出したくない思い出。母さんのことは、思い出したくない。
いや、むしろ思い出さないようにしてきた。
人間は思い出したくないことは、本当に忘れる事が出来る優れた機能を持っている。
きっとこの機能がついていなければ、人間なんていう心を持ってしまった動物は、正常に生きて行けないのだろう。
心なんて無くなってしまえばいい。何度もそう思って生きてきた。
心がなければ、どんなに生きる事が楽になるだろうか。心のない、ただの動物になれたらいい。そうすれば、俺は無敵になれる。そうなれたら、最高だ。
母のことはどうでもいい。
今、問題なのは、なぜこの少女が俺の思い出を知っているかということだ。
「お前、誰だ」
「私は……。ヒナタ」
「名前なんてどうでもいい。お前は俺の何を知ってる?」
ひどく大きな音のクラクションが鳴り響いた。
そうか、俺たちは信号の真ん中で、つっ立ったままだ。
信号はまた、青から赤に変わっていた。
「アナタを探してました」
その言葉に驚きながらも、俺は彼女の手を引いて、彼女の歩いてきたほうの道へと急いで走りだした。
とにかく事情がつかめなかった。だから、俺がよく行く近くのカフェに連れて行き話を聞く事にした。
そのカフェは2階にあって、窓際から下の人たちが行き交うのがよく見える。
俺のお気に入りの場所の一つだ。
俺はアイスコーヒーを頼んで、彼女はクランベリージュースを頼んだ。
6月だというのにもう真夏のように、暑い。
これから夏になったら、どれほど暑くなるのか、想像するだけで嫌になった。
汗がだらだらと流れていく感触が首筋に伝わる。先にアイスコーヒーが来たので、俺はそれを一気に飲み干した。
こうやってじっくりと彼女を見ると、年齢は俺よりも少し上かもしれなかった。
髪は肩甲骨下あたりまであって、今時珍しく割と自然なままの黒髪だ。でも、元々あまり色素の濃い体質じゃないみたいで、光が当たると薄く茶色く見える。
本当に色が白くて、目は驚くほど大きくて透き通っている。
まつげもびっしりと生えていて、くるっとカールしていた。
まるで人形みたいだなと、俺は思った。
よく見ると、彼女の胸元にも汗がじわっと滲んでいた。
「あのさ、よく分かんないんだけど、俺を探してるって言ったよね?」
「はい……。あなたを探すように言われて……」
「誰に?」
「……お父さんです」
「君の?」
「はい…。そうです」
「探してどうしろって?」
「いえ、私……もう帰るとこがなくなってしまったんです」
「どういう意味?」
彼女は、滲み出た汗を拭いながら、少し頭を傾げて話し出した。
「お父さんが死んでしまって、私は帰る場所が無くなりました。それで、お父さんが死ぬときにアナタを探すように、言ったので、探しに来ました」
「いや、意味がよくわかんないな。なんで君のお父さんは俺を探せって言ったの?」
「それは、私にも……よくわかりません」
彼女の瞳は、ユラユラと揺れた。
「俺の知り合いなの?」
「それは、私は知りません」
「それじゃ、君の父さんの名前は?」
「それは言ってはいけないと言われています」
その言葉を聞いて、ますますこの子は一体何者なのかという疑問が大きくなった。
なにか俺は危ないことに巻き込まれようとしてるんじゃないのか。
店員が真っ赤なクランベリージュースを机に置いた。
彼女はそれをカランカランとストローで何回か掻き回してから、一口、口に含んだ。
「俺の名前はお父さんから聞いたの?」
「はい。小早川ケンジ」
「なんでケンちゃんて呼んだの?」
「アナタがケンちゃんだからです」
「それは、お父さんが教えてくれたの?俺のニックネーム」
彼女は、困った顔をして俯いた。
「……多分、お父さんです」
「多分?」
「あの、私を預かってくれますか?」
「預かる?」
「はい。もう帰る場所がありません。私を預かってください」
「あ、預かるって、物じゃないんだから。君、他に親戚いないの?」
「私、お父さん以外は知りません。とにかくお願いします」
ヒナタは目に大粒の涙を溜めていた。
ぽたっぽたっと机の上に雫が垂れた。
それは涙ではなく、額と首筋にびっしりと張り付いていた、汗だった。
ふと、クランベリージュースを見たら、冷えて水滴がグラスにびっしりとついていた。共食いみたいだなと、必死なヒナタの顔を見て思った。
「いいよ」
ヒナタが顔をあげて恐る恐る俺を見上げる。
「幸い俺は1人暮らしだし、誰に断らなくてもいいし」
「よ、良かったあ」
彼女は初めて笑顔を見せた。
「お前さ、知らない男の家、しかも1人暮らしをしてる男の家なんか泊まったら、何されんのかわかってんのかよ」
ヒナタは不安そうな表情を見せた。
「な、何をするんですか?」
「いや、俺はそんな気ねーけどさ。お前みたいに無防備だと、いつかやられて殺されるぞって意味。なんか、アンタ世間知らずのお嬢様って感じだからさ」
「あの、私ヒナタです。名前で呼んでください」
彼女は怒った顔をした。
ころころと表情が変わる子だな、と思った。
そして俺は、ヒナタに興味を覚えた。
それに彼女はどことなく放っておけない雰囲気もあった。
まるで彼女は、生まれたばかりの赤ん坊のような目をしている。
騙されたら、その時だ。失うモノなんて、もうとっくに何もない。
俺は、彼女を自分の家に住まわそうと決意した。
「じゃあ、ヒナタ……でいいよね?ヒナタは何歳?」
「年齢は……言いたくありません」
「そんなに、年取ってねーだろ。まぁいいや、お金は持ってるの?」
「持ってません」
「いいよ。ここおごってやるよ。ていうか、これから俺が養わなきゃいけないってことだよな?まあ、俺、金だけはたくさんあるから、心配しなくていいよ」
自分の金ではなかった。
自分の金ではなかったが、それを使い果たしてしまいたいと、きっとずっと思ってた。
だから彼女は、俺にとって都合がよかったのかもしれない。
ちょうど、何かを紛らわせて、誰かを失望させてみたかった。
そんな時に、彼女は俺の前に現れた。
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