7-5. 白竜降り立つ
森の中から、妖精王の姿があらわれた。
「すべての怖れは望みを明らかにする」フィルの心を読んだかのように言い、手に持った林檎をかじった。白い健康そうな歯がのぞく。「無意味とは思わないが」
フィルは剣をおさめ、嘆息した。この男の思わせぶりな、もってまわったような口調にはうんざりする。つきあっていられない。
「肥溜めから漂ってくる悪臭のように現れて俺を悩ませるよりも、あなたにはやるべきことがあるはずだ」
「方法はある」妖精王は急に言った。
フィルは眉をひそめた。「なんのことだ?」
近づいてきた壮年の男は、わざとらしく林檎を彼に見せつけた。「あの子を〈ハートレス〉にしない方法だ」
親しげに肩に腕をまわされても、フィルは身じろぎもしなかった。
「デーグルモールの女王にする、というのもひとつだな」妖精王がささやいた。
その言葉で自動的に思いだす。灰色の瞳、白い肌にからみつく黒い蔦の紋様。あの安宿で、彼の膝に乗りあがって血をすすっていたリアナのことは、忘れようとしても忘れられない。真珠のような小さな歯が首筋を鋭く噛む、痛みと快感がないまぜになった感覚も。彼の腕のなかで、満腹になった美しい獣のように眠りについたリアナ……。ぞくりと背筋を這いあがってきたのは、悪寒とは正反対の感覚だった。
「あるいは、ニザランの女王になることもできる」妖精王は言った。
「彼女ほど強い〈竜の心臓〉の持ち主なら可能だろう。おまえは王配になってもいい。そうだろう? ニザランにはあのいまいましい
頬とあごに触れる、彼女の手の感触がまだ残っていた。さっき、リアナの手を払いのけなかったのは、欲望と不安の渦にとうに呑みこまれていたからかもしれない。
「あいかわらず悪魔のような男だな、『狂った竜の黄金賢者』」フィルは冷たい声で答えた。「おまえは彼女をここに留めておきたいだけだろう。……彼女を異形の者にはさせない」
妖精王がなにを考えていたのかはわからない。しばらく間を置いて言った。「おまえには
瞬間、二人の男の間に強い緊張が走った。
「なにを根拠に?」フィルが言う。「兵士なら、誰だって一度くらいは使ったことがある薬だろう」
「クローナンや私を相手に時間稼ぎをしてなんになる?」妖精王は続ける。「私がおまえの立場に置かれたら、リアナを無事にここへ運ぶために、文字通りなんでもするだろう。そのなかに
そして、自分の頬を指で軽く叩いた。「心配しなくとも、外見上それとわかる兆候はまったくない。リアナが不審に思うことはなかったはずだ」
妖精王の言葉には、不思議となぐさめるような響きがあった。フィルはしばらく沈黙したが、あきらめたように認めた。「……もう一週間、薬なしでやっている。ここに着いてから」
「だが、その自己流の禁断療法のせいで、気分は最悪のはずだ」
「いずれ慣れる」
「おまえの精神力には驚かされるよ、フィルバート・スターバウ。自己犠牲的だが、それでも驚異には違いない」
東の空に浮かぶ雲がバラ色に染まりだした。動くものの小さな影に目をこらすと、夢のように白く美しい古竜の姿があった。風にはためくリボンのように、行きつ戻りつしながらだんだんと近づいてくる。
それを確認した瞬間のフィルバートの心境は、あまりにも複雑で、あらゆる思いが入り混じった言葉にならない感情のスープのようだった。
「レーデルルか。大きくなったな」マリウスが言った。「私が取りあげた仔だ」
フィルは妖精王の言葉など聞いていなかった。白竜レーデルルが、ようやく主人のもとに帰還したことに衝撃を受けていた。デイミオンがリアナの無事の到着を知り、タマリスからこちらへ送ったのに違いなかった。とすれば、彼はすでに五公と貴族たちを掌握し、もはや追手がかかることもないと確信したのだろう。
それは、二人のあいだの、目に見える絆と約束の証だった。〈ハートレス〉である彼には決して立ち入ることのできない、深いところで結ばれた信頼のしるしだった。
見ているうちに陽が沈み、白竜はツリーハウスへまっすぐに降りてきて、虹色に輝く翼でそっと屋根を覆った。星々が彼女の後を追ってきて、紺色の夜をたくさんの小さな粒できらめかせた。
♢♦♢
それから夜が更けるまで、なにをしていたのか覚えていない。フィルは絶望的な気分でツリーハウスに戻った。夜の支度を済ませたらしい女官とすれ違う。部屋に入ると、リアナはすでに夜着に着替え、寝台の上で半身を起こしていた。
落ち着いていて、すでに心を決めた顔をしていた。
その顔を見て、もはや自分が何を言っても彼女の決意を変えさせることはできないのだとフィルは悟った。今ここにいるのがデイミオンだったら、リアナの心を変えることができるのだろうか?
リアナの命に代えられるものなどなにもない。だが、彼女が〈竜の心臓〉を
心が千々に乱れて、ぼうぜんと立ち尽くしていると、目と目が合った。
「来て」彼女が言った。
拒否するはずの言葉がひとつも出てこず、フィルは吸い寄せられるように近づいた。身をかがめると、両手が伸びてきて顔をつつんだ。
さまざまな感情が押し寄せてきて、目を開けていられない。彼は目をつぶり、黙ってリアナの柔らかい手の感触に身をゆだねていた。
「眠って、フィル」リアナは言った。「眠らせてあげる」
その日のことを後から思い返しても、なぜそうなったのか、頭が真っ白になったようでわからない。不安も欲望も、あらゆる言いわけが消えて、ただ、彼女の前に屈服したということだけが事実だった。
彼は言われるままに寝台に入り、明日には〈ハートレス〉となる少女の腕のなかで眠った。
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