6-5. 幻影の森

 真っ白な視界に驚いて、リアナはがたっと音を立てて椅子から立ちあがった。「なに……!?」

 反動で椅子が倒れたが、気にしている余裕はなかった。

 悪夢のような雪と氷の世界が、ふたたび目の前にあらわれたからだった。

 

 ふわりふわりと雪片が舞うなかに、細い木々が並び立つ。地面を覆う雪に、小動物の足跡が点々と伸びている。見わたす限りの雪原のようだ。

「妖精王! ……フィル!」

 呼びかけても、応えはない。

 誰もいない。


「こんなもの……作り物だわ」

 自分を鼓舞するように、そう声に出す。手の届くところにある白いシャクナゲは霜に覆われていて、触れると脆くこぼれ落ちた。

 作り物めいてはいるが、この光景は、自分が知っているものに似すぎている。掬星城の、あの自分が作り出した雪で凍りついた王の部屋に。一度考えだすと、恐ろしい考えは止まらなかった。


 もしかして、わたしはまた、同じことをしてしまったのかもしれない。身体の奥から冷やされ、指先から雪の結晶があふれ、甘い冷気がたちこめ、あらゆるものが白く脆く凍っていく……

 ――そして、誰もいなくなる。

 愛する人たちがみな自分のもとを離れて、自分だけがたった一人、この永遠の冬のなかに残されることを思って、リアナの動悸が速くなった。


「いや、そんなのは――」口元と心臓をおさえ、しらずに呟いていた。「デイ! ……フィル!」


 息が荒くなり、広げた腕に黒の紋様が浮かびあがりだした。自分では見えないが、おそらく瞳孔の色も変わっているに違いない。叫びだしそうになるリアナをとどまらせたのは、ぱきっという乾いた音だった。なにかを靴裏が踏んだような。


 誰かがいる。


「寒々しい光景だな」

 穏やかな声が降ってきて、リアナはうつむいていた首をあげた。

 見知らぬ男のように思えたが、それは〈鉄の王〉だった。柘榴ザクロのような赤い目が彼女を見下ろしている。

「おまえの内側には、暗く閉ざされた冬の部屋がある……ふむ。おまえの母親と同じようだ」

「なに……?」

「もっとも、彼女の冬はもっと荒々しく広大だった。流氷と海と極夜の薄暮の世界だ。淡く輝くような青と白の、巨大な氷山があたりを支配する。打ち寄せる波すら固く凍りつく青い海に、生まれたばかりの氷山が白く散らばる。そういう光景だった」


 王の言葉はなかば独り言のように聞こえたが、リアナには電流が走ったようだった。

「知っているのね。母のことも。わたしのことも」

 愕然として、そうつぶやく。

「……〈鉄の王〉、あなたは何者なの?」


 王はまばたきを十度繰りかえすほどのあいだ黙ったが、結局、こう言った。

「――どうやればこの幻を破れるか、おまえはもう知っているはずだ。……蜃気楼のことを考えてみなさい」


「まぼろし」リアナはくり返した。もちろん、現実のはずがない。そして、蜃気楼は、熱気や冷気によって光が異常な屈折をしたために起こる。王が親切にも付けくわえたこの言葉が、リアナに答えを知らせることになった。


(光……)

 どうすればいいのかはわからないが、ただ、光を遮断してみようと思った。何度か試しているうちに、それは難しく、むしろ空気中の水分を少なくした方が効果がありそうだとわかった。そこから先はそれほど長くかからなかった。

 白一色の光景は霧が晴れるように消え、もとの森が現れた。フィルが近くに立っていて、けげんそうな顔をしている。「……リアナ?」

 

「幻なんて見せて、どういうつもりなの?」リアナは男をにらんだ。「白の〈乗り手ライダー〉なら、だれでも同じことができるはず。原理さえわかれば……」

「幻は重要ではない」男が言った。

「おまえがそこからなにを学ぶかが重要なのだ」


 妖精王のもの言いには、どこかひっかかるものがあった。こんな口調で、こんなことを言う男を知っている。まわりくどく、謎めいていて、教訓めいたおとぎ話ばかり語っていた男。変わり者で、竜の飼育に詳しくて、家事が苦手で、春になるとふらりと旅に出てしまう……


「おまえが私と一緒に来ることは、やはりなかった。と一緒に行くことを選ぶだろうと思っていた」

『私と一緒に行くかい? 老いも病も、苦しみもない、とこしえの春の国だよ。おまえにふさわしい王国だ』

 男は笑った。

……」


 背筋が凍りついたように、ぞっとした。それは彼女の悪夢のなかでいつも聞く声だった。いつ聞いたのかもはっきりしないのに、ずっと頭のなかに残っている声だった。


「イノセンティウス……」リアナは自分でも半信半疑のまま、つぶやいた。「、まさか、あなたなの?」

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