4-3. ……飲まないと、苦しむのはあなただ

「部屋の支度をさせますから、食堂でお待ちになって、うちの自慢のメニューをお召し上がりください」宿賃を受け取ると、主人はお決まりの案内をした。

「今日は竜肉シチューですが、ちょっと贅沢なさるなら、メープルとマスタードのソースを添えたラム肉をお部屋にお持ちしてもいいですよ」


「食堂でかまわない」

 青年はそう言い、すこし考えてから、「その仔羊か鹿の血はあるか?」と尋ねてきた。

「ソーセージ用にいくらか残してはありますが。どうなさるんで?」

 青年は、主人のほうに身体を近づけ、優しげな顔に似合わない野卑な仕草で唇をゆがめ、ささやいた。

「血入りの茶には効果があるんだよ。わかるだろう?」


「なるほど、なるほど」主人も合点した笑みを浮かべた。下世話な方向には縁がなさそうな青年に見えたが、もちろん彼も男というわけだ。それにあれだけかわいい娘なら、夜になにもないというわけにはいかないだろう。

「そういうことなら、後で運ばせましょう」


   ♢♦♢


 フィルは宿の主人と親しげに会話し、肩をたたき合ってから戻ってきた。その様子は、いかにも気のいい若者といったふうに見える。彼はいろいろな顔を持っていて、いつでもなにかの役割を演じているのではないかとリアナは疑った。


 にぎやかな食堂に入ると、数人がこちらに視線を向けたものの、すぐに暖炉の前のフィドル弾きのほうへ戻された。

 フィルは椅子にもたれてさりげなくあたりを観察し、エールを片手にテーブルに肘をつき、くつろいだ格好で食事をはじめた。ふだんならまずやらない仕草だが、オンブリア一の剣豪にはまず見えないということは、成功なのだろう。


 リアナはかろうじて口に入る赤ワインで喉をしめした。宿屋に泊まって食堂に下りなければ、逆の意味で目立ってしまう。少しでも姿を見せておいて、ほかの客の好奇心を満たしておいたほうがいい、とフィルが主張したからだった。部屋は暖かく乾いていたが、周囲の視線が気になって、落ちつかない。


 女性はリアナのほかに、忙しそうに給仕をする娘がひとりいるだけだった。カップやピッチャーを満載したお盆を上手に持って、愛想よくかけまわっている。お客の男がからかい交じりの軽い野次をとばすと、すかさず言い返して笑いをとっているあたり、この仕事にも慣れているのだろう。二人のテーブルへ飲み物を運ぶとき、娘はほんの一瞬だけはにかんでフィルを盗み見た。


「食事は入りませんか?」

 よそ見をしていたリアナは、その言葉にはっとした。フィルが気づかわしげに彼女を見ている。「シチューが無理なら、パンだけでも」

 リアナはためらいがちに首を振った。「今日はだめみたい」


 結局のところ、食事中に二人が交わした会話はこれだけだった。味気ない時間をもてあましかけたころ、給仕の娘が寄ってきて、にこやかに言った。

「お部屋の用意ができました。……こちらへ。ご案内しますね」


 彼女のあとに続き、談話室を抜けて奥の階段を上がって、案内された部屋にはいった。寝台が二つに小さな卓がひとつ、椅子が二脚。卓上には陶器の水差しと燭台が置かれていた。どれもきちんと手入れされており、タマリスの宿と比べても遜色ないしつらえだった。フィルが宿の安全を確認しに出ているあいだに、呼びかけを行うことにした。


 椅子に浅く腰かけて、呼吸を整える。身体のなかの、空気の流れを意識するようにして……そうやって集中しようと努めても、〈ばい〉の絆はやはり遠かった。まだタマリスを出たばかりだというのに、暗澹たる気持ちが襲ってくる。これだけ遠ければ、逆に追跡される危険も減るのかもしれないが。


 安全を考慮して、デイミオンではなくナイルのほうに〈ばい〉を送っていたが、ふと脳裏に浮かびあがった映像に思わず息をのんだ。いまもっとも見たいと思っている二人、つまりデイミオンとレーデルルが、おぼろげながら見える。

 心臓をどきどきさせながらさらに意識を集中した。どうやら、ナイルが見ている映像が、彼の〈ばい〉を通じて見えているらしい。


 デイミオンはレーデルルの隣にいる。状況から見て、竜舎にいるのだろう。そこにナイルが近づいていって、おそらく何事かしゃべっているのだろう、デイミオンがうなずいた。彼の計画がうまくいっていれば、おそらくナイルはルーイを彼女の身代わりにして北部領に出立するところだろう。その報告なのかもしれない。


 離れたばかりなのに、もう彼が恋しい。もっと見たい、と思うそばから、画像は風に吹かれた灰のようにはかなく消えていった。……扉の開く音。


 フィルが部屋に入って荷解きをはじめると、さっきの娘とは違う小間使い風の少年がやってきてノックした。リアナがそちらを見ると、フィルに革袋のようなものをわたしている。冗談めいたやりとりのあと、フィルは少年に銅貨をいくつか投げてやった。


 それは何、と尋ねるよりも先に、自分の身体が反応した。心臓が一度大きく打った。匂いは錆びた鉄のようなのに、食欲をかきたてられ、思わず喉を鳴らす。

「仔牛の血です」

 フィルは淡々と説明した。「飲んでみてください、少しでいいから」


 リアナは平手で打たれたようにはっとした後、のろのろと顔をあげた。頭のどこかでその可能性を考えないではなかったが、あまりに恐ろしくてあえて考えないようにしていた選択肢を、今まさに突きつけられたことに気づいたのだった。

 

「あのときデイミオンが飲ませてくれたのも……血なのね?」


「そうです」

 フィルは平然と答えた。「あなたには、旅のあいだ持ちこたえられるだけの体力をつけてもらわないといけない」


 リアナはためらったが、覚悟を決め、うなずいた。おそるおそる革袋を受け取り、直接血を口に含む。まずくても我慢するつもりだったが、錆びた匂いにむせ、さらに飲みこもうとすると、つぎには吐き気が襲ってきた。


 身体を二つに折ってごほごほとむせると、手から赤い液体がこぼれ落ちた。フィルがあわてて背中をさすってくれた。どのみち、胃のなかには吐けるほどのものは入っていない。

「やっぱりだめか」独り言のように言う。


「ごめんなさい……」

「謝らないで。……でも、あとでまた試してみましょう。ワインで割るとか、温めるとか、何か方法があるかもしれない」

「そうね……」とてもそうは思えなかったが、フィルの手前、言葉を濁した。

 もちろん、そんなことは見透かされているのだろう。


「試してみるだけでもやってみないと、苦しむのはあなただ」

 青年は冷たく言うと、剣帯を外して寝台の脇に置き、おそろしいことを宣言した。


「もし仔牛の血がダメなら、明日はおれの血を飲ませます」


 衝撃で目の前が暗くなり、リアナはそれ以上、なにも言葉を返すことができなかった。


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