3-4. マリウス手稿と、エピファニーの推測

 青年王は頭をのけぞらせて顔を手で覆い、天井を仰いだ。

「……おまえが言った、方法だが……効果があった。良いことか悪いことかわからないが」

「良いことだよ。希望はある」ファニーは力をこめた。

 デイミオンはそっと息をつく。「……そうだな」


 ファニーはティーカップをアルコーブの端に置き、懐から古びた革の手帳を取りだした。真鍮の留め金が壊れてはずれ、紙は日に焼けて端がすりきれていた。中を開くと図も文もびっしり書き込まれていて、インクが黒々した箇所もあれば、かろうじて読める程度に色あせてしまった箇所もある。


「マリウス手稿ノート」つぶやいて、少年は考えこむ表情になった。

「先の大戦時、ひそかに行われていたデーグルモールたちへの生体実験……その記録がここにある。おかげで、を和らげる方法もわかった。感謝しなきゃね」


「ああ。フィルのやつ、そんなものを探していたとはな。ひとこと言ってくれれば……」

「中を見た?」

「ひと通り」

「なにか気づいたことは?」

「いや……」デイミオンはためらった。「こういう方面には詳しくないんだ」


「医術方面の知識がなくても、わかることはあるよ」

 ファニーは手帳をぱらぱらとめくった。「たとえば、この手帳のなかには一度も、『デーグルモール』という言葉は出てこない」


 デイミオンは宙を見て、思い返す様子になった。しばらくして「……たしかに」と言う。

「戦前は『半死者しにぞこない』と呼ばれることが多かったな。だが、それが?」


「彼らが新しい名前で呼ばれるようになったのは戦後。手帳が国外に渡ったのも戦後」ファニーが言い、手帳から顔をあげた。「ところで、南部領主とイーゼンテルレの公子の共通点ってなんだかわかる?」


 急な話題転換に面食らいつつも、デイミオンは考える顔になった。「……名前か?」

「そう。エサルとイーサーは同じ名前だけど、それが言語によって違うふうに発音されるんだよね」ファニーは教師の口調で言った。

「イーゼンテルレは旧イティージエンの言語文化圏だからな。だが……」

 それが何か、と尋ねようとしたデイミオンが固まった。「は、イティージエン読み……なのか?」

「たぶんね」壁のくぼみにすっぽり収まった少年が、賢者の顔になる。「そう仮定して。オンブリア流に読むと?」


 デイミオンは愕然とした。なぜこんな単純なことに気がつかなかったのかと顔に書いてある。「……南部の領主、エイルモールト家のことか?」


「エサル公のアビダオン家の前の領主家。黒の竜騎手ライダーを多く輩出した。当主の葬式で一族全員が惨殺され、その罪で分家筋まで断絶に遭ったんだよね?」ファニーは書類でも読み上げるようにすらすらと口にした。

 目の前の少年はリアナとほぼ同い年で、成人して何年も経っていない。おまけに貴族階級の出身でもない。それなのに、五公十家でもない、断絶した家名によくぞたどり着いたものだ。デイミオンは少年の博識に舌を巻いた。

「そうだ。私が生まれる前の話でよくは知らないが、なにしろ凄惨な事件だったし、なにかと憶測を呼ぶ話が多くて覚えている……」

「参列者と死体の数が合わなかったとか、死体が食い荒らされていたとか?」

「――そうだ」


「それはデーグルモール――半死者と言ってもいいけど――の仕業かもしれなかった。もしかしたら、変容したのかもしれなかった。記録に残っていないのは、まだ半死者の数が少なくて、一般的じゃなかったからかもしれない」

 ファニーはこつこつと手帳を叩いた。

「これは全部憶測には過ぎないわけだけど。……いろいろ考え合わせると、デーグルモールの発生は南部からという気がする。だから僕は、アエンナガルも含めた南部に行ってみようと思うんだ」


 デイミオンは了解を示した。

「せっかく任命したんだから五公の役割もやってほしいが、デーグルモールについての情報はなんでもほしい。この件で、おまえ以上の適任はいないだろう。

 ……だが、マリウスの後継者とかいう男のほうはどうする? デーグルモール化した竜族を救う方法を知っているんじゃないか?」

「そっちはあなたの弟が向かっているよ。彼女とともに」


 デイミオンは何かをぐっと飲みこむ顔になった。「そうか……」


 男女のあいだに起こるさまざまな情緒的葛藤については、いまだ書物で読む以上の経験がないファニーは、男の変貌を興味深く見まもった。

 しかしひとまず、愛という大きすぎるテーマに踏みこむのは避け、目の前の問題に注力する。


「デーグルモールについて知ることは、竜族について知ることでもあると思うんだ。とどのつまり、僕たちはひとつの大きな謎のまわりを、全員でぐるぐるめぐっては違う箇所に行きあたっているんじゃないかって思うことがある」


 デイミオンは、ファニーの言葉をとっくりと考えてみたようだった。

「それを聞いて思い出したんだが……」と言う。

 

「イーゼンテルレでリアナと過ごしたとき、彼女の古竜レーデルルがよくわからないことをしゃべりだしたんだ」

 デイミオンはそのときの会話を簡単に説明した。会話というか、独言のような一方的なものだったが。


 ――息、心臓、新しい血の王子さま。

 ――大きい大きい竜。問題と解決。命令装置は正常ですか?


 ファニーは身を乗りだした。

「いろいろ気になる点はあるけど、『新しい血の王子さま』。本当にそう言ったの?」

「ああ。流れからして、俺のことを言ったのだと思うが」

 ファニーはあごに手をやった。「興味深い」

「何かわかるか?」

「関係があるかわからないけど、かつて戴冠式には黄の古竜が臨席して、王の即位をよみしたんだよね。エリサ王の時代までだけど」

 デイミオンがうなずく。「彼女への弑逆しいぎゃくを企てたとき、マリウスの黄竜が殺されたからな」

「王たちに竜が告げた言葉のなかに、似たものがあるはずだよ。たしか……エリサ王とクローナン王は『ふるい血』。あなたのお母さんは『新しい血の王』」

「母の即位のときのことは、覚えている」と、デイミオン。「エクハリトス家もそうだが、母の生家は旧家に数えられているから、不思議だと思っていた。そうか……竜たちの知識は、竜族そのものよりも古いのかもしれないな」



 話題はその後、ファニーの旅の仕度に移った。


「任務を考えると、もう一人くらいはほしいね」

「……おまえ以外にか? だが、難しいぞ」デイミオンは思案げになった。


「タマリスから長く離れて、人間の領地に足を踏み入れる可能性もある。文字が読めることはもちろん、博識でなければ務まらないし、場合によっては各地の領主たちと交渉しなければならない。しかも、なるべく五公たちには気づかれたくないから、あまり重要な役職についていないのも条件だ」


「いるじゃない、適任者」ファニーは快活に言った。「地理に明るく考古学に興味があって、五公十家クラスの地位を持ち、それでいて長期の旅も可能な、なんの役職にもついていない、卿のよく知る人が」


 デイミオンはくっきりした眉をよせて押し黙った。「……誰のことを言っている?」

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