2-2. 不測の事態

 駆けつける兵士たちの、大量の軍靴の音が響いた。竜騎手たちの長衣ルクヴァの色は赤。その先頭に、金髪の偉丈夫エサルがいる。フィルはそっと息を整えた。

「――何度も言っているだろう! そんなはずはない」


 横の兵士――副官だろうか?――を怒鳴りつけている。「陛下の生体反応はここ、〈王の間〉にある。扉にはグリッドを張ってある。抜け出せるはずがない!」

 解説をどうもありがとう、とフィルは思った。デイミオンは重要なところを言い忘れている。あんな扉から、どうやって侵入する隙を作るのか疑問だったが、なんとなく読めてきた。しかし、うまくいくのかどうか。


「し、しかし閣下、ナイル卿の竜がさきほどから活発に活動しています。しかも、ナイル卿が陛下に似た服装の女性と一緒に移動しているのを兵が確認していまして――」

「あの侍女じゃないのか? 陛下には影武者がいるんだぞ。もう一度よく確認しろ。目の色は竜術で変えられる」

「いえ、目は緑色だったという報告なのですが。ただ、陛下の印章指輪シグネットリングを見た兵が複数いるのです」

「なんだと?」エサルは立ち止まった。「待て――ナイル卿はなんと言っている?」

「同郷の侍女だとかで、旧交を温めたいと」


 フィルバートには、エサルの思考が手に取るように分かった。容易に変えられるはずの瞳の色を変えていないことと、王の持ち物を身につけているということが、かえって彼に疑いを持たせているのだろう。まさかとは思いつつも、念のため、本人を確認しておこうと思ったエサルは――

(そう、あなたの思考は、朝が来れば陽が昇るのと同じくらい読みやすい)


 フィルの想像通り、赤い長衣ルクヴァの男は身をひるがえし、扉の前に立って右手を振った。重たげな音を立てて扉と格子が上がるさまは、圧巻といえただろう。彼は扉近くの兵士たちを呼んだ。「そこの三人、俺と一緒になかへ入れ」


  ♢♦♢


 リアナは椅子に腰かけたまま、動かなくなった時計に目をやった。凍りついた水が内部で溶けたのか、昼を指したまま止まってしまったのだ。だから見ても意味はないのだが、つい目が向いてしまう。

 

 デイミオンが部屋を立ち去ってから、半刻近く経っているのは間違いない。窓から見える月はまだ低い位置にあるが、窓枠のなかをゆっくりと移動している。氷が融けて部屋もまた水浸しになっており、彼が灯していった燭台の明かりを受けて、ぽた、ぽた、と水音が続いている。


 意識はとてもはっきりしていた。


 ずっと感じていた飢えと渇きがやわらぎ、体温が戻り、そしてようやくものを考えられるようになった。長いあいだ、水のなかに閉じこめられていたように外界がぼんやりと遠く感じられていたのだが、それすら自覚していなかった。彼が来るのがもう少し遅かったら、おそらく完全にデーグルモールに変化してしまったのではないかと思うと恐ろしい。


(でも、もう大丈夫だ)

 祈るように言い聞かせる。

(デイミオンが来てくれた。薬だって与えてくれたわ。……彼がいれば、自分を保っていられる。これ以上、デーグルモールみたいにならずに済む)


 おまじないのように、口のなかで彼の名前を何度もつぶやく。そうするとすこし気持ちが落ち着いてきた。抱きしめてくれる腕の力強さや、耳もとでささやいてくれる、低く、すこしかすれたような声。竜族にとっての「つがいの相手」は、永遠の愛を誓う言葉だ。その言葉の響きが、胸を温めてくれた。


 だが、。 

 最後に見たデイミオンの顔は、胸が痛くなるほど優しい微笑みだった。そのことを思い出すと、なぜか胸騒ぎがする。どうしようもなく不安に駆られてしまう。

 

(早く迎えに来て)

 祈るような思いで待っていると、耳障りな金属音とともに扉が開いた。ずかずかと近づいてくる赤い長衣ルクヴァの男たち。その先頭に立つエサルに、思わず緊張で身体が固くなった。信頼できる王佐だと思っていたのに、いまや彼はリアナをデーグルモールと断じ、処刑したがっている。タマリスでの権力よりも自身の領地や領民を守ることを重要と考える彼の美点が、こんな形で裏目に出るとは思っていなかった。


 だが、エサルは先だってのようにリアナを糾弾することはせず、ただ間近まで来てじろじろと彼女を観察しているだけだった。満足するまで確認すると、連れてきた兵士たちにそのまま見張りを続けるよう言い残して出ていってしまう。


(なんなの?……)

 自分がデーグルモールと化していくのを、わざわざ見に来ているとも思えない。兵士たちを置いていったということは、なにか不測の事態が起こったのだろうか? 

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