2 エスケープ

2-1. だから、彼女を守らせてくれ

 デイミオンが立ち去ると、フィルバートは数をかぞえて塔の窓からあたりを見まわし、その時を待った。手順を復唱し、自分なりの工夫をいくつか付けくわえ、手渡された剣帯や背負い袋にゆるみがないかを確認した。渡された術具は空気を供給するもので、口を覆うように装着する。中腰になって、壁に耳を押しあてた。


 変化はゆっくりと起こった。行きかう衛兵たちの足音がしだいに少なくなっても油断せず、あたりを沈黙が支配するまで待つ。フィルには感じ取ることができないが、ナイル卿と彼の竜が、塔内部の空気をぎりぎりまで薄めている。白竜のライダーというところが重要で、本来は人体に影響する竜術は使えないはずのナイルを罪に問うことがむずかしくなる。


 軽やかな身のこなしで窓枠をまたぎ、もう一方の脚も外側に引き寄せた。強風が髪をなぶり、眼下では見張りの兵が豆粒のように小さく行きかっているが、フィルはにやっと笑った。こんなもの、〈竜殺しスレイヤー〉にはなにほどの高さでもない。


 ――もっとも、縄があればの話だけど。

 慎重な手つきでフックをかけ、身体をゆすりながら伝いおりていく。中二階まで下りると、勢いをつけるために身体を振り子のように数度振り、脚を勢いよくあげた。兵士の詰め所なので鉄格子もガラス窓もなく、たちまち、部屋のなかに躍りこんでいた。慣れた手つきでロープを回収する。部屋のなかはがらんとして散らかっていた。デイミオンの思惑どおりに、兵士たちは各々の持ち場で意識を失っているのだろう。部屋の隅に兵士たちの備品が積んでおかれていた。フィルは術具をはずして兵士の服に着替え、役に立ちそうな備品をいくつか失敬し、食べかけのまま放りだされたパンとハムを口に詰めてから、堂々と部屋を出て行った。


 久しぶりの掬星城きくせいじょう。その内部は騒然としていた。幽閉の塔の仕掛けがバレたのかと思ったが、兵士の流れは〈王の間〉に向かっていた。フィルは一般兵の服装のまま、彼らにまぎれて急いだ。


 〈王の間〉に外から侵入することはできないのは、リアナの護衛をしていた自分には十分わかっていた。しかしまさか、あれは――。目にしたものの驚きで思わず息をのんでしまう。あるはずのない場所にそびえる、金属製の扉。エサル公がたった一人でびだしたもので、性質上、侵入者を感知できるはずだという。いかにフィルバートでも、これだけの兵士(と背後の竜騎手たち)を一度に相手にするなどという蛮勇をふるうつもりはなかった。

 デイミオンの指示どおりなら、じきに、〈王の間〉に忍びこむチャンスが訪れるはずだ。


 静かに呼吸しながら、そのタイミングを待っているうち、独房でのデイミオンとの会話がよみがえってきた。

 

『本当にいいのか?』

 計画を聞いたフィルは、そう兄に尋ねたのだった。

『彼女を奪って、そのまま逃げてしまうことだってできる。オンブリアを離れて、誰も知らない場所まで。それなのに、そこまでおれを信じられる?』

 デイミオンはその問いに答えることなく、弟の顔を思いきり殴った。予想していた動きではあったが、フィルバートはあえて避けなかった。重病人のような顔色のくせに驚くほどのスピードと重さがある拳で、受けたことを後悔するはめになったが。

『おまえしかいない』

 自分のほうがよほど殴られたような、痛みと苦しみでぎりぎりまで追いつめられたような兄の声を思い出す。

『何の見返りも、誰の助けもなく、犯罪者と呼ばれ、同胞に追われることになる。おまえにできるか? 竜祖にかけて誓ってくれ』

 荷物を押しつけ、背後の衛兵たちを気にしながら、彼はほとんど悲鳴のように聞こえる口調でそう尋ねた。


 フィルはこう答えた。


『悪いけど、竜祖は信じていない。それに、もう立てられる誓いは残っていないんだ。全部使いつくしてしまった。でも約束はできるよ、デイミオン。

 ――剣士としての栄誉を。〈ハートレス〉としての矜持を。同胞と家族の信頼を。祖国を、竜祖を。すべて裏切って、誰からも失望され、異国で朽ちてもかまわない。……だから、彼女を守らせてくれ。必ず守り抜くから』

 

 それを聞いたときの兄の顔を、死ぬまで忘れないのではないかと思った。安堵と、なおも残る不安と、それから……いや、邪推はよそう。殴られた頬がまた痛みだしそうだ。


 そして、その時が訪れた。


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