1-6. スノーフォール

 机の脚の刻み目が三十を超えたころ、ナイルがやってきた。


 侍従が開けるはずの扉を自分で開けて、急ぎ足で近づいてくるので、リアナはそちらへ顔を向けた。

「ナイル卿……」

「……陛下!」


 声をあげたきり、呆然と立ち尽くしている。「なんということだ」

 それから、寒さを感じたように肩を抱き、部屋を見まわした。だがすぐに、決然と表情を引き締める。

「遅くなって申し訳ありません、リアナさま。なかなか謁見の許可が出ないので、を使いました。……お許しを」


「非常手段」

 リアナは繰りかえす。アエンナガルで見た、ばたばたと窒息していく兵士たちの図が、ぱっと頭に浮かんだ。黒竜のライダーしか使えないはずの致死の術を、リアナと同じ白竜のライダーであるはずのナイルが使ったのだ。あのときに受けた衝撃は……しかし、いまは遠い。まるで一年も前のことのように思える。


「詳しくお伝えしたいのですが、すぐに人が来てしまいます。手短に」ナイルは椅子にかけたままのリアナの横に、ひざまずくようにして声を低めた。

「陛下を軟禁しているのはエサル卿の指示です。臨時の五公会が開かれて、デイミオン閣下の票をエンガス卿が代わりに投じました。大伯父の代わりに私も席を得ましたが、私とグウィナ卿だけでは、決定をくつがえせないのです……」


 そして、ナイルはデイミオンの伝言として、エンガスから聞いた話を簡単に伝えた。「待って……」リアナは強い〈ばい〉でがんがんと痛む頭で、かろうじて策をしぼろうとした。

「五公会の多数決なら、なにか、方法があるはずだわ――」


 そのとき、ばたばたと軍靴の重なる音がした。

 一瞬、デイミオンかと期待したリアナの予想は、最悪の形で裏切られた。短髪の男が、血のように赤い長衣ルクヴァをなびかせて歩いてくる。


「扉の前の兵士たちを気絶させたのは、あなたの術か? ナイル卿」

「エサル公、あれは……」


 立ち上がって弁明しようとしたナイルが言葉を失ったのを、背後にいたリアナは感じた。地鳴りのような音が響き、エサルの手のひと振りを合図に、床から金属の棒が伸びる。兵が槍を構えるようにすばやく、櫛の歯のように等間隔に、次から次へと屹立きつりつする金属。それが、あっという間にリアナとナイルとを隔てる檻となった。


 ライダー特有の、無詠唱の竜術。そして、人智を超え、自然の法則さえ無視するかのような加工の技は、赤の古竜の力だった。材料はどこからかと見れば、彼の背後には砂袋のようなものを抱えた兵士たちが勢ぞろいしている。

が間に合わず、ネズミが入りこんだようだ」

 皮肉ぶるのでもなく、淡々とそう言う。「扉はもっと頑丈にせねばな」


「こんなもの……陛下を檻に閉じ込めるおつもりですか!?」ナイルが叫んだ。

「今すぐ、元通りに――っ」

 エサルに詰め寄ったナイルは、彼に強くふり払われて背後に吹っとんだ。身長こそ同じくらいだが、筋骨隆々たるエサルに対して、若いナイルは服が余って見えるほど細い。体格差にくわえて、軍人経験の長いエサルとは体力も筋力も比較にならなかった。

「ナイル!」

 背中から檻にぶつかる形で崩れ落ちるナイルに、リアナが駆け寄った。「エサル卿! なんてことをするの!?」

「彼からお離れになっていただこうか」エサルは冷たく言った。「希少な白の竜騎手ライダーを、失いたくはないからな」


 自分が指名したはずの王佐を、リアナは呆然と見上げた。「エサル卿」


「こんなにも長い間、どうやって俺たちをたばかってきたんだ? 体温は、脈拍は? 生きているように見せかけることができるのか?」

 嫌悪にみちた顔で見下ろされ、力なくうなだれる。

「わたしは、デーグルモールなんかじゃない」


 エサルが顔を近づけ、頬を鷲づかみにした。「二本の剣で腹を刺し貫かれても、治療の必要すらなかったのに? 自分の異形を、鏡で見てみるがいい」

 無理やりに顔を向けられた先に見えたのは、首もとからこめかみまでを這うように覆う黒い樹の紋様だった。そして、奇妙なことに、虹彩の色が抜け落ちて灰色になっていた。


「わたしを……どうするつもりなの?」

 鏡に映った自分の姿から目を離せないまま、リアナはそう尋ねた。

 その言葉に、エサルははじめてためらいを見せた。だが、緊張にみちた沈黙のあと、「われわれ竜族の城で、半死者しにぞこないが立って歩くことは許さない」と言った。

 彼がいつ出ていったのか、リアナの記憶には残っていなかった。


 ♢♦♢


 ……がちゃがちゃとカトラリーの音がするのを、ぼんやりと聞いている。いつの間に食事の席についたのか、わからない。また同じ制服、違う顔の兵士だった。


「デイミオンはどこ?」

「存じません、陛下」

 リアナはフォークを手に取り、無感動にうなずいた。

「スープをお温めになりますか?」

 首を横に振る。「デイミオンを呼んで」


 兵士は何ごとかを答えた。が、うまく聞き取れない。

 兵士が退室するまで、リアナは何をするでもなく、食卓の上を眺めていた。


 そして、(何もかもが、とても冷たそうだわ)と思った。サラダの葉野菜にはきらきらと小さな白い粒がきらめいていた。ポタージュは雪の日の泥土のようにさくさくしている。鶏は凍っていて、ナイフが肉を通らなくなっていた。あきらめてナイフを置こうとするが、ふと思い出して、テーブルの脚に刻みを入れた。忘れないようにしなくちゃ。でも、何を?


 目の前に、雪の結晶がゆっくりと舞い降りているのが見えた。息をのむほどに精緻な、それぞれに違った形をしている。


 腕を差し出すと、雪片が落ちてきて、肌の上に長い間とどまっていた。身体中を蔦のように覆う黒い紋様と、白い雪の結晶の取りあわせに、リアナはしばらく見とれていた。音を立てるものもない冬の森みたい。


 部屋のなかを、まるではじめて目にする光景のように、ゆっくりと見まわす。彼女は、白と黒と、その間のあらゆる灰色の色あいだけがある世界にいた。

 

 次に兵士がやってきたとき、リアナはもう、テーブルに並べられた食事には興味を持てなくなっていた。

「お腹がすいたわ」リアナは呟いた。

 並べはじめられていたカトラリーが落ちて、高く金属的な音が部屋中に鳴り響いた。兵士の心臓は、猟師に見つかった兎のように跳ねまわっている。〈呼ばい〉を使わずとも、リアナにはそれがはっきりとわかった。……彼女は鼻を動かして、その温かく甘い血の香りを吸いこんだ。


「お腹がすいたわ」リアナはくり返した。「喉が渇いたの」


 男は真っ青な顔で、もごもごと不明瞭な言葉を口にした。それが不始末への謝罪ではなく、助けを求める祈りだということにも気がつかないうちに、兵士は逃げるように退室した。


 部屋の中に、季節はずれの雪が降りつづけている。

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