8-5. 夜と霧のなかで

 フィルバートは図書室の前を通りかかり、隙間から漏れる光と、かすかな話し声に気がついた。〈鉄の王〉とリアナだろう。扉周辺の安全は何度か確認してあったし、王自身も熟練の武人ではあるので、フィルは扉の前を守るのはやめて衛兵たちのいる望楼ぼうろうへ向かい、階段をのぼっていった。衛兵たちの数人とはすでに顔見知りになっていて、差し入れのワインとフラットブレッドは喜んで受けとられた。


 毛布を借り、柱の近くにスツールを引っ張ってきてそこに陣取った。

 兵士たちは凍える手を火鉢で温めていた。だが、フィル自身は寒さをほとんど感じない。身体の周囲に空気の層を作って、冷気を遮断することができるからだった。


 ひっそりした夜のなかで、すぐ近くに霧が渦巻いている。白竜のライダーとなった今では、その流れのすべてが手に取るように感じ取れた。まるで自分自身が夜の毛布となって広がっているかのようだ。


竜騎手ライダーたちが安全に無頓着になるのも、しかたがないな。これほど遠くまで、はっきりと感知できるんだから……)

 兵士としての自分の能力を卑下することはないが、それでも、自分が苦労して身につけてきた能力をあっさりと上まわる巨大な力は、フィルに複雑な思いを抱かせるのに十分だった。

(まして、リアナは……)


 〈隠れ里〉で再会したときから、ずっとライダーになることを夢見てきた少女だったのに、望んでいないこととはいえその力を自分が奪ってしまったのだ。彼女が自分を恨んでいるとは思わないが、どれほど無力感にさいなまれているだろうと胸が痛む。


 さらに、タマリスに戻ることを考えると、解決するべき問題が山積みだった。

 〈ばい〉が切れて一週間近く経っていることを考えても、王位継承権はすでにデイミオンに移っており、新しい王太子が立っているのは間違いない。いまからリアナが王城に戻っても、〈ハートレス〉となった彼女が王として復権するのは容易ではなさそうだ。


 一番いいのは、もうしばらくニザランに滞在して、クローナンたちの助けを借りながら、リアナがライダーに戻れるかどうかを検証することだ。これなら、タマリスの権力構造に悩まされることなく健康問題に注力できる。復位はその後で考えればいい話だ。だが、リアナは同意しないだろう。


 彼女の身を案じるデイミオンのことを思えば、それも当たり前ではあるが……。だが、二人が夫婦つがいの誓いを立てたのは彼女が王でライダーだった時だ。〈ハートレス〉となった今の彼女を、デイミオンは――そして、エクハリトス家は、受け入れることができるだろうか? ……



「見張りか?」

 もの思いにふけっているところで、ふと話しかけられてフィルは顔をあげた。痩せた小柄な姿と黒髪で、すぐに誰だかわかった。

「クローナン陛下」

 立ちあがろうとするのをいつも通りに手で制止される。

「私はここでは王ではないよ。君も知っている通り」

「なぜこちらに?」

「わが女王が寝ついたのでね、星でも見ようかと思ったわけだ」

 かつては大国の王であった男が、ままごと遊びをするような幼女を王と呼び、のんびりと子守りなどしている。フィルには理解できない感覚だったが、クローナンの顔はたしかに穏やかではあった。かれは自分の毛布を男に差しだした。「ここは冷えますから」


「それも、君が使いなさい。われわれの身体は温度の変化に鈍感でね」

 フィルは落ちつきなく座りなおした。「昔の癖で、つい。すみません」

「構わないさ。私は病弱だったからね」

「侍従たちがいつも、気候の変化を気にしていましたね。あなたが風邪をひかないか、喉を傷めないか、食べる量が少ないとか……」

「私の家系は竜の忠誠度が高い。力を持ったライダーを多く輩出し、その少なからぬ者たちが私と同じく病弱で短命だった」


「やはり、〈竜の心臓〉の使い過ぎは身体に負担が大きいんでしょうか?」

 フィルはリアナのことを思いながら聞いた。


「いや……その仮説を検証するのは難しい。エクハリトス家のように、強大さと頑健さをそなえた血筋もあるからな。脆弱さについては、私の一族は――ゼンデン家もそうだが、長い歴史のなかで血族結婚が多いせいかもしれない。婚姻の相手に十貴族以外の中流貴族が好まれる最近の傾向も、親権のことよりもむしろ無意識に血族結婚を避ける性向が働いているのではないかと思う」


 クローナンがバスケットから杯を取りだしたので、フィルはワインを注いだ。かつて王だった男は優雅な手つきでくるりとひと回しし、晩餐会の食卓であるようにワインの香りをかいだ。「君はすっかりワイン倉の番人を買収したらしいな。私の寝酒よりいいものを出しおって」

 二人は形だけ乾杯し、しばらくはワインをすすっていた。

 

「リアナは――ライダーに戻れるでしょうか?」

 しばらくして、フィルは今一番気になっていることを聞いた。

「ある程度の見込みがなければ、できるとは最初から言っていない。だがなにしろ、われわれのときとは勝手が違うからな」

 クローナンは櫓の外を眺めながら言った。「レーデルルの断片的な話を総合すると、どうやら〈竜の心臓〉は彼女の身体から排出された時点から自己修復をはじめるらしい。修復が成功すれば、おまえが心臓を得たときと同じやり方でもとに戻すことは可能だろう」

 それを聞いたフィルはほっと安堵の息をついた。


「――君たちはしているとレーデルルが言った。血と名前によって結ばれていると。心当たりはあるかね?」

 クローナンが尋ねた。マリウスのように直接ずけずけと聞かない彼の奥ゆかしさが、かえってフィルの顔を赤くさせた。あの嵐の夜、二人は神聖な儀式のように何度も名前を呼び交わしたのだった。血については、言うまでもない。

 かろうじて、「思い当たる節はあります」とだけ答えたが、クローナンにはお見通しだっただろう。


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