素敵な叔父

 

「オーキッドさん、起きてます?」


 涼やかな声が耳に届き、オーキッドは目蓋を揺らした。


 ソファで微睡んでしまったらしい。はっきりしない意識の中で、ぼんやりと状況を把握しようとする。この声はリナリアだと思った所で、どこか楽しげに声は続いた。


「お寝坊さん……」


 くすくすと笑い声が滲みそうな、明るい声音だ。リナリアはこの台詞を気に入っているのか、オーキッドの前で、度々同じ言葉を口にする。


 隣に座る気配がした。リナリアの声も横から聞こえる。


「オーキッドさん~」


 随分機嫌が良い。

 体は重かったが、何とか目を開けると、リナリアに視線を向ける。目が合った彼女は、瞬きを一つすると、にっこりと笑って首を傾げた。


「おはようございます」


 華やかな笑顔が、オーキッドの目を楽しませる。この可愛い姪は、結婚してからというもの、何かにつけてオーキッドをレユシット邸に留まらせようとしてくる。会えば構って構って、と言うように、引き留められるのだが、なつかれているようで嬉しくもあり、なかなか強くは出られない。


「おはよう……リナリアさん。……そうやって言うの、好きだよね」


「そうやって?」


「お寝坊さん」


 欠伸を噛み殺しながら、オーキッドは背もたれから少し体を起こした。リナリアは何が面白いのか、にこにこと「はい」と返事をする。


「オーキッドさんに言われるのが好きです」


 こんな事を言われるものだから、姪に甘いと自覚している彼は、いくらでも言ってやりたくなるのだが、リナリアの寝起きに会う機会が殆ど無いので、結局あまり言うことはない。


「カーネリアン君……旦那さんに言って貰ったら?」


「カーネリアンは、そういう性格ではないので……」


 リナリアはしょんぼりと声を落とす。

 そうだろうか。妻を溺愛するあの男なら、喜んで目覚めに言葉をかけてくれそうなものだが。

 恐らく、リナリアは夫にねだっていないのだろう。それならそれで、自分だけの特権なようだと、オーキッドは僅かな優越感に浸った。


「それに、親みたいな人に、甘やかされている感じがいいんです」


 リナリアの言っている事は、まさにその通りだった。オーキッドはリナリアの事なら、幾らでも甘やかしてしまいそうになる。


「親みたい、って、兄さんがいるじゃないか。君を愛してやまない父親が」


「お父さんが言っている所、想像出来ないです……」


 オーキッドは思わず吹き出す。


「確かに。柄じゃないね」


 グラジオラスなら、リナリアの願いは何だって叶えようとするだろう。娘にそんな可愛い頼まれ事をされたら、狂喜して、人前では冷静な彼も所構わず表情を崩してしまうかもしれない。


「柄じゃないけど、喜ぶのは目に見えてるよ」


 リナリアも概ね同意なのか、否定はしなかった。「でも……」少し恥ずかしそうに言い淀んで、指先を弄ぶ。


「言えないです。子供っぽくて、恥ずかしいから……」


 ここにグラジオラスがいれば、気にするな、存分に甘えてくれ! と言って力強く抱き締めたであろう愛らしさで、リナリアは気恥ずかしいのを誤魔化すように、えへへ、と笑った。


 子供染みていると、自覚はあるのか。

 オーキッドは、それが悪い事だとは思わなかった。

 それよりも、もっと自覚してほしい所がある。リナリアは相変わらず、自身の容姿が特に優れているとは思っていない。誰もを魅了してしまうその表情を、無防備に他人の目に触れさせてはいないだろうなと、オーキッドは心配になった。

 歌姫に叶わぬ恋をする、憐れな信者がまた増えてしまう。


 オーキッドとリナリアの間に、血の繋りは無いが、彼の中に、姪に対する邪な恋情は微塵も無い。

 リナリアが、尊敬する兄とよく似ている事も、そういった対象にならない要因だろう。だが一番の理由は、オーキッドには既に、焦がれる相手がいる事だ。

 それが良かったのかどうかは、今の彼は判断できない。



「親にとって、子供はいつまでも子供だよ。リナリアさんも、そのうち分かるよ」


 オーキッドは自分も独身でありながら、そう説いた。

 言った直後、顔をしかめる。しまった、と後悔するように。

 リナリアは、「そうなんでしょうか……」と言って、何事か考えているのか、一息黙った。

 やがて思考が纏まったのか、リナリアはきらきらとした瞳を目一杯開けて、期待を込めた眼差しで、オーキッドを見つめた。

 それを見てオーキッドは、この先の展開を悟った。自分が危惧した通りになりそうだと。


「そういうオーキッドさんも、独身ですよね」


 案の定、予想していた話の流れになる。

 リナリアにその気は無いのだろうが、天使のかんばせも、今は少々意地悪に見えた。


「まあ、そうだね」


「オーキッドさんはいつ結婚するんですか? 式は何処で? もしかして、まだプロポーズしてないですか?」


 悪戯を仕掛けるように、矢継ぎ早に尋ねてくる。彼女は、オーキッドが結婚すると信じて疑っていないようだ。


「いや、そんな相手はいないから……」


 オーキッドはまたしても、言葉を間違えた。これでは薮蛇である。


「ビオラさんがいるでしょう」


「ビオラは妹です」


 断言されて、つい丁寧に返してしまう。


「え、でも好きですよね」


「何を言っているのかな」


「オーキッドさんこそ何を言っているんですか。さっきの言い方だと、オーキッドさんも子供が欲しいように感じましたけど。結婚は早い方が良いですよ」


「そんなつもりで言ったわけでは……」


 オーキッドは頭を抱えたくなった。リナリアは、自己評価が低く、他人からの好意に疎い方だが、オーキッドの事に関しては勘がいい。

 リナリアの言っている事は間違っていないのだ。


 オーキッドが養子であり、元々貴族だったわけではないと、リナリアに話した事があった。

 彼女は、ビオラとオーキッドの関係を気にしていたようだが、それだけで何か察したようだった。

 オーキッドから打ち明けた訳でもないのに、リナリアは当然のように知っている。


「ビオラさんの事、好きでしょう?」


 今まで散々否定してきたことも、この瞳に見据えられては、同じ言葉を返せない。

 嘘をつけなかったオーキッドは、目を逸らして、質問から逃げた。


「子供の話は、兄さんの事だよ。あの人はいつまで経っても、リナリアさんの事が大好きだって話」


「話を逸らさないで下さいよ~」


 リナリアは逃がしてはくれなかった。


「……今日のリナリアさんは、少し意地悪だね?」


 リナリアは、予想外な事を聞いた顔をして、「そうかもしれませんね?」と言った。

 情報通の男を彷彿させる表情だったので、今度は確信犯だな、とオーキッドは思う。無論、そんな表情のリナリアも、美しさは全く損なわれていない。

 大分サーシスに影響されているらしい。

 ただ、このような会話を楽しみたくても、夫や父には遠慮してしまうというのなら、オーキッドは喜んでからかわれてあげよう、と開き直る事にした。


「二人の馴初めをまだ聞いてませんよ」


「あ、もうリナリアさんの中ではストーリーが出来上がっているみたいだね」


「とんでもない。オーキッドさんから直接聞くまで、完成しないんですから」


「やっぱり作っているじゃないか」


 覚悟を決めたにしても、長い時間リナリアを独り占めしていると、苦情がくる。主に彼女の嫉妬深い夫から、妻に見えない絶妙な位置で睨みが飛んでくる。

 カーネリアンが隠しているその感情も、リナリアにとっては嬉しいものだろう。もっとさらけ出せばいいのだ。そうすれば二人の時間も増える。オーキッドの所ではなく、夫にもっと甘えるようになる。それをオーキッドは寂しく感じてしまうのも、また面倒な問題だが。


 グラジオラスも面倒だ。彼の場合は、ひたすら羨ましそうに見ているのだ。リナリアに鬱陶しく思われない限界を見極めているようで、リナリアから来られると大歓迎なのだが、自分からだと躊躇する。だから、自分からは殆ど行かないのに、リナリアから寄っていく事が多いオーキッドが羨ましいのだろう。

 リナリアは本当に愛されている。


「また仕事に行かなくちゃいけないし、長くなるから、その話は帰って来てからするよ。先に言っておくけど、期待するような話は無いよ」


 立ち上がったオーキッドは、軽く体を伸ばすと、「それから」と再びリナリアを見る。


「夫婦円満でありたいなら、カーネリアン君にあんまり遠慮しないこと」


 少し困惑顔のリナリアに、続けて言う。


「兄さんは割りと簡単だけど、カーネリアン君は君の言葉じゃないと納得してくれないからね」


 グラジオラスはオーキッドの言う事を聞き入れる事も多いが、カーネリアンはそうもいかない。オーキッドが取り繕って言っていると考えて、あまり誤魔化されてくれないのだ。


 リナリアは、素直に「分かりました」と返事をした。

 照れた様子だったので、これもきちんと伝わっているだろう。

 カーネリアンの方は、夫なので勝手になんとかしてほしい。

 後はグラジオラスの援護をしてから旅立つ事にする。


「リナリアさん、兄さんに甘えるのが恥ずかしいなら、向こうが勝手に甘やかすのは?」


「…………嬉しいです」


 似た者親子である。

 リナリアの思う甘える行為とは、物を強請ったり、相手に全て頼りきる事ではない。ただ日常の、ささいな触れ合いのことだ。

 グラジオラスの愛するリナリアは、そういう娘なのだ。


「じゃあ、それとなく言っておくよ」


 オーキッドはとてもいい笑顔で、ぱちりと片目で瞬きをした。

 リナリアの「え?」という疑問の声は聞こえない振りをして、時計を見ながら「急がないと!」と言って歩き出す。

 わざとらしかった。

 立ち上がろうとしたリナリアに、見送りはいいと告げて、部屋を出ると、グラジオラスの部屋へ向かう。


 用件を手短に伝えると、オーキッドはさっさと出発した。帰ってきた時には、またリナリアに質問されるだろうが、今は悪戯を仕返した気持ちだった。歌でも口ずさみそうな上機嫌で、馬車の中から遠ざかるレユシット邸を眺める。


「いいことしたな~」


 頬杖をついて、オーキッドは呟いた。




 オーキッドとほぼ入れ違いに、グラジオラスがリナリアのいる部屋にやってきた。急いで来た様子に、リナリアは驚いて立ち上がる。

 娘の前まで歩いてくると、グラジオラスは突然真顔で「気にするな」と言う。


 リナリアがぽかんとしていると、堪えきれなくなったように、グラジオラスが笑み崩れた。


「存分に甘えてくれ。その方が、私も嬉しい」


 そう言って、グラジオラスは娘を強く抱き締めたのだった。





 カーネリアンが仕事から帰ると、妻がいつも以上に愛らしく擦り寄ってくるので、然り気無く理由を尋ねた。すると、昼間、父との間にあったやり取りを聞いて、妻の機嫌がいい事にカーネリアンは納得する。状況は嬉しいが、理由が面白くないと思っていると、「オーキッドさんに言われたんだけど」と、リナリアが囁く。

 聞き逃すまいと、カーネリアンがそっと顔を寄せると、リナリアはほんのり頬を赤く染めて、ぽつぽつと続きを口にする。


「カーネリアンは、今でも私の事、大事にしてくれてるけど……ずっと夫婦円満でいたいから……遠慮しないで、今日は甘える事にする」


 言い終えたリナリアは、ぎゅっと固く目を閉じて、夫の頬に唇を触れさせると、すぐに離した。熱くなった顔を埋めて、カーネリアンの体に絡み付く。

 リナリアはそれきり無言だったが、ここで読み違えるほど、カーネリアンも愚かではなかった。




 カーネリアンはこの日、大いにオーキッドに感謝した。

 レユシット家の夫婦仲は、相変わらず円満である。






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