56 別れ

 

 目覚めと共にリナリアは体を起こす。

 やるべきことを反芻した。

 今日は最後の日だ。少しだけ街を見て回るつもりである。正午に、レユシット家から迎えが来る。それまでまだ、時間があった。

 部屋の窓からは、教会が見える。幼い頃は背伸びをして眺めていたが、今は低いくらいだ。窓枠に手をかけて、窓を開ける。冷たい風が入り込んだ。まだ少し薄暗いが、空は晴れそうだ。

 深呼吸して、窓を閉めると、リナリアは身支度を始めた。



 教会はもう明かりがついている。林に囲まれた敷地に、人の姿は見えない。リナリアは教会の中に入ることはせず、林をぐるりと歩き回った。ここは子供たちの集合場所だった。幸せだった子供時代を思い出し、感慨に耽る。

 林の真ん中に教会、少し端に小さな公園がある。ここでフリージアと喧嘩したのだ。リナリアが一方的に暴言を吐いただけだが。

 公園と言っても、本当に小さなものだ。少し開けていて、その場所だけ木が生えていない。地面は草が刈ってあって、土で固めてある。小さな広場の端に、申し訳程度に細長い木の椅子が二つ置いてあるだけ。

 椅子に掛けると、日当たりが良くないことにも気が付いた。木々に囲まれているのだから当たり前だが、少し肌寒い。リナリアはすぐに立ち上がって、次の場所に向かった。


 学校へは、一日数時間程度しか通っていなかったが、払った金額分は、休まずに行った。まだ早朝、ほとんど人がいない道を歩きながら、横目で学校を眺める。お金といえば、母がまだいた頃、貯金があるから大丈夫だと言われて疑問に思ったことがあったが、父が貴族だと知った今、何となく予想はつく。明らかに裕福には見えない我が家には、母が決して手をつけなかったお金があったのだ。

 学校には特に思い出がない。リナリアは真面目に勉学だけをこなして、友人付き合いは全く無かった。リナリアには色々な噂があったため、積極的に話しかけられる事も無かったのだ。

 一生懸命学んだつもりだが、やはり時間は足りなかったと思う。リナリアは決して頭が悪いわけではないが、人より知識量が劣っている自覚があった。

 学校から引き返し、左手に図書館、右手に病院を挟む道を進む。しっかり舗装された道路は、見た目にも整っていて、歩きやすい。大通りではなくても、小さな馬車が行き交えるくらいの幅はあった。

 病院の角を右に回ると、斜め前方に屯所が見えた。カーネリアンの職場だ。隣の広い公園にはたまに行く事があったが、屯所は詳しくない。カーネリアンが今日非番かどうかも分からなかったが、早朝当番で会えないかなと、ほんの少し期待した。確かに早朝でも人がいるようだったが、リナリアが通り過ぎる時、誰かが顔を出すことは無かった。


 大通りを真っ直ぐ進んで行くと、商店街がある。さらに奥まで行けば、大きな川があるのだが、そこが街の切れ目となる。橋の向こうには街の門があり、大抵は開いている。昔の名残で、形だけあるようなものだ。以前オーキッドに、王都から送ってもらった時は、橋を越えて馬車をつけてくれたので、今日も恐らく川の手前で合流することになるだろうと思う。


 商店街は開店前だが、そろそろ人も増えてくる。そうなる前に、家に戻ろうと思った。

 カーネリアンと買い物をした道、ミモザと行った雑貨屋、オーキッドと食事をした店……少しだけ眺めて歩いて、足を止める。一度深く息を吸った。もう、十分見て回っただろう。

 息を吐き出す。

 リナリアは体の向きを変えて、来た道を引き返した。




 リナリアは時間になると、街の橋まで向かっていたが、道中、自分が妙に注目されているような気がしていた。

 商店街に入った時もおかしかった。人が少なく、休業している店も多い。

 変に思いながらも、橋まで辿り着く。

 見送りに来ると言っていたミモザと、フリージアの姿を見つけた。すぐ近くに、カーネリアンの姿も見える。ランスがいるのもいつもの事だ。

 カーネリアンと、目が合った気がした。

 カーネリアンには、ミモザから伝えるように頼んでいた。直前に、見送りに来てくれないか、聞いてみて欲しいと。あくまでも直前に。だから、ここまではいい。

 問題は、見送りの人がそれだけではない事だ。

 明らかに人数が多かった。しかも、勘違いと思うには、皆リナリアに注目しているように見える。

 数十人もの人々が橋の前に集まって、リナリアを待っていた。

 これは何事かと、ミモザに目を向けると、一言、「よんじゃった」と言う。意図が分からず混乱した。


「さすがに街で有名な歌姫が突然いなくなったら、皆びっくりするでしょう? 質問ぜめにあうのは私なんだからね? 面倒だから先に説明しといたの」


 ミモザは悪びれずに続けたが、リナリアは怒るどころか逆に反省した。有名かどうかはともかく、確かにリナリアがいなくなったら、直前まで親しくしていたミモザに質問がいくだろう。

 リナリアは申し訳なさそうに頭を下げた。ミモザは「いいのよ」と軽く流す。



 カーネリアンは睨みつけるくらいの勢いで、リナリアを見ていた。実際、リナリアが今もう一度カーネリアンに目を向ければ、睨まれていると思っただろう。

 カーネリアンは、本当に今日まで、何も知らされていなかった。

 入れ違いのように、ミモザとフリージアがカーネリアンを訪ねてきて、説明を受けるまで、何も。

 ややこしい誤解を受けている事に気付けなかったのは自分の落ち度だと思ったが、それにしても、あまりにも蚊帳の外過ぎて言葉も出ない。

 カーネリアンはリナリアに対して、怒りにも似た感情を抱いた。そんなに、リナリアにとってカーネリアンの存在はどうでもいいものなのかと。

 リナリアが街を出ると聞いて、何故そんな事になったのかと、誰かにあたりたくなった。オーキッドとリナリアが出会った時から、嫌な予感はしていた。だが、まさかリナリアが、こんなに早く生まれ育った街を出て行くとは思わなかったのだ。

 そんなに貴族がいいのか。

 一瞬、そんな思いが頭を過ぎる。

 リナリアは確かに、貴族の令嬢のように気品すら感じさせる容姿をしている。本人も努力家だから、王都でやっていけない事も無いと思う。だが、声が出ないリナリアは、そんな冒険はしないだろうと、心のどこかで思っていた。カーネリアンは、散々消極的な事を言いながら、ここに来てようやく自分の考えをはっきりと理解する。

 ずっと自分が、リナリアの面倒を見ようと思っていたのだ。

 呪いを受けて孤立した時も側にいた。母親が倒れた時も、リナリアが一人きりで暮らすようになってからも、一番近くにいたのはカーネリアンだ。

 いつも駆け寄ってくるリナリアが可愛かった。

 カーネリアンは、自分なんかがリナリアに釣り合うはずはないと言い聞かせながらも、その実、誰も割り込ませない。

 ずっとこの関係が続けば、自然な流れで、カーネリアンが選ばれるのではないかと。

 リナリアの性格だ、他の地へ婿探しに行く事もないだろう。いい時期に、一番支えてきた人間が側にいれば、安易な道を取るかもしれない。

 無意識ではそのようなことを、ずっと期待していたのだ。


 馬車の音が響いてきて、リナリア達は橋の向こうに目を向けた。

 前にも見た事がある馬車が近づいてくる。レユシット家のものだ。

 カーネリアンは馬車を見て、目付きを険しくさせる。これからリナリアを奪っていく馬車だ。憎くないはずが無い。

 馬車が止まる。リナリアはオーキッドが降りてくるのを待った。

 扉が開いて、誰もが注目する中姿を現したのは、暗い茶髪の、人好きをする笑みを浮かべた男性――では、無かった。

 オーキッドの容姿を思い浮かべていたリナリアは、驚いてその人物を見つめる。

 驚いたのはリナリアだけではなく、その場にいた人間全員が目を見張っていた。

 カーネリアンも、てっきりオーキッドが来るものだと思って睨みつけていたのだが、意外な人物に固まる。とはいえ、カーネリアンは初対面だ。

 だが、初対面でも、その人物が何者であるかは、一目瞭然だった。


「迎えにきた、リナリア」


 リナリアと同じ瞳、同じ髪色の、麗しい男性――グラジオラスが、優しい声音でリナリアに声をかける。

 目じりを細めて笑いかけるその表情は、父が娘に向ける愛情を湛えていた。


 リナリアはグラジオラスに駆け寄った。抱きつきたい衝動に駆られたが、寸前で思い留まる。人目が気になった。

 グラジオラスは、抱きついてくれるものと思っていたようで、両手を構えて待っていた。リナリアが立ち止まると、残念そうに、眉を下げる。


「何だ、甘えてくれないのか?」


 リナリアが照れてしまって、視線を彷徨わせていると、グラジオラスから、軽く抱きしめてくる。体はすぐに離された。


「待ちきれなくて、オーキッドに役目を代わってもらった」


 グラジオラスの言葉に、リナリアは微笑む。手振りで、少し待っていて欲しいと伝えると、グラジオラスは、「分かった。見送りの人たちに挨拶もあるんだろう」と言って頷いた。正しく理解してくれている。


 リナリアはカーネリアンを見据えた。今度は確実に目が合っている。リナリアはそれを確かめて、手に持っていた布袋から、石を取り出した。今は、手帳を持っていない。

 石を強く握りこんで、願う。石がじわり、と熱を帯びた。

 目を合わせたまま、カーネリアンがリナリアに歩み寄ってくる。何か言いあぐねているようだ。機嫌はあまり良くないように見える。

 結局最後まで、嫌われたままだったなと、これまでの事を思いながら、リナリアは口を開く。


「カーネリアン」


 好きな人の名を呼ぶ。

 カーネリアンが息を呑むのを見ながら、リナリアは、己の声で言葉を紡いだ。


「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」


 自分の声はこんなのだったかと、不思議な気持ちになる。

 喉が震える。声が出せている。これは一時的なものだと分かっていたが、自分の声で話せることが嬉しかった。魔法の石の効果は本物だったのだ。

 だが、普通に話すのは久しぶりで、上手く喋れない。言いたい事は、考えてきたはずなのに。


「側にいてくれて、嬉しかった。声が出なくなった時も、カーネリアンだけが一緒にいてくれた。いつか直接お礼が言いたいと思っていた。今日声が出るのは、一時的なものなんだって。呪いが解けた訳じゃない。だから、今日だけなんだ……」


 カーネリアンは、リナリアの声に耳を傾けている。

 リナリアの声に、誰もが聞き入って、場は静まり返っていた。

 グラジオラスも、初めて聞いた娘の話す声に聞き入りながらも、サーシスが何かしたのかと、的確な推測をする。


 リナリアは迷った。大好きだと、言ってしまおうか。

 でも、こんな大勢の前で振られるのは嫌だ。

 これが最後の機会だ、もう二度と言えない。

 でも、フリージアも見ている。


「……最後は、カーネリアンのために歌ったよ」


 それが精一杯だった。

 リナリアとしては、際どいが、まだ告白とは取られないと思っている。一番の親友に、感謝しています、という感じで伝えたかった。

 しかし、その場にいた人間は、言ってしまえば、リナリア信者ばかりだ。勿論、昨日の教会での歌も聞いている。

 彼らからすれば、これ以上無い熱烈な告白に感じた。

 周囲が少しざわめいて、ミモザもしきりに頷いている。フリージアは顔を赤くして、カーネリアンを羨ましそうに見ていた。


 リナリアの話し声が可愛らしい。歌声も素晴らしいが、話すときも耳に心地よい澄んだ声に、見送りの人々は聞きほれた。

 昔は我がままだったリナリアが、素直に感謝と好意を伝えている姿も、感慨深いものがある。

 頬を染めてカーネリアンを見上げるリナリアは、恋する乙女そのもので、大変可愛らしかった。


「……俺、昔から教会に通って、リナリアの歌聞いていたよ」


 カーネリアンの言葉に、リナリアは意外な事を聞いた、という顔をした。リナリアは結局、カーネリアンがこっそり教会に通っていた事に気付かなかったのである。


「もう隠れないから、リナリア、また教会で歌ってよ。待っているから……」


 カーネリアンは懇願するように言ったが、リナリアは約束出来ない。

 もうこの街には来ないし、歌声も失うかもしれないのだ。

 曖昧に微笑んで、リナリアはカーネリアン達に別れを告げた。


「さよなら、カーネリアン」


 さよなら、と言われた時に、リナリアに拒絶されたような気がして、カーネリアンはそれ以上何も言えなかった。


 カーネリアンは恋愛事にはとんと疎い。

 これはもう、死んでも治らない位ではないかと、後にランスはカーネリアンに溢した。



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