35 レユシット邸③
亜麻色の髪だ。
深い、青の瞳が、リナリアを見ていた。
リナリアも、自分と同じ色彩を持つ男性を見つめ返す。
グラジオラスは無表情である。
先程、オーキッドと話している時は、まだ柔らかい印象を受けたが、それが気のせいだと思うほど、視線は冷ややかだ。
何か粗相をしただろうかと、リナリアは縮こまる。
グラジオラスが先に視線を反らす。
リナリアはほっとして、少しだけ体の力を抜いた。
グラジオラスの溜息が聞こえたので、すぐに緊張は戻ってくる。
(お、怒っているのかな……)
リナリアは思わず視線を床に固定してしまう。
「オーキッド。何となく事情は察したが、裏はとれているのか」
グラジオラスの口調は淡々としており、感情は読み取れない。
「いや? 兄さんに聞いたほうが早いと思って。心当たりがあれば、間違いないだろう?」
オーキッドは飄々と返す。
「……」
眉間に皺を寄せて、険しい顔をする。
無言は肯定だった。
「心当たり、ある?」
確信を持った声で、オーキッドが再度問う。
答えたくないように見えたが、最後の足掻きとばかりに、グラジオラスはリナリアへ問いかけた。
「君、母親の名前は何という」
リナリアは一度オーキッドに目線を送る。だが彼はリナリアの母親の名前を知らないので、答えられない。
「書いてもらってもいい?」とオーキッドが促すので、リナリアはいつもの手帳に、母の名前を記した。
恐る恐る、オーキッドに差し出す。
その様子を見て、グラジオラスは眉を顰めた。リナリアは彼の態度が恐ろしく、またすぐに俯いた。顔を上げられない。
オーキッドが代わって名前を告げる。
「アザレア」
――と、いう名前みたいだよと、間を空けてオーキッドが言う。
リナリアがグラジオラスをそっと盗み見た時、名前を聞いた彼は、確かに悲痛な表情をした。
彼はもう一度、長い溜息をつく。
「……隣街と言ったな」
「ああ」
「彼女は……結婚しているのか?」
「………」
グラジオラスの声は重かった。
何と返せば良いか分からなくなる。真っ先に聞いてくる彼の発言から、まだ彼の人に未練があるように思えてならない。
「彼女というのが、アザレアさんのことなら……結婚はしていないと思うよ」
確認のため、オーキッドはリナリアを見た。視線を向けられた彼女は、頷いて肯定する。
グラジオラスが何を思っているかは分からないが、彼はぶっきら棒に「そうか」と呟いた後、腕を組んで悩ましげに、事実と認めた。
「恐らく、お前の考えている通りで合っているよ、オーキッド」
やはりそうか、とオーキッドは思う。だが予想通りでも素直に喜べない。
先程の口振りでは、まるで……
「兄さん……」
彼は、アザレアの死を知らないのではないか。
事実を確認する前に、グラジオラスが先に口を開いた。
それはリナリアへの確認で、何処か遠慮がちでもあった。
「彼女は今、どうしている? ……君は、一緒に暮らしているのか?」
もう疑いようがない。
彼は知らなかったのだ、数年前、リナリアの母親が亡くなったことを。
そもそも知っていれば、リナリアのことも知っていそうなものなのだ。
更に絶望的なのが、グラジオラスは明らかに、今は亡き人に、深く想いを寄せているだろうということ。
これからオーキッドが告げることは、彼を苦しめることになるだろう。
オーキッドもこれまで気付けなかった。彼の中で、彼女はまだ過去の人ではないのだ。
忘れられない人ではあるが、はっきりと失恋して、その上で結婚しないのだと思っていた。
リナリアが困ったように、目を伏せる。
手帳に書き込もうとしていたので、オーキッドは手で制した。
「兄さん……言いづらいんだけど……アザレアさんは、亡くなっているんだ」
その時グラジオラスが浮かべた、悲しみを湛えた表情は、アザレアの名を聞いた時の比ではなかった。
きっと誰から見ても、大きすぎる衝撃を受け止めきれていない様子だった。
「あ……」
グラジオラスは声にならない呻き声をあげ、片手で顔を覆った。
それきり何も言わない。
これまで見たことがない異様な兄の様子を、ビオラは心配そうに見守っていた。
「そうか……そうか……」
聞き取れないほど小さな声だった。
彼は後悔しているようにも見える。
こんなことは予定になかった……オーキッドは兄を思い、沈痛な気持ちになった。
グラジオラスの過去に、一体何があったのだろう。
横目でリナリアの様子を窺う。彼女も戸惑っている様子だった。
「……リナリアさんには、泊まってもらうつもりで来たから、部屋まで案内してくるよ。……俺はまた、戻ってくるから。ビオラはどうする?」
リナリアをずっと立たせたままにもしておけず、退室することにする。
この状態のグラジオラスと残されるビオラが不憫に思えたので、一応助け船を出した。
しかしビオラは、「私はまだここにいるわ」と、グラジオラスの向かいに座ったままだ。
彼女も事情は察していた。兄が心配で、側についていようとしてくれる。
「分かった」
短く返すと、オーキッドはリナリアに部屋を出るよう促す。自らも廊下に出ると、静かに扉を閉めた。
リナリアにも、グラジオラスは悲しんでいるように見えたが、どうにも納得出来ずに、もやもやと気分が晴れなかった。
リナリアにとって、母は大切な人だ。だがリナリアが生まれてからの十数年間、父親は一度も会いに来なかったのだ。
後悔するくらいならば、会いにくれば良かったのにと、何処か冷めた気持ちでいた。
事情があったのかも知れないが、失ってからでは遅いというのに、何故彼は行動しなかったのだろう。
仮として、父親が母を愛していても、程度は知れている。
自分の方が母を愛しているし、母もそうに違いないと、グラジオラスに対抗心を抱いた。
リナリアがそんな風に思うのは、忘れかけていた記憶が、唐突に刺激されたからだ。
知りたくもないことに気付いてしまいそうだった。
記憶の蓋を閉じるように、リナリアは考えるのをやめる。
歩きながら考えていたので、いつの間にかリナリアが泊まるための部屋の前に着いていた。
「リナリアさん、世話係の女性を一人つけるけど、同世代のほうが気を使わなくて楽かい? 一応、もう少し年上にも候補はいるけど……」
世話係と聞いて、とんでもない、と思って首を振った。自分には必要ないと伝えたのだが、オーキッドは眉を下げた。
「でも、ここは広いし、何かと必要な時に、いたほうがいいよ。危険はないけど、レユシット家にいる間は快適に過ごしてもらいたい。神仕えさんにも、リナリアさんのことは頼まれているからね」
神仕えのことを出されると、あまり強く許否出来ない。
別段どうしても嫌なわけではなかったので、結局リナリアは了承した。
日も落ちて、晩餐の時間が近付く。
客人をもてなすとあって、料理人たちにも気合いが入っていた。
準備の傍ら、使用人たちの間では噂が飛び交った。
リナリアはただの客ではない。特別なお客様だと。
それは一目見た時から明らかだった。
美しい容姿に対して、類を見ない、とたまに言うが、その同類がこの屋敷には存在するのである。
男性ながら大変麗しい容姿のグラジオラスと、並ぶほどの美貌の持ち主はそうはいない。
それが、女性であり、性別も違うにも関わらず、色も、顔の作りも、同じ種類の美しさを持つリナリアが現れた。
当然だが、全く同じ顔をしている訳ではない。年齢が違いすぎるし、男女の差もある。
だが、面影があるのだ。
若い頃のグラジオラスが、そのまま女性だったらこうなっただろう、という姿である。
他人であるはずがない。
「グラジオラス様に隠し子か……」
「まだそうとは限らないじゃない? 親戚の子かもよ」
「あれだけ似てたら、流石に実子でしょ」
「どうするのかな? レユシット家に迎え入れるのかしら」
「私、まだ名前を存じ上げないんだけど、なんて呼ぶべき? お嬢様?」
「皆気が早いわね……因みにリナリア様っていうらしいわよ」
「リナリア様か……」
女性の使用人達の今日の話題は、全てリナリアの事である。
男性陣では、彼女達ほど気軽に噂話をしてはいなかったが、隙があれば話題に上った。
何にせよ、グラジオラスを敬愛する彼等の中に、リナリアへ悪い印象を持った者はいなかった。
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