重犯罪者
酒井小言
第1話
いやだ! わたし、死刑になるわ!
突然なにか得体の知れない巨大な物(者?)が口をとがらせ、ロウソクの火を消すようにわたしに息を吹きかけ、川沿いのサイクリングロードを歩いていたわたしの足は止まった。柔らかな土の匂いが混じる乾いた草の香りは、冷たい風に運ばれたどぎついドブ臭さにたわいもなくかき消され、脂っこい虹色の泡をたてた粘着質の水が、膜を張るように鼻の奥にこびりついた。肩から下は力なく地面に垂れてしまい、首から上だけが重さを感じた。
わたしは、はるか遠方を眺めた。薄水色の空を背景にコンクリートの橋台につながった白緑色の橋が水平に横切り、玩具(おもちゃ)のような白い四トントラックと橙(だいだい)色のバスがその上をゆっくりと走り、そのそばを自転車に乗った人間がぜんまい仕掛けらしく橋を動いていた。
「ああ、ああ、三人も殺したら死刑確定だわ! どうしよう、わたし死刑確定だわ。ああ、どうしよう、どうしよう、捕まったら死刑だわ! ああああ!」
取り返しのつかないことをしたのだと気がつくと、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の首吊り場面がはっきり頭に浮かび、愕然(がくぜん)とした。左手に持っている打刀(うちがたな)の柄を力一杯握りしめ、右手でコーディロイジャケットの襟(えり)をつかみ、腋(わき)をおもいきり締めてこみあげる震えに耐えた。
「逃げなきゃ! はやく逃げなきゃ! 警察に気づかれる前に国外へ脱出しなきゃ。いやだわ、逃げなきゃ! でも、いったい、どこへ逃げればいいのかしら?」
今日の夜には日本から離れなきゃいけないと思ったが、ヘドロ臭さが鼻について考える力を失い、ぼんやりしてしまった。川上から吹く不潔な風に背中をやさしく押されて歩きだすと、足は水を含んだように重かった。腕を動かすのを忘れ、尖った切っ先が凹凸(おうとつ)のない地面にひきずられて鋭い白線を残した。思い出したように歩調に合わせて腕を振ると、刀身はチョークみたいに軽いくせに、柄は鉛のように重く、バランスが悪かった。神経的なか細い指は柄にしっかりと根を張り、食い込み、本当に鉛を掴(つか)んでいると思った。
刀身を顔の前にかざすと、白銀色の鎬(しのぎ)にはアクリル絵具のような茶色の血がこびりついていた。材質はアルミだろうか、普段使うノートパソコンを思い浮かべて、刀も軽量化が進んでいるのだと妙に感心してしまった。
「安心して身を隠せる場所ってどこかしら? どこか、安全な場所ないかしら?」わたしは歩きながら何度も自問した。タータンチェックの赤いスカートは濁った風に合わせておだやかになびいた。
「日本の警察はもちろん、現地の警察にも気づかれちゃいけない。でも、いったい、どこかしら? 変装するのは楽しそうだけど、こそこそするのはイヤだわ。肩身の狭い思いをするのは我慢できないわ! どこか、堂々と生活できる場所はないかしら?」
ムートンのブーツを履いた梢(こずえ)の足はとぼとぼと歩き、わたしは考えつづけた。
「日本人がいてもおかしくない場所といえば、アジアかしら? モスクワかブエノスアイレスがいいけど、目立ってしまいそうだわ。やっぱりアジアかしら、でも、不潔で、野蛮で、品がなく、汚らしそうだわ」わたしは足を止めた。
「なにぜいたく言ってるの! 捕まったら死刑よ! 汚くても我慢しないといけないわ」
頭を大きく二三度振った。肩にかかるこまやかな黒髪はレースのカーテンみたいに舞うはずだったが、ところどころに血がこびりつき、引き上げられたばかりの海藻のように重々しく揺れた。
「ああああ、どうしよう! どこへ身を隠そう? ああ、こんな時に逃亡ガイドブックでもあったらいいのに、『世界逃亡ガイド! ひっそり世界へ羽ばたく重犯罪者たちのバイブル! 決定版!』みたいな本はないかしら? 宝島社から出ていないかしら? こんなことになるなら、ちっとも役に立たないスピリチュアルや仕事術、脳科学の本じゃなくて、もっと実際に役立つ本を読んでおけばよかったわ!」
川岸には背を丸めたススキが広がり、わたしは左腕に持っていた刀を扇形に振った。白い穂先が数十本落ちた。刀身にはやわらかな穂がかすかにこびりついた。「ああああ! 人だ! 人が歩いて来るわ! どうしよう?」
サイクリングロードの先に小粒の人間の姿が見えた。わたしは右手に広がるサトイモ畑にとびこみ、くずれたハート型の葉を斬らないように注意してかきわけた。
黄金色の葉が地に積もる銀杏(いちょう)の木にもたれかかり、体の力を抜いてはずんだ息を落ち着かせようとした。左足の脛(すね)がやけに激しく痛み、のぞいて見ると、黒いタイツが斜に切れて赤い血をにじませている。気づかないうちに刃をぶつけていた。傷は骨まで達してそうだったが、黒いタイツがだめになったのが悲しく、ブーツに血が垂れないか心配になった。だが茶色だったブーツはすでに赤黒く、また畑の土で汚れきっていた。
「姿は見られたかもしれないけど、はっきりとはわからなかったはずよ」
しだいに足音が聞こえ、一歩ごとに音はふくらんでいく。「ワン! ワン!」突然犬がかんだかく吠えた。すると近くの木立から数羽の雀が一斉に散った。「ウー、ワンワンワン! ワン! ワンワン! ワン! ワン! ワンワン!」犬は情緒を煽(あお)るかのように吠え続け、わたしの胸の鼓動は腹立たしさにかき消された。足音はすでに聞こえなかった。
「そんなに吠えてどうしたの? トリッキー? 得意のかんしゃくが破裂したの? それとも何か気に入ったものでもあるの? ああ、そんなに首を伸ばして興奮しちゃだめだって、首がもぎとれちゃうよ。ああ、もうっ」
落ち着きをふくんだ女性の声がして、けたたましい音が近づいてくる。
「ああ、やめて! 来ないでよ! どうしよう? どうしよう?」尖(とが)ったあごをさすりながらわたしは考えをめぐらし、すぐに頭を切りかえた。音が心臓に響くほど近づいてきたら、吠えたことを咎めるように無理やり音の元凶を止め、息をつかず飼い主の首を切り落とすと決めた。うるさかったのでまずは犬を仕留めようと迷うことなく思った。
すぐに音は近づいた。左腕の力を抜いてさきほどススキを斬った時をイメージしてから、木を回り込むように素早く体を動かした。
わたしはあっけにとられた。幼馴染の伊木ちゃんが、微笑(ほほえ)みながら犬に引ぱられている。
「中田さん? 中田さんじゃない!」わたしにすぐ気がつき、背の低い伊木ちゃんはうれしそうな大声をあげた。
「えっ! 中田さん、こんなところでなにしてるの? すごい! なんてエキセントリックな格好しているの! ねえ、その刀なに? なにしてるの? なにやら楽しそうね!」
眼の大きさが際立つ端整な顔の伊木ちゃんは、屈託なさそうにわたしの眼を見て言う。前髪が綺麗に揃い、白いダッフルコートの背中を黒髪が艶(あで)やかに流れていた。右手には赤いリードを巻きつけて持ち、その先には栗色のミニチュアダックスフンドが全身を使って吠えていた。
「えっ? なにって? 刀狩、刀狩よ、刀狩をしていたのよ! わたし、最近ヨガのかわりに刀狩をするの、とても健康にいいのよ」わたしは左手の打刀を見せつけるよう縦に振った。
「へえ、そうなの? 今の日本は刀狩が流行っているんだね。でも、刀狩ってなに? わたし知らないよ」伊木ちゃんは一段と眼を大きく開き、わたしの眼を見つめて言う。
「あら、伊木ちゃん知らないの? 歴史の授業で習ったじゃない? 豊臣秀吉の時代に流行った遊戯よ、ほら覚えていない? それよりも、伊木ちゃんいつ日本に戻ってきたの?」
「三日前に帰ってきたの。なんか日本の生活に慣れなくってね、実家で飼っているトリッキーと一緒に散歩して、秋の風景を懐かしがっていたの」伊木ちゃんは小さな犬に顔を見やった。
「この子トリッキーっていうの? なめらかな毛なみに上品な顔をしているわね。あらあら、近づいちゃだめよ。血のりがつくし、それに、刃で怪我をしちゃうわ」
わたしはスカートが地面につかないよう膝に挟んで屈(かが)みこみ、打刀を背後にまわし、右手でトリッキーの腹をくすぐるようになでた。トリッキーはすでに吠えるのをやめて、尻尾を小気味よくぶんぶん振りつつ、わたしの右手をしきりになめる。
「トリッキー、中田さんが気に入ったの? そう? あんなに吠えていたのに、うれしそうに尻尾を振っちゃって良かったね」
伊木ちゃんも屈み、トリッキーの背中を荒々しくなでた。トリッキーは体を揺らしながら伊木ちゃんの足元に近づき、短い足でよたよたと立って膝にしがみついた。
それからわたしと伊木ちゃんはサイクリングロードに戻り、一緒に歩きはじめた。風はあいかわらずドブ臭かったが、暖かい陽射しが体を消毒するようで、すこしばかり気分は良くなった。
「ねえ、すごい格好ね、スカートもコートも血まみれだけど、いいの? クリーニングにだしてもおちなさそうだよ」伊木ちゃんは首をかしげて心配そうに言う。
「そうね、ちょっとやりすぎたわね。でも、しょうがないわ」わたしははにかんで言う。
「でも格好いいわよ! 中田さんの顔は面長で綺麗だから、病的なぐらいとても血が似合ってる。とくに、細かい斑点のような血痕はたまらないわ。それに、足の傷も生々しくて素敵よ」
「そういってくれるとうれしいわ、でもね、足は自分で傷つけちゃったの。おかげさまで背骨まで痛みが響いてたまらないわ」わたしは手ぶりをまぜて言った。
「そう、とても痛そう」伊木ちゃんは顔をしかめてつらそうな声を出す。
「ねえ伊木ちゃん、どこを旅行していたの?」わたしは思い出したように言った。
「うんとね、タイでしょ、ラオスでしょ、中国でしょ、ネパールでしょ、インドでしょ」
「たくさんの国を訪れたのね、アジア以外はどこか行ったの?」
「ううん、アジア周辺の国々だけだよ。わたしね、インドがとても気に入ったの」
「インド? ヨガの国ね、うわさではひどく汚いって聞くけど、どう? リシュケシュは行ったの?」
「うん、日本に比べるとはるかに汚いよ。でも、生き物は多いし、人々は純粋で素朴なの。その面ではとてもきれいな国よ。でもリシュケシュは・・・・・・ なんか、俗っぽかった」
目の前から古びた自転車に乗った老人がやってきた。わたしと伊木ちゃんは端に避けてかるく頭を下げた。老人は見向きもせず、ふらふらと通り過ぎていった。
「そうなんだ、インドか、ねえねえ、ほかに良かった国はないの?」わたしは両手を後ろにまわしたまま言った。
「あとね、チベットが良かったよ。この国も素朴だけど、またインドとは違った力強さがあってね、インドは陽気だけど、チベットは峻厳(しゅんげん)でさ、どちらの国も人々はとてもあたたかいの」
伊木ちゃんは腹蔵の見当たらない笑顔を浮かべ、うれしそうに愉快な旅行談を話しつづける。感化されたわたしも微笑みながら聞き入り、ちょこちょこ質問をはさんでは話の邪魔をしないように気をつけた。トリッキーは長い図体を揺らしながらぷりぷりと先を歩いていた。
やがてわたしの心に雲が広がりはじめた。伊木ちゃんの希望にあふれた話がわたしを焚(た)きつけて、胸にかかる灰色の薄い雲はしだいにぶ厚い黒雲に膨(ふく)れあがった。
「中田さん、その長い刀を持つの疲れたでしょ? 両腕をずっとうしろにまわしているもの。ねえ、わたしが持ってあげる。そのかわり、トリッキーを持ってもらってもいい?」
伊木ちゃんはそう言って立ち止まり、右手に持っている赤いリードをわたしの前に突き出した。わたしも立ち止まったが、左手がわずかに動くだけだった。今後決して味わうことのない希望の重みに耐えられず、唐突にこみあげてくる感情がわたしの赤い顔を震えさせる。右手を口にあてて我慢しようとするが、波紋は首から体へ伝わり、もはや止めることはできなかった。体が痙攣(けいれん)して自由が利かず、溢れでる涙の源泉はとめどない。わたしはススキに倒れかけた。伊木ちゃんが咄嗟(とっさ)にわたしの手首をつかんだものの、重力に逆らえず、伊木ちゃんを道ずれに頭から突っ込んだ。
ススキは柔らかく、細い葉がわたしの手と顔を切りつけた。杖のように握っていた刀は手にくっついて離れなず、体を傷つけることなく、ただススキを傷つけただけだった。ススキに隠れてむせび泣くと、地に押しつぶされた鼻から血が流れ、激しく咳(せ)きこんだ。伊木ちゃんはわたしの手首をつかんだまま真横に倒れていた。
「ごめんなさい。わたし、ずいぶん失礼なことをしたみたいね。ごめんなさい」顔を上げて凛(りん)とした眼をわたしに向けると、伊木ちゃんは小さくはっきりした声で言った。
わたしは何も言えずに顔を隠して泣き続けた。伊木ちゃんは黙っていた。すると、何かがわたしの頭にとびつき、髪の毛をもみくしゃにしてしまった。おもわず顔をあげると、短い足をつけた薄ピンク色の股間が見えた。長い舌を垂らしたままトリッキーはわたしの頭から降りて、血まみれの顔をしきりになめた。
急いで体を起こすと、つられるように伊木ちゃんの体も起き上がった。わたしはかたい茎(くき)を倒して正座してから、左手に持っていた刀を地面に刺し、手首をひねって柄を持ち変え、注意して宙にあげた。左脛の切り傷に茎がぶつかり、痺(しび)れるように痛んだが、すぐに気にならなくなった。色々と混じった濃い体液が顔を伝わり、ぽたりぽたりとタータンチェックのスカートに滴(したた)り落ちた。
「トリッキーは待ったなしね」伊木ちゃんはそう言うと、わたしの膝の上に前足をのせた無遠慮なトリッキーをつかまえて、しとやかに抱きかかえた。トリッキーはおとなしく動きを止め、厚みのない舌をだらしなく垂らしたまま、きょとんとした眼でわたしを見つめて呼吸していた。
「ずるいわよ! 伊木ちゃんもトリッキーもずるいわよ!」わたしは泣きながら笑い、しゃがれた声を出した。伊木ちゃんは大きい眼をわずかに細くして、口元を緩ませたきり何も言わなかった。
わたしと伊木ちゃんは川沿いに昔からある薄暗い団地へ向かった。涙と鼻血は止まり、わたしの心はとても落ち着いていた。
「ねえ伊木ちゃん・・・・・・ わたしね、知らない人を三人殺したの」わたしは歩みを止めず、アスファルトの地面を見つめながら言った。
「えっ! そうなの? だから血まみれだったの?」伊木ちゃんは身を広げて驚きの声をあげたが、どこかしら純粋な好奇心が感じられた。
「そうなの、伊木ちゃんに会う前、ススキ野に身を潜めて通りかかる人に襲いかかり、息の根を止めてから肢体(したい)を切りわけ、首を切り落としたの。髪をひっつかんで、包丁を横から入れるように、ゆっくりと前後に動かしながらね」わたしは足と口だけを動かして説明した。
「まあひどい! 強烈な世界ね! わたしにはよくわからないけど、とても痛そうね。でも、中田さんはやさしいし、上品だからていねいに切り落としそう。それに、その姿は病的に美しそうね」
「ううん、そんなにきれいじゃないと思うわ。わたし、何も考えていなかったの。それどころか、さっき道を歩いていて、はじめて、自分が死刑に値する人間だということに気がついたのよ。それから、とても恐ろしくなって、海外へ逃亡することを考えていたの」
「三人ね、三人の人を殺したら死刑かもね。それはたしかに怖いよ、でも、中田さんの考えも怖いよ・・・・・・ それで、どうするの? 海外に逃げるの? それとも、自首して刑を受け入れるの?」
「自首は怖いから海外へ行こうと思うの。でも、どこに行けばいいのかわからなくて悩んでいたのよ。それでね、伊木ちゃんの話を聞いていて、わたし、インドかチベットへ行こうと思ったの」わたしは伊木ちゃんの顔を見た。伊木ちゃんの眼は大きかった。
「そう、だったらチベットがいいと思う。広大なチベット高原に入ってしまえば、捕まらずに生活できるんじゃない? わたしも、中田さんは逃げたほうがいいと思う。ただ日本で死ぬんじゃなく、悠久なる自然が中田さんの犯した罪を理解させ、罪を償なわせるほうがいいよ。人間じゃなくて神様に裁かれたほうがいいわよ! でも、過酷そうね、死刑のほうがらくかもしれないよ」
「そうかしら、わたしにはわからないわ。でも、まだ死にたくない・・・・・・ 死ぬのは怖いわ!」
「それなら、なおさらチベットへ行ったほうがいいよ。死ぬことの意味を深く知ることになるだろうし、罪を犯した中田さんの新しい生きる意味が、きっと見つかると思う」
「伊木ちゃん、ありがとう、そう言ってくれて、わたし、なんだからくになったわ。でも・・・・・・ 逃げようとするこんなわたしを、伊木ちゃんは軽蔑しないの?」わたしは恐れていたことを口にした。
「するわけないよ! だって、友達でしょ? 中田さんが人を殺したって、わたしの知っている中田さんは変わらないよ。優しい心も怜悧(れいり)な頭も、美しい容姿もわたしは好きよ。ただ、過ちを犯しただけじゃない・・・・・・ それに、わたしも中田さんも人間じゃない!」伊木ちゃんの声は力がこもっていた。わたしの顔に固まっていた血は再び溶けだした。
わたしと伊木ちゃんは誰もいない団地内の公園に着き、水飲み場に近づいた。
「ねえ、伊木ちゃん、わたしたまに考えるんだけどね、あなたはどんな死を迎えたい?」
栓をひねると蛇口から勢いよく水が出た。右手で水にさわると、皮膚がひりひりするほど冷たくて、濡れた手で顔をこすると気持ちが良かった。
「んー、考えたことないよ。そうね、んー」伊木ちゃんは小さい口をかわいく尖らせ、首を二度傾(かし)げた。
「わたしはね、ぶざまな体になったらひと思いに死のうと思うの、それも、苦痛をそれほど感じないようにね。そうね、優雅な曲に合わせて情緒揺さぶる踊りを舞っていたプリンシパルが、突然音楽と一緒に動きを静止するように、一瞬で死にたいわ」顔をあげ、水を滴らせたままわたしは言った。
「素敵よ! 中田さんらしいわ! でも、わたしはどうかな・・・・・・ 何も考えずに死ねればいいかな?」
「うん、伊木ちゃんは考えないほうがいいかもね。でも、もしだよ、自分の望む死に方が見つかり、人の手を借りる必要があって、ひどく死にたい時があったらわたしに言ってね。どこにいたって伊木ちゃんのもとにかけつけて、望みどおりに殺してあげるわ・・・・・・ どうせ、これ以上人を殺しても死刑には変わりはないしね」わたしは打刀を流れ出てくる水にさらした。水は鎬にぶつかり、噴水のように跳ねてわたしの足を冷たく濡らした。
「そう、じゃあ、その時は中田さんにお願いするね。でも、死刑に変わりはなくても、罪をさらに重ねることになるよ。いいの?」伊木ちゃんはやさしい微笑みを浮かべて言った。
「いいのよ」わたしも微笑み返した。
わたしは何気なく、傍に置いてあったスポンジで刀身をこすった。ところが、コンロに付着した油のようなかすがこびりつくだけで、こするたびに刀身に広がり、たちまち増えていった。
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