社畜OL、異世界へ異動する

桜葉理一

一章.ダンジョン

1.社畜にさよなら



「―――あれ、今、何時……?」


 カーテンの隙間から差し込む光がまぶしくて、目を細める。

 ベランダに住み着いているスズメのかわいい鳴き声と共に、音量マックスでけたたましく鳴り響くスマホのアラームが、部屋中に響き渡っている。それらを目覚めたばかりの頭で何となく認識して、まだ重いまぶたを擦った。

 ベッドに転がっているスマホを手に取って画面を見る。

 途端に血の気が一気に引いた。

 午前十時半。会社の始業時間は八時半。そして上司からの着信は二十五件。

 スマホを再びベッドに置いて、両手で頭を抱えた。


「やばい、どうしよ……」


 小さく呟いて、頭を抱えたまま数十秒固まった。やばいも度を越えると動けなくなるんだなぁなんて。のんきにそんなことを考えてしまった。


 昨日は終業時間間際に大量の仕事を上司におしつけられて、日付を超えるぐらいのえぐい残業をした。今日起きれなかったのは間違いなくそのせいだ。つまりこれは上司のせいだ、うん。


「……とりあえず起きるか」


 責任転嫁で罪悪感を軽減させてから、覚悟を決めてベッドを降りる。

 パジャマを脱いで、床に脱ぎ散らかしたままのスーツを拾い、急いで着替えた。昨日と同じ服だけど、もうどうでもいいや……。髪も解かさずに、いつものように髪を高い位置で一つに結ぶ。それからすぐに出ようとして。思いとどまって高速で歯磨きだけして、慌てて一人暮らしのマンションを飛び出した。

 走りながら、上司の携帯電話に電話をしたけど出ない。今日は十時に上司と同行のアポがあったからきっとその対応中なんだろう。ほっとしたけど、後が怖すぎる。

 徒歩五分の最寄駅から五駅。そこから徒歩十分で通勤約三十分。大遅刻で会社に駆け込むと、私の席の前で、上司が仁王立ちをしていて、思わず小さく悲鳴が漏れた。


「お、おはようございます! 申し訳ありません、寝坊してしまいましたっ!」


 そう言って勢いよく頭を下げた途端、上司は目を見開いて。激昂した。

 何してるんだ鈴木、大事な取引だったのに忘れるなんてどういうつもりなんだ、たるんでいる、何だそのボサボサの髪は、大体お前はいつもいつも、って。めちゃくちゃ叱られた。

 次々と放たれる罵倒のお叱りの言葉を半分ぐらい流して、半分ぐらい聞く。半分だけ聞いていても、どっぷりと落ち込んでしまうぐらいの罵倒。

 ……仕方ないでしょ。昨日あんたが仕事を押し付けたせいで帰るの遅くなったんだから。

 そう言いかえしたかったけど、説教の時間が増えるからやめた。

 それに、上司の罵倒もちょっとは的を射てる。私はたるんでいて、しっかりしていない。これは本当だ。髪だって解かす暇もなかったからボサボサだし。あ、化粧もしてないや。壁に張り出されている営業成績を示す棒グラフだって、下から数えたほうが圧倒的に早い。叱られている私を見て、同僚たちはどこか好奇な目で私をみてるし、またあいつかって笑っている先輩もいる。

 そんな私だから、くやしいけど大人しく頭を垂れて、申し訳ありませんでした、って言い続けることしかできなかった。

 

 やっと上司の説教から解放されたころには、時計は十二時半を過ぎていた。フラフラと自分の席に戻って机の上で項垂れる。ううう、お腹すいた。そういえば朝ごはん食べてないんだった。こんなときでも腹が減る自分の神経の太さに我ながらちょっと呆れてしまう。

 そうだ! 今日は自分を慰めるためにも、ちょっといいものでも食べに行こう。そう思いつき、カバンから財布を取り出そうとするけど、財布が見当たらない。


「……さ、財布忘れた」


 慌ててたから、カバンに入れ忘れたんだ。

 その事実にがっくりとうなだれる。おいしいごはんが食べられないと分かった途端、お腹が空腹を訴えてぎゅるぎゅると鳴りはじめる。くそう、ゲンキンな胃袋め。

 誰かにお金を借りようとフロアを見回しても、昼時だからか人気がない。いるのは私を叱ったばかりの上司だけ。まだ怒ってるのか私を睨みながらキーボードを荒々しく打ち込んでいる。怖すぎ。さすがにあの状態の上司に金を貸してくれとは言えない。


「外出してきまーす……」


 小さな声で報告して、私は財布の入っていない鞄を持ち、会社を出た。

 幸い携帯ケースのポケットに入れていたICカードに二百円弱、チャージされているはず。コンビニでパンでも買おう……。

 コンビニまでの道をとぼとぼと歩く。昨日は大雨が降っていて、道のそこかしこに深い水たまりができていた。ヒールを汚さないようにそれらを避けながらコンビニへと向かう。

 そのときだった。

 水たまりに向かって大きなワゴン車が向かってくる。

 あ、やばい。そう気が付いたころにはもう遅く。バシャッという音と同時に土色の水たまりを思い切り顔面へくらった。


「……」


 お気に入りの白いブラウスと買ったばかりのスカートが土色に。顔は土砂塗れ。口に入った土砂をペッと吐き出した。


「……クソワゴン…電柱にぶつかって大破しろ……」


 吐き捨てるように恨みを吐いて、ワゴンに向かって中指を突き立てた。

 汚れた私を見て、すれ違う主婦たちには悲鳴を上げられ、男子高校生には避けられ、小学生には笑われる。無性に泣けてきたけど、こぼれそうになる涙をぐっとこらえた。

 あまりの出来事に空腹感もなくなって、コンビニへの道を引き返す。こんな格好でコンビニにはいけないし。かといって会社に戻りたくもない。少し考えて、歩いて五分ぐらいの場所にある河川敷へ向かった。


 昨日の大雨のせいで、川の水量はいつもより多い。それを警戒してか、周囲に人気はなかった。私は河原の雑草の上にごろりと寝転がり、淀んだ空を見上げた。

 ……本当に散々な一日だ。何もかもが嫌になる。

 えげつない深夜残業のせいで寝坊して上司に叱られるわ、大事なアポをすっぽかしちゃうわ、お昼は食べ損ねるわ、あげくの果てにお気に入りのブラウスは泥まみれ。

 それに、今日はたしかに最低な一日だけど、他の日が最高ってわけでもない。むしろ逆。こんな毎日を生きるのはすごく息苦しい。

 仕事ができないせいで、上司にも疎まれるし同僚や先輩、後輩にだって馬鹿にされてる。


「……もう、嫌だなぁ……会社行きたくない。どこか遠くへ行っちゃいたいなぁ」


 独り言が自然に口から漏れた。


『でも私が選んだ生活でしょ。この世界で、もう少しがんばってみない?』


 頭の中で自分の声が、たずね返してくる。

 私は嫌なことがあると、いつもこうやって心の中で自分を慰めようと励ましている。そうすると、不思議と自然に心が落ち着くのだ。

 ……そうだな、もう少し頑張ってみよう。

 今回もいつものように自分にそう言い聞かせ、身体を起こしたとき、汚れたブラウスが視界に入った。

 私はくちびるを噛んで、首を大きく振った。


「……はぁ、やっぱりもう無理だ。ここにいたくないもん」

『ここは、あなたにとっては恵まれた場所のはず。本当にいいの?』

「給料はいいかもしれないけど、本当にもう嫌なの。はぁ……会社に行きたくない。どこか遠くへ行きたいなぁ」

『――そう。分かった』


 頭の中の自分の声が、今日はやけにリアルに響いた。

 その瞬間だった。

 突然、地面が大きく揺れる。地震だ。それもとてつもなく大きな。


「う、わっ」


 体勢が崩れて、草木の上を転がる。とても立てない。それに異常なぐらい視界がぐらついている。

 背の高い雑草を掴みながら、何とか少しずつ堤防を上がっていく。こんな大きな地震、きっと街中大パニックだろう。崩れている家もあるかもしれない。

 堤防をよじ登りきって道路を見たとき、驚いて目を見開いた。人々が何事もなかったかのように、平然と歩いていたからだ。

 ……何かがおかしい。そう思った。

 これは地震じゃない。だって、私がいる河川敷だけ、ぐにゃぐにゃと空間が歪んで、不思議な黒いもやに包まれているのだ。

 急激に意識が遠のいていく。再び雑草の上に倒れこんだ。

 そうして、私は意識を手放した。



**



「……いったぁ」


 激しい頭痛がして、頭をおさえた。

 ―――あれ、何が起こったんだっけ。そうだ、たしか地震が起きて、それで……。

 身体を起こして周りを見た瞬間。

 目の前の光景に私は固まった。

 見たことのない場所だった。見たこともないどころか、おおよそ現実離れした場所だ。広い洞窟のような場所に、色とりどりの大小さまざまな植物が生えている。SF映画に出てきそうな場所だった。


「……え? ここどこ?」


 そう呟いた声は、広い空間によく反響した。辺りをキョロキョロと見回す。

 するとすぐそばに木製の小さな看板が立っていることに気が付く。そこにはちゃんと日本語で、こう書かれていた。


『ここは第七十三ダンジョンの入口。最深部へ向かい、精霊と契約をしよう!』


 ダ、ダンジョン……?

 え、ダンジョンってなんだっけ。

 あ、そうだ。ダンジョンって、RPGゲームとか、ファンタジーアニメに出てくる、迷宮のことだ。

 私は立ち上がって、もう一度、周囲を見回す。


「え? どうすんのこれ」


 どうすればいいのか分からない。

 だけど、これだけは分かる。

 多分、午後は会社に行かなくていいんだろう。不謹慎かもしれないけど、その事実だけはちょっと嬉しかった。ちょっとね。

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