藤の花
藤
藤の花
私には姉がいた。
穏やかでとても優しくて綺麗な人だった
姉は庭に咲く藤の花が好きで、春の暖かい日にはきまってテラスから藤を眺めていた。
ある日のこと、姉は車椅子に座り本を読んでいた。
私はそのすぐそばのソファーに転がりながら百貨店でもらった風船を投げて遊んでいた。
楽しくて夢中になって何度も何度も風船を押し上げているうちに、手を滑らせてテーブルに置かれていた花瓶を倒してしまった。
その花瓶は姉が大変気に入っていたもので、今朝母が摘んできたばかりの花がたくさん生けられていた。
じゅうたんに水が飛び散りガラスの破片や花が散らばって、慌てて母がかけつける。
こんな時、母はいつも真っ先に姉の心配をするのだ。
私は叱られるのが怖くて、部屋の隅で小さくなってずっと黙っていた。
いつもなら「大丈夫だよ」とそっと頭を撫でてくれるのだけど。
その日の姉は、ただただ床を眺めていた。
本当に大切なものを壊してしまったのだと、感じた。
その日の夜は雷のなるほどの大雨が降った。
昼間のこともあり、うまく寝付けず
寝室を出てまだ起きているであろう母の元へ向かった。
テラスの近くを通ると人影が見えた。
こんな嵐の夜なのに、姉が一人で灯りもつけず庭を眺めていた。
そばへ寄ってみると振りかえって「どうしたの?眠れないの?」と微笑みかけてくれた
私はホッとして「雷の音でよく眠れないの。お姉ちゃんはどうして、こんな真っ暗なお庭を見ているの?」と尋ねた。
「反省をしていたの。」姉がぽつりと言った。
不思議そうに顔をのぞかせる私の頭を撫でて、続けて小さく口を開いた。
「藤の花を眺めながらね、心の中の想いを伝えるの。
昨晩みた夢のことや、悩み事や、楽しみにしていることなんかを。
でも、今日はとても悪いことを考えてしまったの。」
頭を撫でる手が止まり、姉は目を閉じて俯いた。
「私が、あなたになれたなら。病で苦しむのが、私でなくてあなただったなら。
そんなことを考えていたら、お気に入りの花瓶が割れてしまって
撥があたったのでしょうね。」
頭に置かれたままの手に、かすかに震えるような力が入るのがわかった。
「あなたは神様に目をかけてもらっているのでしょう。
私はきっと見放されているんだわ。
それでも、いままで生きてきたことに意味があると思いたくて、こうして藤の花に想いを伝えているの。
たくさん想いを伝え続けて、いつか藤に心が宿って、そしたら
私の想いをのせたまま、長く長く生き続けてくれるんじゃないかって。」
まだ幼かった私は、どう声かけて良いのかわからず、ずっと黙っていた。
嵐の夜の翌日、姉の病はとうとう酷くなり
ひと月も経たないうちに闘病の甲斐なく亡くなってしまった。
春になり、藤の花が咲き、春風に揺られて花の香りがテラスから私の部屋まで流れ込んでくると
いつも息が詰まるような、胸が痛むような感覚に襲われる。
庭をかけまわる私を見て、姉は何を考えていたのだろうか。
よそ行きの服を着て母と手を繋ぎ外へ出かける私を、
姉はどんな気持ちで送り出していたのだろうか。
姉の思いは今も、藤と共に生き続けている。
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