序章 それは五日前

 三日月が細弓の様にしなびく夜。

 濃い射干玉ぬばたまの闇が一つ、京の街にとされた。


「上を向〜いて、ふ〜んふ〜ん」


 すっかり寝静まった住宅街、その一角で帰宅途中のサラリーマンが歩いていた。

 上機嫌に鼻歌を歌いながら、愛する家族と我が家の元へその歩を進めて行く。

 飲み会でもあったのか、頰は赤く上気し呼気はかなりの酒気を帯びている。

 ふと、鼻歌を口笛に変えなおも歩いていた男が立ち止まった。


「うん……?」


 己の目がおかしくなったのかと思い、男はまぶたをこする。

 何やら視界に小さな影が踊っているのだ。

 いくら酩酊めいていしているといえど、視界がおぼつかないほどではない。

 だというのに視界から消えない影は一体何なのか。

 先日、医療系テレビ番組で目にした白内障かとも思ったが、男はそんな歳ではない。


(まぁ、そんな日もあるか)


 悠長に、そんな程度で事を考えながら瞬きを一つ−−−−−−−それが命取りだった。

 しかし無理もない。

 いつ起こるかもわからない異変に咄嗟とっさで対処するなど、常人にできる道理はない。

 むしろそれが出来ないからこそ常人と呼ぶ、と言った方が正しいだろう。

 だから常人であった、不幸なサラリーマンは気づかなかった。

 影が目の前に迫っていることなど。


「うわああああああああああああっっっっ!?」


 男の悲鳴が住宅街の閑静な空気をつんざいた。

 何だ何だと近隣住民が各々おのおの窓を開け灯りをつけるなどで様子を確認したが、人気もなく特に変わった様子は無い。

 大方の人間が、せいぜい若者の夜遊びの範疇はんちゅうであろうと見切りをつけ早々に微睡まどろみへと戻っていく。

 わずかに照らされた家の灯りも消え、まるで世界が男の事を忘れたかのように夜は更けていく。

 



 それは京都東山頂上に位置する蒼龍殿。

 京都の町並みを一望できるスポットとして、普段から人々に親しまれているそこは、しかしこの時間になると周囲は薄暗く、点々と設けられた街灯しか灯りの寄る辺が無い。

 麾下きかするべく広がる京都の街灯りはやけに遠く、京都駅周辺が一際明るく光っているのが見えた。


憑代よりしろを見付き、ここへ至るまで幾星霜いくせいそう。我より他の一族は皆、既に彼岸へと旅立った。人の世とは常ならずまことに不可思議」


 蒼龍殿の瓦屋根かわらやね。その破風はふに何者かが鎮座していた。

 赤く妖しく光る瞳、ピンと張った背筋。

 重々しく開かれる口からつむがれる音はとても現代の言葉遣いではない。

 夜闇に潜む何かを見出そうと瞳をらすように、慎重に言葉を選び取る様はまるで偉人が聴衆に語りかけている風で、荘厳であった。

 が、そこには誰一人の影も見られない。

 全くの独り言。


しかれど、最早そんな事はさはれとて。この世は元よりすべてまやかし、道楽と委細いさい無い。なればこそ今、百鬼夜行がようやきたる」


 そんな事は、この者にとってはどうでもよかった。

 それは、誰も知る由のない決意表明。

 宣戦布告、もとい犯罪予告。

 一体いくらの時を費やせば、この世全てを道楽と割り切るまでに至るのか。

 理解出来る者は一人もいない。

 何故ならば、この者自身、そんな事を覚えていない。

 見てすらいない。

 ただ眼下に広がる京の街、そしてこれから起こり得る事に想いの全てをせていた。

 手をかざし、京の街を手中に収め、グッと握り締める。


「さあ、幕開けだ」


 声音には少しの情色も含まれていない。

 極めて平静そのもの。

 しかしその口元。

 やけに赤い唇は、頭上に浮かぶ細三日月が如く、あがっていた。

 一陣の生温なまぬるい風が山を駆け下り京の街へと流れていく。

 ほとんど雨が降ることの無かった梅雨が明けようとする、初夏であった。

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