第5話 シの季節
待ち合わせ場所の喫茶店で片手を上げた彼女を見て、負けた、と感じる。
「久しぶりだね、石野さん」
昔と変わらないおっとりとした笑顔で挨拶をした彼女に、わたしも笑顔で返したつもりだけれど、実際どんな顔になっているか知れたものではなかった。
「石野さんのそういう格好、初めて見た」
向かいの席についたわたしを、『浦島さん』はしみじみと見つめた。
「仕事帰りだから」
嘘だった。悩みに悩んだ挙げ句、この格好を選び、見事に失敗したのだ。
「そっか、忙しいのにごめんね」
片や彼女は、相変わらずのカメ姿で(記憶の中の彼女はいつもウミガメなのが、今はリクガメだという違いはあったけれど)、相変わらず、知性の塊のような目でわたしを覗いていた。
なんだかすべて見透かされていそうで、居心地が悪い。
店員にグレープジュースを頼み、いつものくせで丸まりそうになる背筋を意識して伸ばす。
「それで、」
「あ、特別なことはなにもないんだよ」
『浦島さん』が言葉を先回りする。
「なんていうか、ちゃんとしておきたくて」
「…ものすごく、今さらじゃない?」
「ものすごく今さらだけど、何事も『今』が最速でしょ?」
『浦島さん』が優雅な手つきで珈琲を啜る。
「いつか二度と会えなくなる前に、まだ会えるうちに、石野さんと話したかったの」
「…」
勝手だ、と思う。けれど彼女の勝手のおかげで、今こうして、わたしは彼女に再び会うことができた。
彼女がふっと笑みを深くした。
「勝手を承知で、石野さん。昔のようにまた、モリって呼んでもいいですか?」
名字で呼び始めたのはわたしだった。完全な当て付けだった。ガキすぎる過去の自分を今すぐぶん殴りに行きたい。
「…昔と全然変わらない。ほんとに自分勝手だよね、ヒメちゃん」
「うん。ごめんね、モリ」
ヒメちゃんは本当に大人だ。最近自分も大人になったと思っていたのに、全然だった。
今日は来てくれてありがとう、と別れ際、ヒメちゃんは言った。恥を忍んで「またね」と返事をしたわたしに、ヒメちゃんは一瞬驚いた顔をした。けれどすぐにうん、また会おうねと手を振った。
シゲさんに電話をかける。
「もしもし」
「シゲさん、いつもありがとう」
「あ?モリか?」
「じゃまたね」
シゲさんがまだ何か喋っていたけど恥ずかしいから切ってしまう。
会えるうちに、話せるうちに、伝えたいことは伝えておかなくては。
でも、全然足りない。会えるうち、じゃ、わたしは間に合わない。
だからわたしは期待する。
巡りめぐった季節のなかで、「また」会えることを。
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