第18話 雨の日の教室。じめじめした空気に、じめじめした人間関係。

 一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。相変わらずの、萩尾先生のつまらない世界史だった。第二次世界大戦が終わってからの、各国の経済政策など、紀雄にとってどうでもいいことだった。

 雨の匂いが充満している陰気臭い教室を、紀雄は足早に出た。阿津谷を探すためだ。早くに登校していたのに、彼は一時間目に出席していなかった。芙雪の見立てでは、おそらく金場たちがどこかへ捨てた上靴を探しているのではないか、ということだった。

 面倒くせぇ、なんで俺がこんなことしなきゃいけねぇんだ。あの女、マジで許さねぇ。いつか必ず痛い目みせてやる。

 芙雪への復讐心を糧に、紀雄は思いつく場所を徹底的に探した。

 下駄箱、トイレ、体育館……。

 しかしどこにも、阿津谷の姿はなかった。

 校舎と体育館を繋ぐ、二階の渡り廊下で立ち止まる。まさか外にいるのではと感づいて、紀雄は駆けた。等間隔で設置されている窓ガラスから、土砂降りの雨が降る運動場を眺める。続けて今度は逆の、中庭のほうに目をやった。

 建ち並ぶ木のそばに、黒い影を見つける。木の根元にしゃがみ込んでいたのは、阿津谷だった。



「おい、阿津谷!」


 雨の中を走って、紀雄は阿津谷の腕を握った。そしてすぐに、屋根のある場所へと引っ張っていった。


「何やってんだよ、お前。一時間目サボってるしよぉ」

「吉城くん……なんでここに?」

「伏見にお前のこと頼まれたんだよ。お前が——」

 阿津谷の手に持っている物を見て、紀雄は一瞬戸惑う。泥で汚れて水の滴っている、まるで使い捨てられた雑巾のような色をした、上靴だった。

 自分がやったわけでもないのに、紀雄はなんだか気まずくなって、頭を掻きながらそれから目を逸らした。


「金場たちだろ? それ」


 渇いた声が出た。ザァザァと雨が降っているのに。嫌というほどの湿気を、肌で感じているのに。


「うん、たぶん。でも、見つかってよかったよ。今日一日、靴下で過ごすところだった」


 反対に、阿津谷の声はあっけらかんとしていた。何事もなかったかのように、その汚れた上靴に足を入れた。もはやそれが、日常の一部なのだろう。彼がそれに慣れてしまっていることに、紀雄は言いようのない憤りを覚えた。


「やり返さねぇのかよ。なんもしなかったら、いつまでもイジメられるぜ」

「僕は……いいよ。面倒事は起こしたくないし」

「面倒事って、お前のことだろ!」


 思わず、声を荒げてしまった。気づけば、右手は阿津谷の胸ぐらを掴んでいた。なんでこんなに苛々するのか、自分でもわからない。


「そうだけど……いいよ、僕は気にしてないから」


 阿津谷はそう言うと、泥と雨水でできた足跡を残しながら、教室のほうへと歩いていく。紀雄はそれを眺めて、気づいた。苛々の理由がわかった。阿津谷の汚された上靴を見たからでも、金場たちにムカついたからでもない。

 イジメを受け入れている阿津谷に、腹が立っているのだ。


「待てよ、阿津谷」


 こちらに振り向いた彼の頬を、紀雄は思いきり殴った。そしてすぐさま阿津谷の上に馬乗りになって、その胸ぐらを掴み上げた。


「お前がイジメられてる理由、なんとなくわかった気がする。そんな冷めたツラしてるからだ。イジメられてる張本人なのに、自分は関係ないみてぇな」


「お前なんか、いつまでもイジメられてろ」そう言い残して、紀雄は教室へ戻った。頬をさすりながら立ち上がった阿津谷が後ろで、「自分から関わってきて、一体なんなんだ……」とぼやくのが聞こえた。



「はぁ⁉ あんた何考えてんの! 阿津谷を不登校にでもさせるつもり?」


 腕組みした芙雪が見下すような目で紀雄を睨む。「阿津谷を助けろって言ったのに、まさか殴ってくるなんて……」


 あからさまに頭を抱える芙雪に、紀雄も段々と我慢ができなくなる。ついに、「そう言うなら、自分でやれよ」と口から出てしまった。


「嫌よ、金場たちに直接関わりたくないの。女子からも嫌われるだろうし、そうなったらもう阿津谷どころじゃないわ」

「女子……そうか、阿津谷の敵は金場だけじゃねぇのか」


 金場と仲の良い瑠璃川が、女子から人気あるんだったな。まぁいいや。俺にはもう関係ねぇし。


 紀雄は立ち上がって、机の上のカバンを掴んだ。いつもと違ってたくさんの教材が入っていたので、ずっしりと重さを感じた。久しぶりに、一限目から六限目まであった授業を真面目に受けて、少し疲れを覚えていた。毎日これを続けている世界中の高校生全員に、本気で尊敬の念を抱く。


「また勝手に帰る気? 瑠璃川のこともわかってるなら、私が動けないのもわかってるでしょ」


 阿津谷が現状を変える気がねぇんだ。俺らがどうにかしようとしても無駄だろ。


 そう答えようとした矢先。


「俺になんか用か?」


 瑠璃川が教室に入ってきた。制服ではなく、水色のシャツに青い短パン。サッカー部のユニフォーム姿だった。


「瑠璃川……べつに、たまたま名前を出しただけで——」

「お前も阿津谷をイジメてんのか?」


 紀雄が彼に迫る。身長があまり変わらない二人は、自然と睨み合う形になった。瑠璃川はすぐには答えず、一拍置いてからようやく口を開いた。


「だったらなんだ? 俺を殴るか? いや、こんな場所じゃあそんなことできないか。お前も先生は怖いんだもんな。それとも、俺のことを言いつけるか?」


 瑠璃川は鼻で笑って、紀雄から離れる。そして自分の机に向かうと、その引き出しからストップウォッチを取りだした。何かの練習に使うのだろう。

 紀雄は再び瑠璃川に近づく。

 今日はもうすでに、廊下で阿津谷を殴っているのだ。ここで瑠璃川を殴っても、一向に構わなかった。

 しかし右腕を芙雪に掴まれて、彼女の「挑発に乗るな」という小声を聞いて、踏みとどまった。


「何もしてこないんなら、俺はもう行くぜ。練習忙しいからな。お前と違って暇じゃないんだ」


 挑発だとわかっていても、さすがにもう聞き流せない。先生に告げ口されて親を呼ばれようが、停学になろうが、どうでもよくなってきた。授業によるストレスと阿津谷への苛々も重なって、紀雄を短絡的にさせていた。芙雪の手を振り払い——

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