第16話 オフィーリア

 薄暗いリビングに入って電気を点ける。誰もいない部屋で、凪はフゥっとため息を吐いた。服も何も散らかっていない、綺麗に片づけられた空間に、肩に掛けていたカバンを放った。

 どうやら、両親の帰りは今日も遅いらしい。

 テーブルの上の、一枚のメモ用紙が目に入った。『冷蔵庫に昨日のカレーが残ってる。一緒にサラダも入れているから、先に食べておいて。ごめんね』

 母の字で書かれたそのメモ用紙を読み終えると、凪はすぐにそれをゴミ箱に捨てた。

 こんなことなら、もう少し吉城くんと遊んでいればよかったと、小さな後悔が生まれた。



 凪が事故に遭ってから、父も母も、今まで以上に凪を大事にするようになった。一人っ子だったので、小さい時から大事にはされていたけれど、今までとはなにか、種類の違うものだった。例えるなら、まるで腫れ物に触るような。

 それでも、二人とも働いているなかで、家族で一緒に過ごす時間が増えたことは、純粋に嬉しかった。三人で食べる夕食の暖かさが、右腕の使えなくなるかもしれない恐怖に襲われていた凪を、唯一支えてくれていた。

 だけどそれも、ほんの少しの間だけだった。

 凪は二人が話しているのを聞いただけなのだが、彼女の事故の件で、父と母は弁護士を雇って、相手方の大学生とその親に対し裁判を起こすことに決めたらしい。

 話によると、大学生は無保険で車を運転していたようで、しかも親のほうと直接交渉を試みても全く応じてくれないのだと、いつの日か父が母に相談していた。そこで、強制的に話し合いの席に着かせようという結論に至ったようだ。

 しかし、事はそう簡単ではなかった。弁護士を雇うのにも、裁判を起こすのにもお金が必要だったのだ。ただでさえ、凪の手術代やリハビリの費用を負担している状態だった。

 父の勤めている会社はいわゆる中小企業で、最近は売り上げが落ちていた。「こんな不景気の時代だもの、仕方ないわ。私も、手伝うから」保育園で働いている母が、そうフォローしていた。

 だから、その会話が交わされてからというもの、二人の帰りは遅くなり、三人で過ごす時間は再び減っていった。



 先にシャワー浴びよう。

 思い出したくないことを思い出して、食欲はなくなっていく。

 生活感のない部屋に、凪は脱いだ制服を無造作に放り投げた。

 右腕の傷跡を見ながら、シャワーが全て洗い流してくれたらいいのに……と、あり得ない想いを抱いた。

 事故も。両親の苦しみも。沙良との間にできた溝も。吉城くんに傷のことを隠し続ける、後ろめたい気持ちも。



 その日、父も母も帰ってきたのは二十三時頃だった。先に帰ってきたのは母で、ちょうど二階の自分の部屋へ上がろうとしていた凪と、「おかえり」と「ただいま」の言葉だけを交わした。母の表情には、見るからに疲れの色が表れていた。

 そして、それからほどなくして父が帰ってきた。いつもと違って、無言で玄関に入ってきたことに違和感を覚えたけれど、凪は「おかえり」だけでも言おうと、勉強のために読んでいた歴史の教科書を閉じた。部屋を出て、階段に足をかけた。


「おかえり。……どうしたの?」


 玄関に出迎えた母の声は、どこか心配そうだった。凪は思わず、階段を降りる足を止めた。


「ただいま。凪は? まだ起きているのか?」


 父の言葉には元気がなかった。おそらく、仕事で疲れているのだろう。それが顔にも出ているのだなと、簡単に想像できた。

 まだ起きてるよ。

 凪は何も気づいていないように、明るい調子で発しようとした。しかしそれよりも、父の言葉のほうが早かった。


「凪が寝てるなら……由佳里、話があるんだ。凪の事故の裁判について、昼に弁護士から電話があった」


 凪は階段を降りなかった。自分の前では話せないという会話の内容が、気になってしまった。

 それが明るいニュースではないことも察していたのに……。



 凪を撥ねた運転手の親が、逃亡したらしい。

 階段の途中で壁に寄りかかり、凪はリビングにいる二人の会話に聞き耳を立てた。


「昼頃に弁護士から電話があって、一昨日から向こうの親と連絡が取れなくなったそうだ。勤めていた職場を突然辞めていて、家にもいないんだと」

「なにそれ……つまり、どういうこと?」


 声の沈んでいる父に、母が迫るように訊ねた。


「逃亡したと言っただろ。裁判の勝ちは見えているが、親の行方がわからないんじゃ意味がない。給料を差し押さえたりもできないから、賠償金を得られないんだ」


 事故の当事者は成人だが、まだ大学生だ。だからその親に請求を、ということだったのだろう。けれどそれなら……。


「相手の子は刑務所にいるんでしょ? 彼の元にも行ってないの?」


 凪の抱いた疑問を、母が口にした。


「ああ。先月から訪れていないようだと、弁護士は言っていた。おそらく、もう現れない可能性もあると。二十歳を越えている成人だからな。放っておいても問題はない」

「そんな……。それで弁護士はなんて? 警察は捜索しているの——」

「事件じゃないんだ。警察が動くわけないだろ。弁護士は……一番良いのは探偵を雇うことだと……」

「探偵って……さらにお金が必要じゃない」

「俺だってわかってるよ!」


 父の声が大きくなった。明らかに苛立っているのが、凪にも伝わった。


「……すまない。こういう事案は、少なくないらしい。探偵が見つけられないことも多く、被害者が泣き寝入りすることも——」

「そんなの駄目よ!」


 今度は、母の声に怒りが含まれる。


「まだ加害者の子がいるんだから、何年かかっても彼に払わせて——」

「三、四年、もしかしたら五年は先の話になるかもしれないんだぞ! 今は、飲酒運転での死傷事故による刑は重くなっているそうだ。それに……あいつだってムショを出た途端、どこかへ行方をくらませる可能性だってある」

「そんなの許さないわ! そもそも親のほうだって、どれだけお金がかかっても絶対に……」


 イヤだ。これ以上聞きたくない。

 凪は自分が息を潜ませていたのも忘れて、駆け足で階段を上がった。自室に飛び込むと、電気を消してベッドに倒れた。

 まだ加害者の子がいるんだから、何年かかっても彼に。

 そんなの許さないわ。

 母の容赦のない言葉と、

 あいつだって……。

敵意が剥きだしの、父の言葉が頭の中で反芻する。

 優しい両親の暴言を、これ以上聞きたくなかった。そんな一面を、これ以上見たくなかった。


 その夜、凪は頭から布団を被って、眠気がくるのを待ち続けた。両親の言い合いから耳を塞ぐように、現実から目を背けるように、柔らかい殻の中で眠気がくるのを待ち続けた。


 どうしていつも、こうなのだろう。

 吉城くんが乗せてくれたバイクのスピードが、ゲームセンターでゾンビ相手に放った弾丸が、一瞬で事故や絵のことを、沙良や絢斗のことを忘れさせてくれたのに。

 いつも楽しい世界はすぐに消えて、現実の世界に無理矢理引き戻される。楽しかった思い出さえ、苦しみの糧にされる。

 どうして世界は、こんなにいじわるなのだろう。


 もう……うんざりだ……。

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