僕とパティーの白い絆

緒方 敬

第01章 毛の無い盲導犬

第01話 夏の日差し

●夏の日差し

 あれはいつの記憶だろう?


 僕ははだかんぼで水遊びをしていた。

 何も着けないはだかんぼ。年中さんにもなれば水着を着るからそれ以前。年少さんでもパンツくらい穿いてるだろうからそれ以前。水遊び用のおむつも穿いてなかったから、多分二つか三つになったばかりの頃だと思う。


 パシャパシャする水の感触が楽しくて、キラキラ揺れる漣が面白くて、飽きることなく水と遊んでいた。


 世界は光に溢れてて、世界は色に溢れてて。どこまでも広がっていた。

 水と遊ぶ四つん這いのままで、水辺の緑の芝を超えると、


「可愛いわね~」


 横を濃紺の服を着て黒い鞄を持った大きな女の人が通り掛かり、屈んで僕を見つめてる。

 とっても嬉しくなっちゃって、にっこり僕が笑って見せると。女の人の手が髪を梳いた。

「抱っこしてもいい?」

 と聞かれて、二度三度頷いて見せると女の人の手が伸びて来る。

 その時だった。


「あー!」

 甲高い声と一緒にペチペチと僕のお尻を叩くのがいる。

 誰とばかりに後ろを向くと僕と同じ位の子。僕と違って前もお尻の変な子だ。

「あー!」

 触ると言うか叩いて来るけど、全然痛くない。


「お友達?」

 と大きな女の人が言うので、僕はこくりと頷いた。


 日向の匂いのする風が吹き抜けて行く水遊び場。遠くに赤や青や、黄色の花が咲いている。

 遊び疲れて、ごろんと仰向けに寝転がれば。眩しいばかりの青空を白い雲が流れて行く。


 雲って動いてるんだ。


 そんな事さえ新鮮だった。



 リリリリ、りりりり。

「……ん。夢か?」

 久しぶりにちっちゃい頃の夢を見た。


「パティ! 今何時?」

「わん! わん! わん! わん! わん! わん!」


 六時か、そろそろ起きなけりゃ。

 夢は鮮やかだったけれど、現実は彩を失い明るさと辛うじて大雑把な輪郭の分かるぼやけた白黒の世界のまま。着替えて今朝も、パティーのハーネスに掴まって案内して貰う。


 こうして、ドアの前や段差の前で一時停止してくれるパティーは優秀な盲導犬。信号の見方だって、時計の読み方だって知ってるとっても賢い犬だ。

 今もトイレの便座の前にピッタリと連れて来てくれている。


 用を済ませると洗面台もこれまたピッタリいつもの位置。歯を磨き顔を洗い、さっぱりとした所で食卓のテーブルまで連れて行ってくれる。

 途中に物でも転がって居たらちゃんと避けてくれるか止まってくれる。


「お早う。正樹」

「母さんお早う!」

 いつもと変わらない朝。ご飯もおかずもいつも通り。でも、


「あれ? 今朝のお味噌汁、お味噌変えた?」

「流石香水専科さんね。匂いだけで判っちゃうの? 切れ掛かっていたので新しいのを足したのよ」

 母さんのは本気の誉め言葉だから本気で嬉しい。只でさえハンデがあるんだから専科の成績上げないとホントやばいからね。



 僕が生まれるずーっと前に、大きく世界が変わったって母さんが言ってた。

 今は何でも点数によって世の中が秩序付けられる社会で、落伍すると身の破滅。だから昔の方が良かったかも知れないって母さんは言うけれど。昔は昔で謂れの無い差別や理不尽な暴力とかも多かったって学校で習った。


「出来れば今年中に資格を取っちゃうよ」

「そんなに急がなくてもいいのよ。正樹が18になるまではまだまだあるし」

「母さん。僕はただでさえ、社会に負債を負ってるんだ。のんびりしてたら失格しちゃうよ」

「あまり無理しないでね」

「うん。ありがとう」


 焦って居るのは本当だ。実際にクラスメイトで居なくなっちゃった奴がいる。

 適性検査で転課した子はまだいい。学力不振が原因で失格に為っちゃったんだ。



 食事を終え、

「よし!」

 お預けさせられていたパティーに餌を許して身支度を整える。


「わんわん!」

 どうやら食べ終わったらしい。

「パティー行くよ」

 ハーネスを掴んで家を出る。

 前庭のいつもの場所に着て、僕はコントローラーをパティーの股間に押し付けて操作しながら、

「していいよ」

 と許可を出す。


 パティーは盲導犬だから、普通の犬と違ってお仕事中はうんちもおしっこもすることが出来ない。

 だから排泄を我慢する訓練を積んだ上で、さらに身体を少し改造されている。

 コントローラーで操作したのは埋め込んだ弁。プリペイドカードの様に誘導電流で駆動する物で、誤動作を防ぐためにチップでID管理している。これは前足とおへその辺りの皮膚の下に埋め込んだ個体判別のIDチップと共にパティーの身分証明でもあったりする。


 ジューっと言う音と共に、まだ変質する前の尿の臭い。続いて糞の臭い。

 最近タンパク質の取り過ぎかな? 少し餌を調整してやらないと。何と言っても、パティーは僕のパートナーなんだから。


 本来、犬の入れない所にパティーを入れる為に、不快な臭いが残らぬ様ティッシュとウエットティッシュを使って、綺麗に後始末してやり、再びおしっこの弁を閉じる。


「行こうパティー」

「わん!」


 左手にパティーのハーネスを握り、右手に白ステッキを持ち、リュックで学校で使う一切を背負う。

 ツーンと澄んだ朝の空気。その中を、僕達は歩いて行く。

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