第16話 普段着

「ただいま」

「……うん、なんにも思いつかなかった」

 帰宅した私を仁王立ちで迎えたユカは、小さく俯いて少し気落ちした様子だった。ツートンカラーのロングティーシャツ、スキニーパンツ。ラフでボーイッシュなこのスタイルは、ユカのお気に入りだったはず。遠出しないような普段のデートでは、よくこんな服装で来ていた。つまり、ユカの普段着ということだ。

「なんにも思いつかなかったけど、にぇっ!?」

 ユカの言葉が途中で途切れる。なぜなら、私が抱きしめたから。

「ユカだ、ユカがいる。大好きなユカが」

 感触を確かめるように腕の力を強くする私に、ユカが言う。

「いや、いるよ。ずっといたでしょう」

「そうなんだけど、その格好してるとやっぱり、あぁユカだなぁって感じがする」

 だって、楽しい思い出が多いから。私の少し先を跳ねるように歩いていくユカを思い出す。人と人との間にある壁なんて、簡単に超えてしまうユカを思い出す。私が好きになったユカを思い出す。

「……む、むう」

 ユカは頬を膨らませて顔を伏せた。耳が赤くなっている。

「ずっとこのままだとご飯が食べられないんだけど」

 どこか拗ねたような声でユカがそう言って、私はうなずいた。

「それもそうだね」


「?どうかした?」

 食後にリビングでひと休みしていると、ユカが私の膝の上に乗って、抱きついてきた。けれど、目を逸らしている。

「その、何も思いつかなかったからといって今夜を諦めたわけじゃなくて、変化球じゃないぶん、直球の最速で行こうと思ってたんだけど……」

「……けど?」

 歯切れの悪いユカに先をうながす。

「帰ってくるなり君があんなんだから、出鼻をくじかれちゃったよ……」

 そういったものの、首をふるふるっと振ってユカは決意に満ちた眼差しをした。そして

「見て!」

 Tシャツの襟を人差し指で引っ張り私に向けて広げてみせた。僅かな空間からだが、深い谷間とその周りを彩るレースがはっきり見えた。

「ぼふっ!!」

 一見ボーイッシュな姿から放たれた破壊力の高い不意打ちに私は思わず吹き出す。ユカは手ごたえを感じたらしく、私の胸に体重をかけてきた。こてんと床に倒れて、ユカの下敷きになる。

「ね?エッチしよ?おっぱい、やわらかいよ?」

 そういいながらユカは、私の胸にそのおっぱいをもにゅんもにゅんと押し付けてきた。

「だかっ——」

 だからエッチは夫婦になってからだって、と言おうとした。しかし、その言葉は途切れた。なぜなら、ユカがキスしたから。両手で顔を押さえて、逃げられないキス。まるで食べられているみたいだ。唇が覆われて、甘噛みされて。中に舌が入ってきて、絡み合って。気持ちよくて、頭が蕩けて。

「私ね、君のことが好きなの。好きだから、エッチしたい」

 酸欠のせいだろうか、朦朧とする僕の耳元でユカが囁く。耳に息がかかり、思わず体をビクビクッと震わせる。それからユカは

「好き……好き」

 と言いながら僕に頬ずりをした。体の芯が熱くなるような感覚。

「僕もユカのことが好きだよ」

 僕はユカの頭を撫でた。満足げな息が漏れる。ああ、可愛いなぁ。

「好き」

 ユカがしなやかに背中をそらせて、腰を左右に振る。

「好き」

 抱き寄せて耳元で囁く。

「好き」

 耳たぶにキスしながら

「好き、好きだよ」

 背中に手を這わせて

「大好き」

 脚を絡めて

「好き」

 頬を撫でて

「好き」

「大好き」

「…………うーーー!!!」

 突然、ユカが大声を上げながら起き上がった。

「今日はこのくらいにしといてやる!お、おぼえてろよ!」

 そう言って、リビングのドアを開けて出て行った。その顔は真っ赤だった。

「……いや捨て台詞がクソ雑魚かよ」

 私は呆然としながら見送った。それから、右手で口元を覆った。誰に見られているわけでもないけれど、口角が上がるのを抑えられなかったから。なんだったんだ今のは。我が事ながら、結婚直前とはいえバカップルがすぎるだろう。


 私は寝室のドアを閉めると、ロングティーシャツのままベッドに飛び込んだ。それから枕を抱きしめて、ごろごろ転がって行き場のない思いを発散する。誘惑するつもりだったのに、返り討ちにされてしまった。触られたところが熱を持っている。耳元で囁かれた声が脳内で反響する。まったく、余裕綽々で腹がたつ……

「……好き」

 私は枕に顔を埋めてつぶやいた。そんな私の髪を、何かがさわっと撫でた。

「僕も好きだよ」

 これは脳内の声じゃなくて

「ひゃわーーー!!?」

 私は飛び上がった。いや、だって、直接言うのと気づかないで聞かれるのじゃ全然違うじゃん!!

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