第15話 スーツ

「ただいまぁ……」

 帰宅したユカがだらんと両腕を下げながら、うなだれて言った。少し浅めの黒のタイトスカートとジャケットがくたびれて見える。

「おかえりなさい。ごはん、できてるよ」

 親子丼を電子レンジで温め始めて、私は玄関まで出迎えていった。

「ありがとう」

 顔を上げたユカは少しだけホッとした表情になった。まだ眉毛は下がってるけれど。

「そんなこと……いや、違うか」

「ん?なに?」

 言葉を切った私を見てユカが首をかしげる。私は続けて言った。

「いや、これから家族になるんだから、これくらい当然だよって言おうとしたんだけど、違うよね。家族でも、してくれたことにはちゃんとありがとうを伝えた方がいいんだ。……ありがとう、ユカ。いつもご飯を作ってくれて」

 他人同士が一緒に暮らすのだ。してもらって当たり前のことなんてない。そんな当然のことをいつの間にか忘れていた。私が感謝を伝えると、ユカは照れたように頭をかいた。

「えへへ、どういたしまして。それでね……」

「?」

 何か、言いづらいことがあるようにユカが言い淀んだので、今度は私が首を傾げた。

「家族のあり方とか今はどうでもいいからごはんを食べていい?」


「はぁ〜ご馳走さま」

「食器は私が下げるから、ユカは座ってていいよ」

 私は丼を下げるためにユカの後ろに立って手を伸ばす。と、ユカが私の服の袖を掴んだ。

「ん」

「ん?」

 くいっ、と顎を動かしたユカの意図が読めず私は首をかしげる。

「ん、ん」

 ユカは少しだけ振り向いて私の左腕も掴む。それから私の右腕と左腕を自分の胸の前でクロスさせた。鈍い私もようやく気づく。そしてユカの背中に体重をかけて、腕の中にすっぽり収まる愛しい女性を抱きしめた。ユカは満足げにふんっと鼻を鳴らした。

「はぁ、今日はずいぶん甘えたさんだね。仕事、大変だった?」

「ちょっとね。あー、誰かさんがエッチしてくれたら、すぐ元気いっぱいになれるのになぁ」

 ユカはわざとらしく遠くに呼びかけるように言う。私はため息をついて、左手でユカのこめかみ上にデコピンした。

「あいたっ!」

 この体勢で外しようもない。

「疲れてる時に激しい運動しようとするんじゃありません」

「ぶー。」

 ユカが不満げに頬を膨らませる。なんだか子供のようだ。

「ウィーン医科大学の発表によれば愛する人に抱きしめられると脳下垂体からオキシトシンが分泌されストレスを軽減することがわかっているんだよ。恋人との触れ合いは重要なんだよ」

「どこ情報なんだいそれは……」

 私は少し呆れながら言った。立て板に水でやけに理屈っぽいセリフがでてくるものだな。ただ、小難しいことを言っているけれども、内容としては『ハグしたい』というワンイシューである。

「というか、それならハグすればいいんだろ。はい、ぎゅー」

 私は、一度腕を広げた。ユカは寝返りを打つように振り返って、私の膝の上で向き合う形になる。

「ぎゅー」

 お互いに声に出して抱きしめあう。苦しくないように力を加減しながら。ユカの柔らかさを、しなやかさを感じる。こんなに小さいのか。体温と、鼓動。きっと、ユカにも私の鼓動が聞こえている。いつもより少しだけ早くて、強い鼓動が。ドクン、ドクン、ドクン、ドクン。

「……もう大丈夫、満タンになっちゃった」

 5分ほど経って、ユカが私の胸を押しやるようにして身体を離した。うつむいていて顔は見えないが、耳は真っ赤だ。

「もういいの?」

 そんなユカの様子が可愛くて、私は思わず少しからかう。それを聞いたユカは上目遣いで私を見上げながら聞いた。

「というか、君は照れないの?こんなに長いぎゅーをして」

「望むなら、一晩でも」

「またまたぁ、かっこつけちゃって」

 しれっと言って私の言葉を、全く間に受けていない顔でユカは笑った。これには私も渋い顔になる。こちらは仮定の話をしているのではなく、実績の話をしているのに。

「な、何その顔は」

 ユカがたじろぐ。私はため息をついて、気を取り直した。

「……まあいいや。サービスにマッサージもしてあげよう」

 そう言いながらユカを膝の上から下ろす。私はその後ろに座る。

「お、ありがとう」

「言っとくけど『お返し』はナシだからな!」

 マッサージでこの間のことを思い出した私は、ユカに釘を刺す。それを聞いたユカが吹き出す。笑いごとじゃないんだぞ、大変だったんだから。

「そんなに警戒しないでも大丈夫だよ〜。来月に繰り越しにしておいてあげよう」

「それなら、まあいいか」

 私は矛を収めてユカの肩に手を置いた。来月には、私たちはもう夫婦になっているはずだしな。それから、私は肩もみを始める。はじめは柔らかく、凝っているところを探るように。揉んでほしいところを、気持ちいいところを揉みほぐしていく。

「あ、すごい。こないだより上手くなってる」

 こぼれるようにユカが感想を呟く。

「君の彼氏は、日々進化しているのだよ」

「なにそれ〜」

 私が大げさに自慢げに応えると君は笑った。

「そら、肩の次は脚だ」

 今度は私が前に回って、ユカに脚を長座にしてもらう。まずはふくらはぎを、脚先から根元に向かって揉む。脚は第2の心臓とも言われていて、循環した血液を心臓に返すという重要な役割を持っている。一日中酷使すれば、そりゃ疲れるだろう。しかし、この角度で脚を持ち上げていると……

「……」

「パンツ見えそうって思ったでしょ?」

「ぶふぅっ!?」

 豪速球のストレートを投げ込まれて私は思わず吹き出した。

「んふっ、図星だ」

 君は笑って、スカートの裾を掴んで。

「いいよ。きみになら」

 心臓が一度、ひときわ強く脈打つ。私は10秒固まって、それから、大きなため息をついた。

「……遠慮しとくよ。止まれなくなりそうだから」

「そっか、わかった」

 そういうとユカはパッとスカートの裾を離して床に手をついた。

「聞き分けがいいね」

 正直に言うと意外だった。

「たまには尽くしてくれる彼氏のことを思いやらないとね。大好きな彼女からの誘惑を毎晩我慢するのは辛いだろうし」

「…………助かる」

 かなり調子に乗った物言いが気になるけれど、間違ってはいないので。

「ねえ」

「ん?」

 ユカがマッサージを再開した私に呼びかける。顔を上げるとユカは、笑っていた。

「好きだよ」

「…知ってる」

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