第三章 ようこそ!ここは極楽浄土 1-2



***



トンネルを抜けると雪国らしいが、崖を飛び降り海から上がり、瞬きを一つするとそこはあお暖簾のれん垂れ下がる風呂場の入り口だった。


「ど、どどどどうするつもりですか!ホテルの次はお風呂?!」


「声、出るようになったな。崖から落ちるのもよかっただろう」


ただの風呂場ではない。和泉が今にもマリカを引っ張り込もうとしているのは「男湯」だ。


何故わかるかって青い暖簾のれんにバーン!っと「男」と書いてある。

ちなみに廊下を進んで左の臙脂えんじ暖簾のれんには、「女」と書いてあるのが見える。

下は赤色のふわふわ絨毯じゅうたんだ。


海を通っても実体の無いマリカは濡れることがないし、絨毯の柔らかさも感じなかったけれど、見た目に質感がわかるほど手入れの行き届いた床だった。


この並びはどう考えても旅館か何かだろう。


さっきまで自分は原宿にいたのにと、マリカは小さくため息を吐いた。

原宿から不気味に足が早い男に追われ、妙に顔の良い男に連れられて、おかしな道を通って訳のわからないところに連れて来られてしまった。


「……はあ。あなたといると生きた心地がしませんよ」


「面白い冗談だな」


「死んでるくせによく言うよとでも言いたいんですか」


たまに見せる笑顔らしきものが、小馬鹿にしたような半笑いってどういうことだろう。


「もうさっきの男は追ってこない。安心しろ」


「じゃあなんでまだ引っ張るんですか?まだどこかへ行かないといけないんですか。男湯に何があるって」


「日替わりだから明日はこっちが女湯。それに今は清掃中だから、こっちの湯に入ったって誰もあんたを変態とは言わない」


「なっ」


勝手にずるずる引っ張られているのに、その言われ方は心外だ。


「あんたにやってもらいたい仕事がある」


そのままずるずる行って、マリカは大きな屋内の洗い場を通り過ぎて、最後、露天風呂に立たされていた。


ごろごろとした石を組み合わせて広く囲った風呂の中に、たっぷりと湯が湛えられている。

立派な手斧削ちょうなけずりの木柱が4本、透明な湯の中に立っていて、大きな木造の屋根を支えていた。

雨天でも屋根の下ならば雨を気にせずに湯に浸かれる仕様になっている。


不規則な形の石板を組み合わせた床は、山に沿うように奥へと続き、途中からは山と一体化していた。

木々の奥、見えないところに露天を囲う策があるのだろうか。自然に溶け込む温泉は開放感があった。

目隠しの柵の手前に申し訳程度に木々を植えるような、そこらの旅館とは作りが違う。


和泉は洗い場の椅子を一つ、カラコロ引いて自分だけ腰掛けた。


「どうする?返事は」


「返事はと言われてもそんな。いきなり連れてこられて、困ります。第一、私には無理ですよ。だって……だって、死んじゃってるんですから」


もう何も生み出せないし、変えられない。

それが命を落とすと言うことだ。

今まで何十年もずっと一人で、ずっと噛み締めてきたことだ。

何も変えられない。


「雨が降っても髪が濡れないんです。汗もかけないし、子供の手も握れません。家族と話すこともできなかった。名刺だって受け取れない。それなのにどうやって働けって言うんです。あなたが私にさせたいのって人間相手の仕事でしょう?」

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